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ケルアックはこの作品を執筆する時、紙をテープで長く長く繋げたものを用意した。そしてそこにどんどんタイプしていったので、出来上がった原稿はぐるぐる巻きの長大な巻物のようになっていたそうだ。
広げればきっと巻物ではなく、白い1本の道に見えたに違いない。その紙で出来た道の上を、ケルアックは自分の言葉と共に旅した。
だからこの本にストーリーはなくドラマもなく、ひたすら行き当たりばったりだが、元々行き当たりばったりの旅を書いたものなのだから恐らくこれ以上の書き方はないだろう。
4年で変わっていく人と変っていく風景。終盤に向かうにつれ帯びていく哀切な感じがたまらない。失われていくものはいつも美しくみえる。
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一緒にいると何か楽しいことが起こせそうな友人への讃歌、親友への倦怠感、旅の喧騒と孤独感…清々しさや切なさやわくわくが、体当たりでぶつかってくる文体。
ボブディランの人生を変えたと言われているけれど、大学時代はこの自由な生活に憧れてた。
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[ 内容 ]
若い作家サルとその親友ディーンは、自由を求めて広大なアメリカ大陸を疾駆する。
順応の50年代から叛逆の60年代へ、カウンターカルチャー花開く時代の幕開けを告げ、後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書。
バロウズやギンズバーグ等実在モデルでも話題を呼び、ボブ・ディランに「ぼくの人生を変えた本」と言わしめた青春のバイブル『路上』が半世紀ぶりの新訳で甦る。
[ 目次 ]
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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ビート・ジェネレーション――――ただ楽しいことを求めて、決まった職に就かず、多くの女性と関係を持つ。
この小説は、何も得られないその何かをロードで探す、サルとディーン、ビートな二人の物語。
ページを捲れど捲れどまだまだ続く広いアメリカの大地。あたかも途方にくれただだっ広いプレーンに立ち尽くすヒッチハイカーになったかのような気持ちが味わえる一冊。
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福田訳の「路上」と比べると今風の口語で砕けているのでケルアックっぽいのかもしれない。しかし、そのケルアックの作品も既に60年も昔のもの。あまり今風でも気色悪い。昔の若者が書いた作品らしい褪せたような風合いがもう少しあってもいいかな。
とはいえスクロール版にはこの青山訳の流れるような文章がピッタリだと思う。
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何かを求めているわけじゃなく、ただ単にじっとしちゃいられないという焦燥と衝動そのものが目的の路上の旅。
とんでもねーな、と。
青春なんてとっくの昔に、自分の中では「無かったこと」にしてタンスの奥底に鍵かけてしまい込んだので、大抵のことじゃいちいち傷つかなくても済むくらいにはおじさんになってしまった僕ですらそわそわしちゃうんだから、当時の若者が脳天かち割られたのも無理ないね。
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うーん、当方もすれてしまったかなぁ、、、面白くもなんともなかったな。訳文もいまいち。
人生に甘えた子供たちの逃避行ってやつかなぁ、もっと幼き頃に出会うべき本なのかもしれない。
ただ収穫はアメリカって国が途方もなく広く異世界を内包しているように見えて、実のところアメリカ的なる価値観が一貫して共有されているということが再確認できたことかな。
まぁ国土の狭い日本では出てこないであろう作品かとは思います。
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だまくらかされてふんだくられたへタレの世代
本書の解説によれば、「その言葉はドラックの世界では特別な意味がある。だまされる、とか、ふんだくられる、とか、精神的肉体的に消耗する」ということらしい。
作者のジャック・ケルアックは『ビート・ジェネレーション』の名付け親であり、1957年にアメリカで刊行された本作品はその聖典として今もなお語り継がれている。つまりは新しい読者を獲得し続けていること。私事で言うと、ボブ・ディラン、佐野元春といった主に音楽方面から彼の名前を知ったんだけど、ロックにはビートが不可欠だし、彼らは1960年代のカウンターカルチャーの先駆けだった。
ところで、その時代時代の若者たちに対して、やれ“失われた”、“狭間の”、“新人類”だの“ゼロ世代”、“レス・ザン・ゼロ=ジェネレーションX”とレッテルが張られるのは、それだけ青春という刹那に対して永劫という刻印を押し付けたい人間(近代?)社会の衝動というものがあり、それぞれが代表作という結晶化したもの擁しているんだけど、どれを手にしてもそこに書かれているの僕らにとってかけがえのない人間たち、「なによりも狂ったやつら、狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救われたがっている、何でも欲しがるやつら」のこと。
本書のディーン?モリアーティは浮浪者でアル中の息子、煮えたぎる血を抑えられないがゆえにドラックに頼り、ショーペンハウワーの二分法とか口にしながら、「自分が何を言っているのか、ぜんぜんわかっていなかった、要するに、本物の知識人になれるかもしれないという素敵な可能性にとりつかれた少年院出のチンピラ」、一つのホテルで部屋を行き来し複数の恋人たちを逢瀬を重ね、三度結婚し、二度離婚、最後には二度目の妻と二人の赤ん坊と暮らすことになる、そんな「聖なるマヌケ」に惹かれ、一緒に旅するのが本書の「ぼく」、作家のサル・パラダイス。
「こんなぐちゃぐちゃの手書きの夜はぼくらにはとても読めなかった」と溜め息しつつディーンとサルは、目の前にある「でっかく荒々しく膨らんで広がるぼくのアメリカ大陸」を「飛ぶようなものすごいスピードでひゅんひゅんいきながら爆走」していく。
4部構成の本書は分厚いけど、読み進めて行く時間はあっという間だったような気がします。
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沢木耕太朗の「深夜特急」の解説かどこかにこの本が紹介されていたので、読んでみることにした。
が、、、
20代であろうと思われる主人公とその親友の、あまりにも無茶ぶりについていけず、とにかく読み終わることだけを考えて読んだ。
広いアメリカも、がんばって運転を続ければ1,2日で横断または縦断できるらしいことはなんとなくわかった。
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翻訳の妙もあるだろうが、非常にみずみずしい文体。第一部の最も良いヒッチハイクはまさしく二十代前半の青年が感じたままに表現されており、遠心力に魅力された。
当初一緒に馬鹿騒ぎしていた仲間が、次第に家庭を持って落ち着いていく中で、サルとディーンはしばらくそれまでと変わらない生活をしているわけだけど、昔の仲間から説教されるあたりからちょっと読むのが辛くなってきた。あと、正直ジャズ演奏のシーンは後のほう多少読み飛ばした。
大らかな時代背景と、とにかく何かやらかしてみたい若者の無鉄砲な衝動が見事にマッチして、ケルアックの類い稀な言語センスで表されていた。
ただ、ストーリー展開が特にないのに長いし、馬鹿騒ぎがメキシコまで続くのは途中で閉口した。
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「心を自由に脱線させろ」という精神に感動した。この本を読めば自由とはどういうことかがわかる。ディーンというクレイジーなやつが出てくる。車をぶっとばして運転する気違いだ。だが、それがビートニックの世代の憧れになった。なぜだろうか。
時代からすればおかしいやつがいる。だが、後からみれば時代を先んじていた。その時々でみれば普通ではないかもしれないが、実は本質的だったということがある。
craisesというムービーを最近みた。アップルが作成したCMだ。歴代の偉人の写真が流れる中で「四角い穴に丸い棒をいれるような考え方の違う人間」がいると述べ、最後にthink differentという言葉で締めくくる。
ディーンもそういうタイプの人間だ。お仕着せがましい時代の空気を拒否し、自分のしたいことを徹底的に追及する。生きることにかけて、究極のアーティストだ。いまこの瞬間に本当に自分のやりたいことをしている人間だ。
ひとところに留まることができないタイプの人間はいる。小さいころのjoi itoさん(MITメディアラボの所長)はよく幼稚園から脱走していたそうだ。その後も、DJになったり起業をしてみたりとバイタリティにあふれる。家入かずまさんもそのタイプだろう。次々と事業を起こす連続企業家だ。人生を駆け抜けるテンポのいいリズムがある。目の前のことに夢中になり続けた結果だろう。好きなことをしているから、普通の人よりも自分から掘り起こせるエネルギーが多いのだと思う。
バイタリティのある人というのは社会で重宝されがちだ。よく働くという意味もあるだろうが、好奇心にあふれていて、他の人ができないようなことを次々とやっているというニュアンスだ。自分から何か行動している意味でもある。なんとなくこの言葉にいらつく。結局好きなことをしていれば、エネルギーはいくらでもでてくるものだ。それが見つからないから持て余しているわけで、できることならずっと好きなことをやり続けたい。好きなことをやっている時にはいろんな発想がわく。ああすればいい、こうすればいい、なんでもできるような感覚になる。これが仕事ではなかなか発揮できない。なにかが邪魔している。自分は職場ではバイタリティのある人間ではないが、本来はエネルギーにあふれているはずだ。それを実行できないからバイタリティのある人がいいという言葉にイライラするのだ。そうありたいと思いつつ、それができない。むしろ、普通にやっていればできるのに、なぜかできないといった感覚。イップスみたいなものだ。イップスを直すには、基礎をしっかりと固めることと、できるということを感覚的に掴むことだ。そのための準備やトレーニングをしたほうがいい。
バイタリティについては、やりたいことの方向性さえきまっていればいい。頭が働いてる、働いていないはさしたる問題ではない。自然と頭は動いてくる。目の前のことに対して自分はいったいどんな方向性で価値をだしたいのかよく考えたらいいと思う。それが企画の種であるし、こういう日々の積み重ねがいい企画をつくるための努力だと思う。バイタリティのある人間とは、企画力と実行力のあるクリエイティブな人間のことだ。大事なのは方向性をきめることだ。
ところで、やりたいことの方向性はどのように決めるものなのだろう。思い付きであれをやりたいこれをやりたいというのはなんとなく弱い気がする。それでそこそこ自分としては楽しくやってきた。しかし、それをビジネスで実現しようとすると、まるで幼稚な遊びのようになってしまう。方向性がずれていることもあるが、より問題なのはベクトルの大きさだ。これをやりたいという気持ちが弱いのか、ビジョンが明確でない場合が多い。もっともっと想像力を膨らませてこういうことをやりたいと語れないといけない。ウォルトディズニーは、ディズニーランドをつくるにあたって、詳細な絵を描いていた。それは世界のだれもみたことがない光景で、だからこそ他人に伝わる形でスケッチを残していたのだ。何か形にするということは自分の想いを明確にするという意味でも大事だ。
では、今の時代の本質をついた行動をしているのはどんな人か。
クレイジーなやつについていくところがいい。
傍観者ではない
観察者でもない
心を通わす
主人公は
joi
好きなことをしている
脱走癖
受験の時には学校にいるのが嫌ですぐに早退していた。大学の授業もなるべく行かないようにしていた。Youtubeをみて好きな音楽を聴いていたり、本を読んだり、なるべく文章を書く授業をとってパソコンに向かっていたりしていた。受け身で知識を得るのはあまり好きではなく、自分の好きな内容に取り組んだり、何かをアウトプットできる環境に身を置こうとした。受験でひたすらに学習指導要領に従った知識を詰め込んだからお仕着せの知識に飽き飽きしていた。
人とのつながり
会ったことのある人
文化的な人、ビジネス系の人、コンサル、広告、マーケ、テレビ、ディレクター、映画監督、普通の女の子、キャバ嬢、ウェブ、IT系、エンジニア、デザイナー、漫画家の卵、医者の卵、金融、経済、本好き、海外、アメリカ、メキシコ、数学系、サーファー、野球、サッカー、コンビニ、現場、経営者、
会ったことのない人
アーティスト、歌手、科学者、VC、アナウンサー、解説者、コラムニスト、編集者、異常な人、本格的なオタク、ギーク
最先端の技術、情報を知っている。
考える楽しみ
今ある人のつながりを活かして、何かを生み出すという意識を持つことが大事な気がする。結構広がっているから、それを使う時期にきている気がする。組み合わせがないから面白味を感じないのかもしれない。
人と会うにしても自分より年齢が上の人と会いたいという気持ちはある。同年代と話していても愚痴か夢(妄想)になりがちだ。現実的で実効性のあるアドバイスをもらえるのはいろいろな経験を積んだ人という気がする。
ギーク
家入
連続企業家
自分のできることでしたいことをしてきた
マーケット感覚
無意識
異界と接する
他者意識
スピード感
移動し続ける。この意味では村上龍著作の歌うクジラに似ている。この本では、移動をし続けることが生きるための方法論として大事と述べている。主人公は何かに導かれるように、色々なところに向かう。その時々で様々な��のに出会う。それが自分の中に情報をためる手段なのだ。
移動の象徴
明日はきっといい日になる
移動していたら希望をもてる気がする。
移動といっても、単純にそれだけではだめで、移動の垣根を破壊するような行動を伴わないといけない。
男性性
切断すること
何かを切り捨てたことはあるか
民話、神話
父殺し
疾走感
人生は駆け抜けないと
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1947年〜のアメリカを舞台とした ヒッチハイク旅の自伝的小説。「ロード(路上)とは何か、ロードは何を得て、何を失うのか」が、この本のテーマだと思うが、初読では 理解できなかった。
ロードの反対概念からアプローチする方が この本のテーマに近づけるかもしれない。ロードの反対概念は、家、家族、財産、労働、既存文化、集団社会 あたりだろうか。
ディーンが ロードそのものであるなら、ロードとは「若者が生きる場所」「アメリカの新しい姿」とかなのだろうか
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最初、なんの話かよく分からず読み進めました。まず背景が全くわかりません。登場人物の社会的な立ち位置。遊び方。ドラッグの扱われ方。お金の感覚も、日本人のそれ(少なくとも私のそれ)とはかなり違うようで、すんなり入ってきませんでした。訳が分からない金の工面の仕方とか、親戚、知人との距離感とか。
しかし後半から、この物語が描こうとしているものの輪郭が見えてきた気がしました。もう少し正確に言うと、上で述べた違和感みたいなものが気にならなくなった感じです。ただ単に私がこの世界に慣れただけかもしれません。そうすると、見えてきたのが、ディーンの象徴性や、メキシコやロードのメタファー、この世界の中での主人公の立ち位置といったものシルエットです。
そうなると、この物語が魅力的に見えてきました。
再読すると、前半部分もすんなり入ってくるのではないかと思っています。
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私は旅をする話が好きだ。
高校生の時に手にとった深夜特急に始まり、ポール・ニザンからクーロン黒沢まで、多くの旅に関する本を手にとった。
本書は20世紀アメリカ文学を代表する「旅の話」である。
ヒッピーやバックパッカーのような、青年が仕事を放棄し、最低限の金銭だけを持ち、詳細な予定は立てず目的地だけを決めて長い旅に出るという現代の旅にも通じる元型を提示した作品だと感じる。
アメリカ大陸の広大さを感じさせるダイナミックな作品だが、多くの人が絶賛する割に自分はのめりこめなかった。
おそらく、旅の道中のサルとディーンのやりとり、彼らをとりまく人々との出来事が話の中心であり、街の描写や旅人が受けた印象にフォーカスした作品ではないからだと思う。
(アメリカ人がアメリカを旅する話なので当然なのかもしれないが。)
自分はどちらかというと人と人のエピソードよりも、旅人が訪れた場所に関する記述が好きで旅の本を読むのだということに気がついた作品だった。
長い旅との付き合い方は人格が出る。
多くの人々は、若い頃に長い旅に憧れ実践したとしても、定職につき年を重ねると長い旅に出る自由と熱意を失う。
だが、たまさか、長い旅から離れられずに転々と生きる人がいる。
旅の自由と旅への熱意を失った大衆は、この永遠の旅人を不適格者として見下す一方、嫉妬と憧れを抱く。
誰もがディーン・モリアーティのような生き方を避けるが、彼のようになりたいと思うのだ。
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ジャズの即興演奏のように、走り続ける話。
衰えを感じる瞬間もある。
家庭はない。
コミュニティはあるような。
でもアソシエーションじゃない。
時代精神のモニュメント。
今との距離を測り合うために読む。