紙の本
戦後を切り開く戦後人を信じて
2010/09/11 21:54
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投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の「敗戦後論」以降のいくつかの論文を、ここでまとめて読むことができました。
戦前や戦中派にとっては第2次大戦の悲劇から受け取った教訓はそれなりに身に染むたぐいのものでしょうが、戦後生まれ、とりわけ10代、20代の戦争をまったく知らない若者にとってのそれはどうなっているのでしょうか。
彼らの多くは「自己中」であり、「戦争なんて関係ない」という捨て鉢の言辞のもとに、おのれと過去の歴史総体との関連を断ち切り、現在の社会や「世界」との関係もできるだけ希薄なものにしておこうとする性向が際だっているのではないか。
それを嘆く大人たちは、自閉する若者たちに向かってあれやこれやの戦争体験をラウドスピーカーでがなりたて、戦後民主主義の貴重な意義をいわば暴力的に吹きこもうとしているわけですが、そういう外部からのイデオロギーの注入は所詮は無駄なのでいっさい止めて、彼らをして彼らの道を歩ましめよ。
世界平和なぞ犬にでも喰われろ、などと叫んでいる手合いであっても、いずれは社会性にめざめ、おのれの無垢なる少年性に別れを告げ、おもむろに手ごわい他者と出会い、公共的な地平に歩み出て、この世界でいかに生きるか、いかに取り扱うかという問題に首をつっこむであろう。
先輩たちのもっともらしいご高説やらアドバイスをすべて退けて、てんで無知で白紙の彼らがゼロ地点から戦後と世界に向き合う時に、はじめて戦後人による戦後選択肢が生まれてくるので、憲法も第9条も天皇制も彼らの成長と成熟にゆだねよ、というのが彼の超楽観的?な考えのようです。
だからといってわれら年長組がなにもしないで万事を放擲すればいいということではないのですが、これまでの経緯と思考をいったんチャラにして、いまこの世に誕生したばかりの赤ん坊の視点で政治経済社会を俯瞰してみるのも悪くはないなと思ったことでした。
これと関連して著者が本書で展開している宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」論や憲法論、靖国神社を破壊するゴジラ論や「かわいい」論、埴谷雄高論も軽々しく読む捨てにできない興味深いものです。
一粒の麦死なば多くの実を結ぶのだろうかと一粒の麦は迷う 茫洋
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評論集です。考えさせられました。
原発事故でゴジラを思い出したのですが、その後読んだ表題作はゴジラについて新たな視点を与えてくれました。
また自分のせいではないことをどう引き受けるのか、子どもを例にとって考察しています。自分の選択によらず起きている物事を引き受けるか? 私は、引き受けようと思っています。
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繰り返される首相の戦争謝罪と閣僚の否定発言は一対のものであり、日本社会の人格分裂を表す。それを克服する論議を日本人は怠ってきた。
・国民主権を謳う憲法を連合国に押し付けられた。
・武力放棄を謳う憲法を武力を背景とした連合国に押し付けられた。
ダブルバインド(二重の拘束:子どもが親に「自立しなさい」と強要されるが、身動きがとれなくなる。)→ 人格分裂:治療(憲法の論議)も十分になされていない。※著者は改憲すべきと主張するわけではない。
国のために無意味に死んでいった戦没者(兵士、民間人含む)の追悼が必要。戦死者への感謝、再評価が必要。
※先の戦争をよいものとし、戦没者(兵士限定)を英霊とする靖国的価値観は否定
※「永遠の0」での個人的な感想:戦争そのものは憎むが、戦った兵士個々まで否定することはない、と一致。
2,3章 子どもが負債を負うことが必要か、というレベルで戦争責任の論議を問う。そういる議論を経ずにただただ戦争体験を「語り継ぐ」のでは縮小再生産の構図となる。受け取る側の意思が大切。1章では見直しが必要と主張していたが、「今のままでよい」という考えに変わった経緯。
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冷静で透明な論に感銘。政治とデモ隊的なモノとの交わらなさの解決の道筋があるような。『理念と現実の落差』をもったままの九条の現状維持というのは、いままで触れたなかで、一番納得できる意見でした。
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札幌駅地下の文教堂書店で見つけたのをリブラロイドに登録したのが最初
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【要約】
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【ノート】
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「ゴジラについて」・・・加藤典洋氏の見解
ゴジラとは何を象徴しているのか?
① 核兵器の恐怖を表している・・・基本設定
② 自然災害を象徴的に表現している・・・BBCなど
③ 旧日本兵の英霊が還ってきている・・・赤坂憲雄氏など
加藤氏は③に近い立場を取る。ただし、赤坂氏とは論の道筋において差異がみられる。
赤坂氏が専ら民俗学に依拠して論を進める、例えば、沖縄では疫病などの災厄でさえも海から来た客人として迎え入れ穏やかに出て行ってもらう、という考え方が風習に残っているなどを援用しつつ、海の彼方からの来訪者としての英霊の受容の問題を論じている。
これに対し加藤氏は、開戦から敗戦、憲法改正に至る期間の国民の深層心理を探っていく。
すなわち:
- 日本は敗戦によって「民主主義」という「良いモノ」を得た。これがよいものである、ということについて国民にはコンセンサスが生じた
- ただ、結果として、それを与えてくれた米国と戦った日本兵をどう位置付けてよいかがあいまい、宙ぶらりんとなった、あるいは「ねじれ」が生じた
- 戦死した兵士たちをどう位置付けるかを曖昧にしているという後ろめたさが「不気味なるもの」としてのゴジラを生んだ(初回作の公開は1954年)
- 日本人は冒頭の「ねじれ」を未だに解消してはいない。これは靖国問題や憲法改正などすべてに影を落とし続けている
その他、枝葉の議論ではあるが、1954年、日本国民は「再軍備」を明らかに(ポジティブな)喜びで迎えていた、という指摘は興味深い。実際ゴジラの予告篇を見ると「迎え撃つ陸海空の精鋭!」という文字が躍る。「終戦直後」というのは我々が今想像するのとは色々な意味で違う空気だったんだろう、ということを象徴する一面として印象に残った。