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二人の運命は二度変わる みんなのレビュー

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紙の本

原作題名をこのように変更することの意味を見出しにくい

2010/10/09 13:46

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「ライブラリー・オブ・アメリカ」のマーク・トウェイン「ミシシッピ・ライティングズ」の巻に、4つの長篇のうちの1つとして収録されている。
 かつて原題の直訳で『まぬけのウィルソン』とか『ノータリン・ウィルソンの悲劇』などと訳されているが(内容は変わりないと思うがアメリカ版には「悲劇」がついている)、本書はストーリーに合わせた邦題にしている。
 予備知識なしに読んだせいもあるが、なんとも不思議な小説だと感じ、興味もそそられた。黒人の血が16分の1の召使いが、将来奴隷として売られずにすまそうと自分の生んだ赤ちゃんを主人の赤ちゃんと入れ換えてしまい、彼女以外誰も知らないまま時がたつ。ひねくれて育った黒人のほうの青年(ただし黒人の血は32分の1)が育ての父を殺し、無実のイタリア人が裁かれる法廷で、南部のその町で馬鹿にされている弁護士のウィルソンが当時としてはまだ珍しかった指紋を証拠に真犯人を暴く。
 おそらくこの小説は、ほら話的な装いをもつことで、黒人の血が流れている青年が、他の理由は特にないのに、ひねくれた馬鹿ものに育ってしまったという物語に意味あいを生じさせているのだろう。
 この小説が書かれたのは1894年であり、描かれているのは南北戦争以前の黒人奴隷の時代である。たとえばグリフィスの『国民の創生』は1915年につくられた南北戦争とその前後を描く大作であり、当時大ヒットした。だが現代では、その黒人差別への批判感情が一般的だ。この映画においては、すべてではないとしても黒人は〈悪〉として描かれている。また白人が黒くドーランを塗って黒人を演じていることもあり、印象が一段とよくない。作者(監督)は黒人を解放させようとするアメリカ北部と北軍に対し批判的だ。南軍将校の息子だったグリフィスは南部の視点ですべてを描いている。
 『国民の創生』の圧倒的な受け入れられ方を見ても(受け入れたのは南部に限らない)、19世紀末や20世紀初頭において、まだまだ黒人への差別は今では考えられないほど強いものだったと推測せざるをえないのだが、そのなかで『まぬけのウィルソン』(『二人の運命は二度変わる』)の主人公はどのように読まれたのだろう。
 冷静に考えてみると、主人公の母子を黒人の血が極端に薄い混血にしたのは、取り替えを周囲に分からなせないためのストーリー上の要請かもしれない。現実には混血の度合いによって、白人側の差別も異なっていただろうし、黒人側の意識もさまざまだったと考えられる。
 この物語において、主人公は小さいときから白人としてわがままに育てられたため、どうしようもない悪たれになったというようには書かれていない。むしろ黒人の血がまじっているために悪くなったというふうに読もうと思えば読める。白人であった主人のほうの子はおとなしく、取り替えられず白人のままなら悪たれに育ったようには描かれていないからである。
 したがって当時、この本を読んだもののなかには、黒人の遺伝的劣等性を読みとろうとしたものがいたろう。だが同時に、この物語に通常のリアリティがない分、そうした読みとりの無効性が突きつけられる気がする。白人として生きていた主人公が一夜にして自分が黒人であることを知るというのも不条理そのもので、この小説を当時読んだ白人の思いを忖度するのは意外に難しい。『国民の創生』のような単純な物語と比較することが間違っているのかもしれない。
 この小説の奇妙な構造もまた、単純な小説世界への没入をふせいでいる。小説のタイトルになっている弁護士ウィルソンも、二人のイタリア人貴族も(こちらは『まぬけのウィルソン』と深くかかわりのある別の小説の登場人物でもあり、この小説は日本版「マーク・トウェインコレクション」第1巻『まぬけのウィルソンとかの異形の双生児』に収録されている)、取り替え劇の根幹と結びついていないため、変な違和感につきまとわれる。
 それにしてもウィルソンの描出が弱い。翻訳のせいで、なかなか読み取れないのかもしれないが、タイトルロールの魅力はまるで感じない。
 この小説のなかで輝いているのは、将来のことを考え赤ちゃんを取り替え、そのためわが子をわが子と呼べず、だがそのわが子が成長して自分を卑しむやいなや態度をがらりと変えて、彼の行動に指針を与え、また息子の危機に対しては、その身を犠牲にしさえする黒人奴隷ロクサナであろう。真犯人がわが子と知らず、元主人の死を深く悼み、犯人の絞首刑を望んでいる法廷の黒人席に座る彼女は痛ましい。
 今回、本書の訳に疑問を感じ、先行する二つの訳を参照したのだが、特に彼女の話す部分を読み比べた。感じたことをいうと本書の訳は、1994年刊の『まぬけのウィルソン』に見られる「なるだよ」「やるだ」といったルーティン的な「だよ」言葉でこそないが(時代劇で農民がこうしたしゃべり方をするのを見るたびにうんざりする)、1966年刊の『ノータリン・ウィルソンの悲劇』(中央公論社版『世界の文学53』所収)の彼女の言葉のような勢いがない。
 本書は地の文を「ました」「でした」で通し、のどかな効果をあげている。なんとなく語り手の存在を思い浮かべてしまうが、見えるかたちで語り手がいるわけではない。
 気になったのは、訳注の処理である。いくつかの箇所で原文の読解をしているのは面白いと言えるが、原文にあるのか訳注なのか判読できないところが多数あった。私はそういう翻訳を評価できない。新しく出た本なので読んだのだが、正直に言えば、『ノータリン・ウィルソンの悲劇』の訳で読みたかったという気持ちにとらわれている。

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2022/05/15 11:49

投稿元:ブクログ

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