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新幹線で読んでました。ほとんど前にブログで読んだことでしたけど、まあ確認作業。突っ込みどころも多いですけど。
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教授もやはり「マンガは手塚治虫」なんだ。少年マンガと少女マンガは違うものであり「実は少女だった(!)」自分は両方読めるとおっしゃっているけれど、ツボがちょっと違うかなあと思った(当たり前か)。
私は少年マンガが読めない。教授が絶賛する井上雄彦もうまいなあとは思うけど、読もうとはあまり思わない。なんか違う世界なんだよね。よしながふみさんが対談で言ってて本当にそうだと思ったのだが、少年マンガは「頑張れば未来は開ける」ということを無意識にでも信じている人のためのものだ。少女マンガはその出発点が違うもの。
ひとくくりに少女マンガといってもたいそう多様なので、定義は難しいと以前から思っていたのだが、本書で教授はあっさりと「少女マンガとは主人公が少女かゲイであるもの」と断じていて、あ!そうか!と思った。姿形はどうあれ、メインストリームの男性文化からはじかれたもののありようを描くのが少女マンガなのね。
そう考えたら自分の好きなマンガはみんなそうだな。青年誌にのってても少女マンガだってことはあるわけだ。「聖おにいさん」の二人も妙にゲイっぽい(性的な匂いは全くないが)。それで言うなら、教授のお好きな「エースをねらえ!」は少年マンガじゃないだろうか…。
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内田センセイの著作を読む喜びの1つには、難しくて出会えそうにもなかった知性の世界を垣間見ることができる点がある。しかしながら、今回はマンガの話。いつもよりも気持ちが数段ほど前のめりになって、センセイのお話を伺っているだけじゃなく、私も一緒にしゃべりだしたい気持ちに駆られた。だって、自分の知ってるマンガいっぱい出てくるんだもん。
内田センセイは少女マンガも読まれる「少女マンガリテラシー」を持ってはる。論考に登場する作品タイトルをざっと挙げただけでも、「日出処の天子」「風と木の詩」「パタリロ」「ガラスの仮面」「エースをねらえ!」「動物のお医者さん」などなど・・・。椅子から腰が浮いてしまう。
http://big-river.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-7849.html
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ブログに発表した文章の内、漫画に関する記事をまとめた本、らしい。
漫画はすっかり読まなくなったが
(まわす時間と金がない。何から手をつけたらいいかもう分からない)
漫画に関する本は読む。
漫画論、といいつつ漫画を手掛かりにした社会論。
子供が成長するには、
同じことを別の言葉で言う複数のロールモデルが必要である、というのに唸る。
一つの言葉だけでは、洗脳になってしまう。
同じ方向を示す言葉が、同時に複数あることで、
その間の矛盾に迷い、受け入れる時に子供は成長のプロセスに入ると。なるほど。
他にも、仮名と漢字を併用する日本人は、右脳と左脳を同時に使うことで
他国よりも識字能力が高く、漫画という絵と言葉を一緒に理解することが出来る、らしい。
漫画を読むって、表音文字のみを使用する文化圏の人には、
頭の使い方を根本から変えねばならず、とても技術を要するようですよ。へー。
もう一つ唸ったのは、
年を取るということは、その年の自分がいるだけではなく、
10代の自分、20代の自分、30代の自分、とその時々の自分が同時にいる中で、
時に応じてどの自分を出すかということだ、的なことが書いてあって
そのとーりだなあと。
内田樹の本は、橋本治と同様、
視点一つでストンとすっきりするような気分になります。
http://takoashiattack.blog8.fc2.com/blog-entry-1954.html
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内田樹のブログエッセイ本。マンガの効用についての考察。井上雄彦、マンガの中の日本語、少女マンガ、オタク、宮崎駿など。脳科学の観点でマンガの効用を説く養老孟司との対談集を含む。マンガを読むにもリテラシーが必要で、特に少女マンガの世界は無意識を記号化したものが見られ、独特の読み方が必要になる。意識したものだけが記号化される少年マンガとの違いはそこにあるらしく、マンガは好きでも、少女マンガは苦手な人も多い。養老孟司も対談の中で、少女マンガの話になると無口になってしまうのが面白かった。内田樹はマンガを読むことで、脳の中での画像と文章の並行処理能力が身に付くと説く。子供の頃からマンガを読む日本人には、その優位性があるという。確かにマンガ好きにはとても面白い内容ですが、このような考察を今の若い世代はどう思うだろう。ちょっとオジサンの理論みたいな感じもある。だいたい取り上げられたマンガが80年代以前に流行ったものが多い。90年代までは、娯楽が少なくて電車でマンガを貪るように読む人が多かったが、今はスマートフォンでゲームやネットで遊ぶ人のほうがはるかに多い。内田樹が言う日本人のマンガリテラシーの優位性も、これから低下していくのではないかと思う。それよりも、音楽を聞きながらゲームをやり、マックを食べながら普通に歩いている今の若い人は、異次元の並列処理をやっている人もいます。それが普通になる時代が来ているような気もします。
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マンガは大好きだがこの手のマンガ論というのは初めて読む。
論というよりは断片的。
井上雄彦論、宮崎駿論がよかった。
特に「親族の基本構造」(レヴィ=ストロース)、「矛盾」(古諺、韓非)の成長するためにはそれぞれ違うことをいうロールモデルが2つ必要というのは実感を伴って納得した。
(バガボンドのにょろにょろじじい2人 )
マンガを入り口に色々な考えを知ることが出来て、勉強になりやす
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(以下引用)
あまりいう人がいないので代わって申し上げるが、専門的な技能や知識と「食う・食えない」分岐線の間には直接の関係はない。どれほど専門的に高い技能や深い知識があっても、それに対して対価を支払う市場がなければ、「どれでは食えない」。(P.137)
「スーパーマン」も「バットマン」も、高い理想を掲げ、日々コツコツと世界の平和に寄与しているのだが、周囲の人間たちはその努力を知らず、彼に少しも感謝しようとしない。それどころか、「おまえがそのスーパーパワーを発揮することで、世界の秩序はかえって乱されているのだ。世界はお前なんか必要としていない」と罵倒を投げつけられるのである。その無理解に傷つき、いっときは「世界を救う仕事」なんかやまちゃおうかな、と思うのだが、彼を信じる少数の理解者のために、ヒーローはまた立ち上がって、世界を救う仕事に向かう……という話型を私たちは何度見せつけられたであろう。これはアメリカの自画像以外の何ものでもない。(P.160)
日本の戦後マンガのヒーローものの説話的話型は「生来ひよわな少年」がもののはずみで「恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」の「操縦」を委ねられ、「無垢な魂をもった少年」だけが操作できるこの破壊装置の「善用」によって、とりあえず極東の一部の地域限定的な平和をもたらしている、というものである。(中略)この恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」は日米安保条約によって駐留する在日米軍であり、それを文民統制している「無垢な少年」こそ平和国家日本のセルフイメージにほかならない。(中略)戦後マンガは「軍隊」(巨大な暴力装置)と「憲法九条」(イノセントな心)が「合体」するときだけ「よいこと」が起こるという物語を執拗に、ほとんど偏執的に繰り返してきたのである。(P.161)
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第一章・井上雄彦論
井上雄彦の天才性について
天才バガボンド
バガボンド一気読み
「にょろにょろ」の教育的機能
井上雄彦さんの仕事場を訪ねる
第二章 マンガと日本語
日本語って変かも
ショコラ・リパブリック言語論
擬態語について
ベストセラータイトルの音韻について
第三章 少女マンガ論
少女マンガ・リテラシーと元少女おじさん
少女マンガの記号論
女は「三界」を遍歴する
第四章 オタク論・ボーイズラブ論
ノン・コレクター
SFから「オタク」へ
ボーイズラブとエロス
反米ナショナリズムとしての少年愛マンガ
第五章・宮崎駿論
足元を見よ
『千と千尋の神隠し』
『ハウルの動く城』の厚み
老いの手柄
「空飛ぶ少女」のために
第六章・マンガ断想
アメコミに見るアメリカのセルフイメージ
大学マンガを読む
『スピリッツ』療法
コピーライトについて
「プロの物書き」にちょっと駁す
パイレーツ・オブ・チャイナ
ジュンク堂と沈黙交易
『エースをねらえ!』に学ぶ
『エースをねらえ!』にさらに学ぶ
第七章 戦後漫画家論――戦後漫画は手塚治虫からはじまった
対談・内田樹 養老孟司(司会・菊地史彦)
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日本辺境論の続編に当たる位置づけということだが、エッセイを寄せ集めただけの安易な作りに思えたし、マンガへの愛情もそんなに感じられなかった。巻末の養老孟司との対談だけが、チョットおもしろかっただけ。マンガを読むにはリタラシーがいることは、BSマンガ夜話でよく言われてきたことで新味もなかった。マンガ評論は専門家に任せておけ。
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井上雄彦については、ウッチーが武道家だからかな?と思った。
少女マンガにまで通じてるなんて、すごいなぁ!
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いつものことながら、内田節が炸裂。マンガより面白い(?)マンガ論となっている。センセイならではの、卓見も盛り沢山。
日本でなぜマンガが生まれ、高度な発達を遂げたかについて、養老猛司の仮説が紹介されている。「漢字は表意文字なので図像として認識され、ひらがな・カタカナは表音文字なので音声として認識される。日本人は、漢字かな交じり文を読む時、脳内で2箇所の部位で認識している。こうした習慣を1000年以上にわたって続けてきたために、日本人は世界でも類稀なる識字率の高さを誇り、ひいてはマンガをも生み出した。マンガの<図像>は<漢字>であり、<ふきだし>は<かな>である」というもの。
「描き手が成長しない限り、登場人物も成長することもない」という井上雄彦の言葉が引用されている井上雄彦論も圧巻で読み応えがある。内田センセイ愛用のフレーズを借用させていただき、「井上雄彦の本質に迫るマンガ論は、この内田樹の論をもって嚆矢とする」と言っておこう。
内田センセイのマンガ論は、少女マンガにまで及び、少女マンガにのみ表現されている<記号化された無意識>を読み取るリテラシーの必要性についても言及していて、養老センセイ同様、私が少女マンガを読めないのはこうした能力の欠如からくるものだったのかと、気付かされたりもする。
最後にもうひとつ。インターネット書店の「アマゾン」の由来について、講演中に発作的に思いついたという話がなかなか面白い。「20世紀になって、地球から暗黒大陸はなくなり、それと同時に、<言葉を交わすことも、姿を見ることもない交易相手>は消滅した。そこに、インターネットが出現して、私たちは再び<沈黙交易>に近いコミュニケーションをすることが可能になった。だから、アマゾンなのだ」と。ロゴのAからZに向けた矢印には、すべてを網羅するという意味が込められていというが、この内田センセイの説の方がロマンチックで、私は好きだ。現に、私がこうしてブログを書いているのも、電脳空間に<沈黙交易>のようなワクワク感を求めているからだ。
★注:沈黙交易=異民族の間で行われた交易形態の一つ。双方が無言で、また顔を合わせることもなく、互いに置かれた品物を交換する方法(『広辞苑』より)
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少女漫画を読むには少女漫画リテラシーが必要だという件がおもしろかった。
確かに男の人で少女漫画を読める人ってあまりいない気がする。
それにしても、作中に出てくる漫画がだいたい分かる私は少年漫画も少女漫画もかなり読んでいるなと。
とりあえず今はジョジョを読みたい。
(作中にジョジョは出てきません。)
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偶然だけれども、
井上雄彦「バガボンド」で感じた剣術の身体探求と、
武道家としての内田氏の身体論とが、
自分の中で一致して、現在内田氏の師である
合気道多田宏先生の門下に席を得た。
剣道では早々に挫折を味わい、今合気道でも苦戦している凡人だが、
そんな物語をマンガというメディアが繋いでいることが
不思議であり、日本の文化のひとつなのだなぁと思う。
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内田氏がこれほどマンガを好んでいたとは、驚きでした。
特に少女マンガへの洞察は深い。このあたりはさすが。
僕も少女マンガを読もうかと思いました。
内田氏は、京都精華大学に勤めているのですが、自分にあった職場だと言っています。納得しました。
教育を語っているときの内田氏と、差があって新鮮でした。
楽しみました。
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ガラかめ(笑)。内田先生は少女マンガもぜんぜんいけちゃうらしい。井上雄彦氏との意外な接点も面白かった。表紙がまた、いいですね。新宝島!