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ペリーが下田にやって来た時代のアメリカへのレポートには男女混浴の絵がある。下田浴場。日本人は毎日入浴している清潔好き。欧州の人は一生に風呂に入らないものもいる。
日本人は当時裸であることが恥ずかしくなかったのだ。1860年ごろ。時代劇では恥らっているが、、
外国人にとって公衆浴場は訪日したのなら必ずチェックしたい観光名所のひとつになっていた。
西洋人にとっては男女混浴は淫乱だった。
明治政府は裸体を法律で抑えこんだ。そして公的機関もパンツの着用を啓発するようになった。つまり女性がパンツをはいていなかった。
この辺りから裸を恥じるようになったのだ。
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少なくとも江戸時代後期の頃、日本に混浴や男女共に道端を裸で歩くことが当然な社会があったて、どうして現代の裸を隠す社会になってしまったかについて書かれた本です。
今まで知らなかった当時の文化や常識について、そして常識が変化していく過程とその社会背景、常識の変化が与える他の価値観やら文化への影響についてかなり調べごとして書いてあります。
お風呂とか混浴とか女性の裸体が好きな方に限らず歴史の動きとかが好きな人とか周りの目が気になって仕方のない人にもお勧めします。
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まあ、タイトルで買っちゃうよね。推論の部分は結構あやしげなところがあるし、社会制度の虚構性を言うために「唯脳論」を持ち出したり「羞恥心」という言葉を性的な意味に限定したりする必要性はよくわからないのだけど、江戸から明治にかけての裸体や混浴に関する資料が面白かった。江戸時代に裸が顔のような存在だったとして、じゃあ古代・中世はどうだったんだろう?
と、amazonを見たら小谷野先生が厳しい書評を書いてますねぇ。とりあえず渡辺信一郎は読んでみよう。
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日本人の羞恥心の変遷を多くの資料から跡づけたもの。幕末に日本にやってきた外国人たちは日本人の混浴におどろき、賛美するものもいるが、その多くはこれを野蛮とみなした。その結果、明治政府は混浴や裸を取り締まるが、それは容易に実現できない。著者の論をかりれば、日本人は裸体を顔の延長と考えたし、裸体を取り締まることで逆に、人々の性的興奮を高めてしまった。井上章一さんが『パンツが見える』でも論じたように、隠すことで逆にいやらしさをかもしてしまうのである。本書最初の混浴の図をめぐって、著者はこれは不思議な図であると、読者の注意を引こうとするが、それはこの図がおかしいという結論があって言えることで、実際にはこの図は正しく当時の混浴、当時の日本の風呂の中を伝えているのであるから、この導入はまずいのではないだろうか。
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西洋人がやってくるまでは恥ずかしくなかった裸。街中でも風呂でもあちこちで普通に存在していた裸。
日本人にとって裸=性行為ではなかった。
それが西洋人が来たことによって瞬時に変わってしまった。
意識はヒトの目が作る。
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[来年おわるまでに500冊よもう!]
4冊目
うん、ひさしぶりに難儀でない本を読んだ。
つまり、とくに専門的な知識がなくてもわかる本を読んだ。
このような本の場合、
つっこみどころ満載~という感想になる。
たとえば、「唯脳論」や「裸体は、顔の延長」。
前者は、なぜとりあげたのかすらわからず、
後者は、わかるようでわかんない。
江戸時代の人々の裸体に対する意識の「推測」にすぎないので、ムリもないかもしれない。
また、一つの論を補強するための例が多すぎる。もう少し簡略化してもよいのでは。そうしたら、おそらく半分のページですんだだろう。(エコにつながる!)
ときどき、文章から、この著書おもしろい人かもしれないと思った。顔写真から推測するに、たぶん、おもしろい人。
amazonのサイトで小野谷さんという方が(すみません、存じ上げません)、
この本を痛烈に批判しているのだけど、
「(経歴不詳の著者に対して)出身大学くらい書いてほしいのだが」と述べている。
このような一義的なとらえ方でしか人を判断できない人は、いつまではびこることになるのだろう。東大出が果たして、どれだけ社会に貢献しているというのだろうか。
興味のある方は、ぜひうえのamazonのサイトからどうぞ!
*0*h図書館
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幕末に日本に来た外国人たちがビックリしたもの、それは裸でうろつく日本人たちだった。混浴の公衆浴場、外から丸見えでもおおっぴらに水浴びする娘たち。コンクリートジャングルの今の東京では想像できない、オープンでおおらかな時代だったみたい。亜熱帯化にともなって、裸バンザイ文化にゆるりと逆行してほしい。
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黒船来航までは裸は恥ずかしくなく、若いお嬢さんも道端で行水してるが当たり前だったそうで。明治維新で西洋人を意識して混浴や裸体を政府が禁止したところ、隠すほどセクシーに感じて、日本人の意識が変わったそうです。肌を隠すのは日本人の伝統的なたしなみと思っていたんだけど、意外と近代の流行なんですね。
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いまから、150年ほど前までは、"はだか"は顔の一部だった。プライバシーなどない。それがふつーだった。勿論、時と場合によって様々だが銭湯が混浴であったり、家の外で行水もふつーだった。暑ければ服を脱ぐ、それが日本人の姿だった。しかし、幕末欧米人が日本に入ってきた。彼らはいまの僕らと同じ感覚で当時の日本人を見ていた。日本人同士ではさほど気にしないが、外国人の目を気にするようになり、羞恥心が生まれた。それ以来、次第にはだかを徹底的に隠すようになり現代に至る。これが良いか悪いかは賛否あると思うけど徹底的に隠すとそれはそれで問題が起こるのも事実だと思う。
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裸体が自然物として存在する限りにおいては恥かしさは生じない。隠そうとするから恥かしさも生まれるという話。西欧近代の裸へのまなざしの複眼性(要するに「けしからん」けど「のぞきたい」)に注意を促す。
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この本の中で印象に残ったのは、性を管理する手法に2種類あるという主張。一つは性を徹底的に隠す方法。もうひとつは性をオープンにして日常品化する方法である。
西洋社会は前者を選択し。江戸時代までの日本は後者を選択していた。江戸時代の社会では裸体は社会風景のひとつである。恥じるべきものではなかった。つまり、日本で裸がはずかしくなったのは明治以降の西洋思想が入り込んできたからという。
納得できる仮説だ。
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羞恥心や性的刺激は後天的に獲得されるものだという事が改めて分かった。時代や文化により、そして「見るなの座敷」的な好奇心を扇状する事により、性的関心のラインは変化し、同時に羞恥心も湧き上がる。自然に男女混浴していた日本人が、やがて履いていなかったパンツまで性的関心の対象になった。
隠そうとすればする程、日常見られぬ事からその対象に特別性が生まれ、それが刺激対象となる、という事は、経験的に分かる気がする。読みながら、人間の脳がそのように塑性変形して刷り込まれていく事は、被服の割合に関わらず、様々な事に言えるのだろうなと思った。著者は養老孟司の言で、脳化社会と呼んだが、寧ろ、逆である。脳が社会を作るのではなく、社会に脳が変化させられる。ならば、起点は何なのか。混浴の終わりは外国人による好奇の目や、欧米化を目指した法制度による。現代社会には、テレビやインターネットもあるから、CMなんかを多量に流し、文化範囲における脳を同質化させる事が比較的容易。今や、場違いな喫煙者は異常性と嫌悪感を持って扱われるだろう。この嫌悪感も、羞恥心同様、脳が後付けで変化した故だ。
バイアスを生み出す、脳自体が塑性変形させられている可能性を見抜かねば、スリードがB層として馬鹿にした無知な大衆層となり、数のみが社会的価値とされる存在に成り下がる。恥ずかしいのではない、恥ずかしいと思い込むように、インプットされたのだ。