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【まとめ】
死ぬのは、自分という存在、自我が消えてしまう不安がある。
でも、自我は自分以外の関係で成り立っている。
関係は究極、全時代、全世界と繋がっている。(友達の友達はみな友達的な)
だから、自我が完全に消滅することはありえない。
生きているうちに、その関係を作っていく。
また、生きるとは、ドライブするようなもの。
生きることそれ自体を楽しむのが目的。
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一般的に流布している宗教観(=宗教は妄想)や死生観とは異なる筆者の見方については、にわかに納得できるものではないものの、自身の視野を広げるには良いのでは。特に私は好んでこの類の本は読まないので、なかなか新鮮であった。「生きるために生きよ」(人生の目的とは「人生を生きること」)、「いま、生きているということを意識にしっかりと上げる」というところが本書の結論であり、印象的。私もどちらかといえば宗教が歴史的に支配を目的として利用されてきたという印象を持っているし、また特段宗教に対する思い入れもないのだが、ここまではっきりと宗教が妄想と言い切ってしまう筆者の論調はある種痛快である。
・「全ての存在は、生じることも、滅することもなし」(釈迦の教えより)
・人は恐怖を植えつけられると、他人に支配されやすい状態になってしまう。恐怖は人を支配するための、強力なツール。(例:ストックホルム症候群:銀行強盗事件で人質が犯人をかばうような言動をとった。また、人質の一人が犯人と結婚。)
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自分自身の体験上、生と死について向き合わなければならない状況が訪れた際に、偶然にも本屋に1冊だけあったこの本に出会いました。
著者は脳機能科学者でありながら、大阿闍梨の号をもち、たびたび、他の著書でも、釈迦の教えが登場します。それまでにも著者の本は愛読させていただいていましたが、命に関する著者の本は、未読であり、その考察に興味がわき購入しました。
具体的な脳科学的な見地及び物理学というカテゴリから抽象度を上げた「空」の概念・釈迦の教え・一人一宇宙といういわゆる情報空間における脳の一貫性があり、説明がついていることに驚きました。
人間であり続ける以上、「死」というものとどのように向かい合えばよいのかというニーズは今後も有り続けると思います。その問いに対する答えの正しさを追い求めるというよりも、「死」というものの捉え方の拡大という点で、この本は私にとっては非常にタイミング的にも心の支えとなり、冷静でいることへ貢献してくれました。
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「空」の概念が現代の物理学で立証されているとはビックリ。
でも話が難しくて良く分かりませんでした。。
「死を恐れない人は宗教に洗脳されている」というところを読んだ時に
一瞬ムっとしましたが、先を読んで納得しました。
本当に宗教に洗脳されている人は、トコトン怒ってこの本を批判するだろうな~と感じます。
覚醒した状態で、どのような考え方でいたら幸せな人生を生きられるか、それによって思想を選択していると自覚することが大事なんだと、苫米地氏が言いたいことと違うかもだけど、私はそう理解しました。
宗教をやっている人の独善的な考え・態度を見ると引いてしまうのは、この辺にあったんだろうと思います。
あと、人生の目的は「人生を生きること」になるほどね~と思いました。
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苫米地流「死」の解釈。著者の本の「宇宙を語る」や「般若心経」を合わせ読みするとより理解できる。
ただ量子論は自分で勉強しないとね。
最先端ってこういうことなのかとよくわかりました。
同じ「役割」をはたすなら、自分の好きなすてきな役割にしたいと思います。
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誰もが死を恐れる。自分の死を喜ぶ人はいない。自分という存在や自分という価値が消えて無くなる。その事実を人間は直視することができない。だから宗教は「死後の物語」を創作・捏造(ねつぞう)するわけだ。「死んでも大丈夫ですよ」と。しかしその安心代は高くつく。
http://sessendo.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7975.html
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死の恐怖の正体は、自己喪失感(①自分の存在そのものがこの世から無くなる②自分という存在の価値がこの世から無くなる)
アプリオリ
地獄とか極楽などという死後の世界、輪廻転生という考えは、釈迦の教えではなく、後世の人が勝手に解釈したもの。そもそも釈迦はバラモン教のカースト差別を徹底否定するためにその根源の「生まれ変わり」論を完全否定した。 釈迦が死後の世界に言及した記録が無いし、極楽浄土の思想は釈迦没後600年くらいにインドに始まり中国で開花した。つまり死後の世界について語っている仏教(浄土宗)は、仏教ではなく、「浄土教」と言える。また、釈迦はあの世の権力を人間が持つべきではないと考えていて、そのことから葬式に僧侶が出席するのを禁じた。
空観…有でもあり、無でもある。有でもなく、無でもない。「森」の定義だとか、「木」という言葉があるからそう認識しているのだとか、認知言語学みたいだと思った。
仮観…存在そのものは「空」であっても、その物事には関係性に基づく役割があるのだから、取り合えず「空」であることを黙殺し、その物事の役割を積極的に見ていこうとする。宗教とは妄想であるが、一旦妄想であることを放棄して、価値を見いだす。
中観…「空」であることを認めたうえで(ここが仮観とは異なる)、かつ役割にも価値を置く見方。宗教とは妄想であると解ったうえで尚且つその教義に価値を見いだす。
抱石葬…死者に石を抱かせて地中奥深くに埋葬する、縄文時代の埋葬。死者が甦らないようにする為と言われる=古代日本人が、死に対し忌み嫌う態度をとっていたと考えられる
アフリカのある地域では、先祖の骨を飾る習慣
西洋近代思想では、あの世の権力はローマ法王、この世の権力はキング
仏教の本来の「妻帯禁止」は、世襲禁止のため。
シャーマニズムは血縁関係を重視し先祖崇拝
般若心経について。釈迦はマントラ(呪文)を否定しているにも関わらず、般若心経の末尾にはマントラが付いている。さらに大きな間違いとして指摘されるのは「色即是空 空即是色(色とは空であり、空とは色である)」=「色(物質)と空は同じものである」という行。空が物質である、という意味不明な内容。本来は「空⊃色」という構図(「哺乳類⊃豚」という構図と同じように)。「空」とは「色(物質)=有」も「無」も包括する
真空状態を作っても、観測という行為によってエネルギーが与えられ、いつの間にか素粒子が現れる。
電子という物質(=有)は存在するはずなのに、場所を観測できるのはある確率でしか出来ない(「不確定性原理」)。則ち、質量は存在しているのに場所を特定できないので、「 有でもあり、無でもある。有でもなく、無でもない。」
日本の大乗仏教(浄土宗)において葬式を行う理由は、戒名をもらう(受戒)お祝いのようなもの。戒名が無いと仏弟子になれず、極楽浄土に行けない。そもそも日本式の仏教を信じていないなら、葬式の必要は無いし、信じているなら生きている間に戒名を貰っても良い。
ハイパーラポール…極度の恐怖臨場空間の中で、被支配者が支配者に対し協力な親近感を覚えてしまう現象。ストックホルム症候群が一例
インド密教『呪���のマントラ』
恐怖を最大まで妄想→冷静に恐怖の分析→大抵は何とかなることが分かる→「大したことないや」
俯瞰…高いところから見下ろして眺めること。鳥瞰
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あとがきより引用
過去も未来も妄想です。あなたに与えられた時間は、いま、現在というこの一瞬だけです。この一瞬一瞬を意識し、生きていることを実感して、自らの選択で自らの機能を果たすこと。それだけが死への恐怖や悩みを忘れさせ、あなたの人生を輝かせてくれる唯一の方法なのです。
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自我と宇宙が同一で自我は宇宙が続く限り死後も続くという。自我の定義が不明確だが、死後も自分の一部が何か続いて欲しいような気もする一方、死とともに一切が消えて無くなって欲しい気もする。そんなことを考えさせられた。
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見返し
死を考えることは生を考えることです。
生なくして死はあり得ません。
本書を通して死を考えることで、明日からの生き方が劇的に変わることを実感されるはずです。
死を考えるだけでどうしてそんなことが起こるのか、その答えはもうすぐわかります。
contents
はじめに
第一章
宗教は「死」の専門家
第二章
「死」は妄想
第三章
「自分」とは何か
第四章
「死」の恐怖を克服する
第五章
「生きる」とは何か
おわりに-いま、この時を生きよ
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とまべっちの本は7冊目。 釈迦は、あの世については説いていない。 この世での生き方平静さ・心のあり方を説いている。 ということを知れただけでも読んだ価値がありました。 「他人に植えつけられた価値観を、自分の価値観だと思い込んで生きています」 苫米地さんはいろんな本で同じようなことを言っていますね。 本当にその通りだと思います! 何のために生きるのか? 「歩くために歩く」=「生きるために生きる」
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『「生」と「死」の取り扱い説明書』 苫米地 英人 著
苫米地英人氏と言えば、オウム真理教に洗脳された信者たちを脳科学・認知科学で「脱洗脳」させたことで有名かと思います。カーネギーメロン大学博士であり、かつ天台宗で得度した仏教家。この方の著作もほぼ読んでいます。この本のタイトルは軽い感じですが、中身はなかなかのものです。
前掲の『死の講義』の関連図書で出てきたものですが、さすがは苫米地ワールド。田坂広志氏は量子力学の観点から「死」を科学的に考察しましたが、苫米地英人氏は、「質量保存の法則」や「エネルギー保存の法則」から、「個体の死は、自我の消滅を意味」せず、「物理的な存在が情報的な存在に変わるだけで、自我が消え去ったりはしない」と断じます。
仏教にも造詣が深く、あの世の権力とこの世の権力を分けるという観点から、やはり「釈迦はお坊さんが葬式に出ることを禁じた」とあり、僧侶の世襲も禁止(そのための妻帯禁止)。現状を「釈迦本人が知ったら、驚いてひっくり返ってしまう」とあります。
連投で暗いタイトルが続いて恐縮ですが、自分自身が普段何気なく思っていることが根底からひっくり返された感のある一冊です。