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どう読めばいいかよくわからない。
ずっと闘い続ける格好いい大人にも見えるし、若い頃の運動をひきずる時代遅れにも見える。
自分の弱点と向き合って自律する人に見えるし、自分の問題を「誰かのため」にすりかえて代理闘争をしているようにも見える。
ところどころ文章に変なところや意味の取れないところがあるんだけど、訳のせいなのか著者のせいなのかよくわからない。
たとえば「すべてのアメリカ人と同じく、わたしも移民の子孫である。」なんて言葉を公民権運動に携わった人が言うだろうか。でも、しょせん白人かよと思う部分もチラホラでてくることを考えると、あながち訳のせいとも言い切れない。
訳者あとがきをみた感じだと訳自体も言葉選びに鈍感そうで信用できないから尚更わからない。
(本文であれだけ強く主張される「排外的なアメリカ」への訴えを「懸念」で片付けるし、本文でも「おば」が「いとこ」になったりする。多分もとは「N word」や「hate」や「phobia」であろうところを「二××」「憎悪」「恐怖」にしてしまうのもニュアンスが違うと思う)
女性やユダヤ人や1947年生まれの南部の娘さんとしての、つまり自分が当事者であるときの語りは良い。
でも同時に白人キリスト教徒の目でしかないから、自分が非当事者の部分ではときどきびっくりするような無神経さが見える。
とりあえずブッシュのアメリカがひどいことだけは確実だけど、これが出版できるという点で多少の希望はある。けど暗澹たる思いになる。
著作の話がけっこうあるから、この人の本を好きな人はより楽しめるだろう。
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ウオーショースキーの熱烈な愛読者としては、本書を読んでしまったことは良かったかどうか。
”書く”に至った道のりについてはよく判った。ほぼ一直線の道のりである。
19才の夏にカンザスからシカゴに出て初めて親から離れて1人立ちし、”疾風怒涛”の渦に身を投ずる。それ以来一直線である。
公民権運動も女性解放もブッシュ親子や合衆国愛国者法のひどさも、遠く日本にあってもそれなりに知識としては知っていた。
しかしサラの両親のこのありようは一体どういうものだろう。1947年に生まれたサラをこのように育てるとは信じられない!家庭に閉じ込め、弟の世話をさせて一切の趣味を禁じる。
両親ともそれなりのインテリであるのに。
一旦飛び出したサラはもうがむしゃらである。
そしてウオーショースキーを造型して世に問い、訴え続ける。
立派である。
これもポーランドのゲットーで殺された?祖先の血か。
娘時代に趣味を禁じられたゆえか、音楽・絵画・舞台などへ向かうゆとりが少なく、特に詩歌の世界に触れる潤いに欠けるのは止むを得ないことであるか。
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わたしの言葉は岩からしぼりだすわずかな水にすぎないし、わたしの声が、わたし自身が、その岩に押しつぶされたように感じる日も多いけれど、そこから這いだし、腰をおろし、書きつづけるようにと、この女性たちがわたしに告げてくれた。
~~~~~~~~~~P136
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ヴィク・ウォーショースキーを主人公とする、ミステリシリーズの著者である、サラ・パレツキーのエッセイ集です。
どのような経過でヴィク・シリーズが誕生したのか
どんな思想や信条を持って彼女が作家になっていったのか。などなどが率直な語り口で綴られています。
世界貿易センタービルのテロを受けて、アメリカが
私たちがイメージしている
「自由の守護者」
としての姿からまるで、開拓時代の荒くれた世界に逆行していることを赤裸々に語っていきます。
彼女の物語がヒロイックな、力を誇示するための闘争ではなく不正や暴力・虐待に対する怒りと悲しみ、まるで自分の痛みのようにそれらを感じて、行動のきっかけとしていること。
事件の周辺にあったものが自分の力で再生に向けて歩きだす様を語るためのものであることが解ります。
本当のフェミニズムも、自由への希求も、流行りの洒落たドレスとは違って、男女どちらもがともに生きるための絶え間ない努力なのでしょうね。
闇雲な批判や攻撃の色はなく、人間的で穏やかな語り口です。
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サラ・パレツキーの自伝とエッセイ。なぜウォーショースキーが生まれ、なぜその物語をかたり続けなければならないのかよくわかる。
パレツキーの言っている事は、至極真っ当であるように思うのだが、それを言うのにどれだけの覚悟がいるのか。
言論を封じ込め、自由を奪おうとする権力に「抵抗をつづけ、勝利をおさめることに、わたしはひたすら希望をかけている。」という最後の一文がすべてを表している。
図書館で借りたのだが、購入を決めた。