紙の本
「由熙」の主人公と彼女を比較すると面白い
2023/12/04 09:45
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
芥川賞を獲得した「由熙」が1989年に発表した作品で、「刻」が1985年の作品、この作品の方が4年先にこの世に出ている、どちらも在日韓国人が母国に留学するという話なのだが、「由熙」の主人公に比べると、「刻」の彼女はかなり擦れている、というか、まあ、日本とか韓国とか堅苦しく考えていくことにかなり疲れてきている。「由熙」の主人公は生真面目に「在日韓国人としての私のアイデンティティは?」と真剣に考えすぎることによって、逆に自分を見失い日本に帰ることになってしまった、おそらくは、彼女よりも年配の「刻」の彼女は、「在日韓国人としての私のアイデンティティは?」と真剣に考えて悩む私をもう一人の自分が笑って観察しているという醒めた状態で日常を過ごそうと努力しているのだろう、たまには壊れることもあるようだが
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主人公は書き出しの辺りで、鏡に映った、化粧をし化粧をされる自分を見ている。これは小説を書き、書かれる自分ということだ。主人公は小説の終わりに再び化粧を始めるが、これはまたもやエクリチュールを生産してしまうという意味だろう。
それから、主人公の鋭い聴覚は時計の針が刻む音に敏感に捉える。歴史と現在にいる自己を一瞬一瞬強烈に意識させられている。日本があり韓国があり、日本で生まれた在日の自分がいま韓国にいるという現実である。また生理痛や汚いもの、気味が悪いものへの嫌悪を通して私たちの身体感覚に訴えかける。不幸なものと呼ばれる対象への屈折した興味も性的なイメージの力を借りて描かれる。これらすべて、主人公が「物」と呼ぶものである。その「物」と相対している自己の中には無数の一人称があり、それらを三人称化して見つめるより高次の私が小説を語っているのだが、その私も時として一人称の呪縛にとらわれてしまい、淀みなくいまを過ごすことはおぼつかない。悪夢としか言いようのない現実と人間と小説の真実に限りなく迫った作品である。
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多分に私小説。ソウルで語学や踊りを習いながら暮らす日々の閉塞感……というか何とかしたいけど何ともならない気持ちが描かれる。全体に灰色がかったような世界。読んでいても苦しい。
この灰色がかったもどかしさは「在日」特有のものなのだろうか。母国と慣れ親しんだ暮らしがある国とが違い、さらにどちらの国の人間という意識もいまいちもてず「在日」というところに拠点をおこうとしながらも、その立場の弱さに煩悶するというような。
李恢成といい、この李良枝といい、少し下って鷺沢萠といい、根底にあるもどかしさは共通しているような気がする。彼・彼女らはなぜこうも煩悶するのだろうかと、その立場にない自分としては思う部分もある。
現代の在日作家で私が思い浮かぶのは深沢潮かな。『緑と赤』は少しもどかしさを描いている気がするけど、あれは私小説の路線とは違うだろうし、どこか「負(というのは語弊もあるだろうけど)の遺産」的に扱っていた「在日」というものが変わりつつもあるのだろうか。