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ここではないどこかへ、
旅することが生きている証、
土地に、家族に、仕事に縛られた日常を捨て、
路上に出る。移動していないと、魂が澱む感覚。
しかし、そんな若者も何年か経ると、だんだん周囲の仲間は落ち着いた生活に移行していく。世間とのギャップが大きくなっていく。
それでも、歩みを止められないディーン。
確かにイカレている。でもきっと流離う事が呼吸することと同じで、止めたら彼は死んでしまうのだろう。
ディーンのイカレ具合には共感はできないけど、
流離の旅は哀しくも光り輝いている。
これがビートということか。
僕も予定の無い旅に出たくなった。
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ディーンの狂った感じ。最後の燃え尽きてしまった感じ。こうはなりたくないなと思うけれど、こんな生き方をしてみたいとも思う。旅に出たい!目的?知るか!
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とにかく走る。止まることなく走る。500ページ近く、休みなく走り続ける。
ストーリーはないに等しい。ただひたすらに旅をしているだけ。
だけど、読んでいるうちにいますぐにでも飛び出して、自分もどこか遠くへ行きたい、行かなくちゃ、という気にさせられる。
疾走感と躍動感に溢れた作品で、否応なく読者も旅に連れ出される感じは、主人公が友人のディーンに振り回されるのとどこか似ている。
この小説は、10代のうちに出会っていたかった。
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何かの書評を見て手にとってみたが、頭の中に思い描いていた旅行記的内容ではなくドロドロとした日常を引きずった重苦しい物語だった。ただあとがきにある、「オン・ザ・ロード」はストーリーの無い小説である。どこから読んでも構わない。どこを読んでもかまわない。さながら長詩のようである。はこの小説をズバリ言い当てているなと思う。何回読み返すのがいいのかな。
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ここではない何処へ行くために、故郷を捨て路上に立つ。
主人公サルと悪友ディーンがアメリカ大陸をアクセル全開でぶっ飛ばす疾走感と躍動感がたまらなく魅力的だ。
さらに、ケルアックの言葉の選び方がとても巧みで文中には「beat」が「へとへとに、くたびれた」を意味する形容詞として多く使われているが、たまに相反する「躍動」するような意味でも使っている。「ビート・ジェネレーション」に「だまされてふんだくられ、精神的肉体的に消耗している世代」と、「恩寵をうけた聖者のような至福の世代」といった両極端の二重定義を持たせているとは驚いた。
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福田実という人がこの本を「路上」として翻訳してから数十年。
とうとう新訳版として再翻訳されたので、また読んでみた。
やっぱり名作。
旧訳よりは、幾分読みやすい。
これ読んで旅がしたくなるミーハーは多いはず。自分も含め
ただ、旧訳版はジャックケルアックの「ON THE ROAD」って本を、日本で邦題「路上」として定着させたのです。
これは偉業といっていいぐらいなのに。
新訳でそのまま「オン・ザ・ロード」て邦題で訳すなんて。
それはないよ青山南さん
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最近村上春樹しかよんでいなかったので、違うものが読みたくて今よんでいる。その割にはあまり村上春樹の小説とあまり違わないような気もする。どこが違わないのか、というと難しいけれど。それはともかく今のところ面白くよんでます。
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2013.10.08読了。
今年37冊目。
正直好きになれなかった。
期待外れかなー。
女の私から見たら、(しかもある程度大人になった私から)ディーン・モリアーティの魅力が全くわからず笑
マリファナやって、女ったらしで、奔放などうしようもないディーンは男性から見たら憧れなのかもしれないけど。
ただめちゃくちゃやってるだけで、旅の内容も明るいわけじゃないしで、面白さを見出せず読むのに一月半かかってしまった...
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最初のあたりは、第二次世界大戦後の世界中が苦しんでいる時代にアメリカのインテリが旅して青春する呑気な話かな?と思いあんまり好きになれかった。しかしヒッチハイク中に年をとったハイカーを見送る眼差しがアメリカの弱者に対する悲しみであると気がついた。主人公の「サル・パラダイス」という名前はアレン・ギンズバーグが詩の中で「sad paradise」と綴ったことに由来する。後半は狂ったディーンとの話がメインになる。悲しいディーン、そして悲しいサルに残された美しい物語であった。
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映画を観る機会に小説もと思い立って。若いうちに読んでおかなかったのは失敗かと思っていたけど、まるでディーンとサルが夢中になる音楽みたいに、キラキラと光りながら読む者を流れに乗せてどんどん運んでいくような文章は、やがてスピードをあげ、疾走し、しかしその合間に、ふっと視線を遠くに漂わせるような時間が織りこまれる。
たとえば、はじめてデンヴァーに出かけたサルが谷間で過ごした狂騒の一晩の間に、ふと滑りこむこんな文章――「夜のかなた、大平原の東の方から白髪の老人が言葉をたずさえて僕らの方に歩きだしているような気がした。追いつかれたらたちまち僕らは沈黙させられてしまうだろう」。(p.89)
音楽、旅、酒、女の子。この本の中でしか出会わない1940年代末のアメリカの姿。その先頭を疾走するのが、ピュアで狡くてクレイジーなディーンだ。「長いこと行方不明の兄かなにか」のような気にさせる、「邪魔したくはない、ただ後をついていきたい」(p.211)と思わせるディーン。
だが、サルが作家しての成功をおさめはじめ、一方でディーンのウソで固めた二重の家庭生活が破たんを来たしはじめるなかで、サルは、彼が実際には自分より5つ年下であること、彼の行動に怒りと嫌悪を抱いている自分に気がつき始め、だからこそ、この頃からディーンの姿はいっそう聖性を帯びて輝きはじめるのである。
ディーンを聖なるペテン師と呼び続けるサル=ケルアックは、自分自身の狡さと冷酷さをはっきりと書きはしないが隠してもいない。そう、彼はしょせん、黒人になりたいと思う白人にすぎない。バーではあれほど光り輝いて見える彼らの重荷を背負う覚悟などないことは、当人がいちばんよくわかっているのだ。
終わりは哀しくて残酷だ。それでも路上の光景はなお光に満ちて人を旅に誘わずにはいられない。美しすぎる小説。
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ストーリーらしいストーリーはないが、それがこの小説のらいいところなんだろうと思う。読むのは凄く大変だったけど、アメリカンニューシネマを見てるみたいで心地よかった。主人公や相棒ディーンのキャラクターはイマイチ好きにはなれなかったが、ヒッチハイクで旅をする路上暮らしに憧れる気持ちはわからなくもなかった。
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ギターの音色がした。テリーとぼくは並んで星を
見上げ、キスをした。
「マニャーナ(明日)」と彼女が言った。
「明日はなにもかもうまく行くわよ、
でしょ、サル、好きよ」
「うん、そうだ、マニャーナ」
いつも「マニャーナ」。
つぎの一週間もしょっちゅう耳にした―
「マニャーナ」は美しい言葉、意味はたぶん天国だ。
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たしかにすごい小説だと思う。何といっても筋がない。文章のテンポというか気分のようなもの、雰囲気がすべて。ある意味3週間で書いたというのは本質を突いているかもしれない。
どこからでも読めて、読んだことを忘れて、それでもいい、そんな本。
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戦後アメリカの合理性、消費主義的反映への、カウンターカルチャーとして。
on the road.
つまり、旅の道程そのものが目的であって、
順応しないこと、反逆し続けることが人生だってことを
全力で伝えようとしている。
路上は、安住の逆。
いつも、チャレンジし続けること。
道があるかぎり、どこまでもいけるから。
「いいね、いいね」
ディーン・モリアーティの口癖。
ぜんぶを肯定すること。
おもしろがる力。
これはまねしたい。
心に、自分のスターを見つめ続けながら
旅をすること、それが人生、なのかも。
「魂について率直に語るべきだ、人生は神聖で、一瞬一瞬、貴重なのだから」
「ああ、またしても、路上に出てしまった」
「路上こそ命なのだから」
「この先もまだひどい道だが、行かねばならない」
「世界だよ!道があるかぎり、まっすぐ南アメリカまで行ける」
「誰にも、これからどうなるのかはわからない、見捨てられたボロになることしかわからない」
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524ページ。3日で一気に読んだ。
ケルアックが20日間で書いた様に、ほんとに一気でスピードで読んだ。
イーディの部分は削除されてしまっているけど、一気に走っていくジャックは虚さと淋しさの中にいたんじゃないかな。
「デンヴァーまで来て、デンヴァーまで来て
ぼくは死んでばかりいた」