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内田樹先生の少女マンガの読み取り方については、非常におもしろかった。
そんな風にマンガを読んだことなかったし、少女マンガ読みたくなった。
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ブログの再録本なのでスムーズに読める.
アメコミがアメリカの哀しいセルフイメージであること、「鉄人28号」が戦後日本のセルフイメージで在日米軍と憲法9条をかかげた日本を表していることなど深く納得する.
鉄腕アトムや火の鳥が問いを反転させることにより、科学や姓名についての考察を深く日本人に知らしめたことなどを教えてもらった.
著作物について「商品」と「作品」という2つの側面があるという視点も勉強になった.著作物だけでなく、自分自身の生き方に関しても商品=ビジネス、作品=個人の倫理・幸福の様な感じであろうか.
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少女漫画の記号論が深く面白い!!イクニさんが少女漫画家にキャラデザを頼んでアニメ作ってるのがわかった気がする。
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どこかで読んだことある内容なんだけど(たぶんブログ)、再編集されるとまた新鮮に感じるのが不思議。とくに巻末の養老孟司さんと対談「戦後漫画家論―戦後漫画は手塚治虫から始まった」がおもしろかった。手塚治虫が「科学信仰と戦後民主主義」をはじめてマンガに盛り込んだという指摘、「表音文字と表意文字を並行使用」している日本だからこそ「動きながら話す」マンガが発展したという指摘、手塚マンガのベースは「枚挙」だからこそ多作だという指摘。
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最近の話題作は読んでみるのだが、旧作は知らないものが多い。そのため、参考になった。
サブカルチャー
日本独自
記載が論文調になっていないか?
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『呪いの時代』が読みあたり良かったので、手にとってみた内田樹のエッセイ。
ブログの記事そのまま転載のためか、全体的にユルい内容で期待はずれ。
少女漫画の分析はまま面白いが、作品分析というより、自分の知識を貼り付けてるだけのような感も。この人がフェミニスト嫌いなのはよくわかった。あと、少女漫画好きはロリコンなんだろうなってことも。
自分はオタクじゃないと否定してるけど、少女漫画にやたら詳しいオッサンの時点でオタクだと思うけどな。学者だからという、ちょっと上から目線も鼻につく。
最後の養老孟司との対談集は読み飛ばした。
すでに大家になっていて、漫画と言えばああこの人って思い浮かぶビッグネームを語るのは誰でもできること。学者の限界なんだろうな。
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ブログの記事をまとめたもの(と対談)
深く突き詰めて書いたものではないので、ものたりなく感じる部分もある。
それでも、色々な素材を結びつけて新たな発見に導く、それを読ませてしまう技術はすごいなと思う。
ただ、この人フェミニズムを嫌い過ぎ。
女子大で教えていようと、娘を育てていようと、少女漫画を愛読していようと、フェミニズムを嫌っている時点で女性を理解するのは無理なんじゃ…
(フェミニズム嫌いの女性もいるけど)
そのせいかどうかは分からないけど、BLについての考察は的外れだと思った。
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積ん読だったこの本、読んでみました。最近、マンガは読まなくなりましたが、漫画の主題などをめぐる内田先生のお考えは大変興味深かったです。
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本書は著者である内田のブログからマンガに関する記事を抜粋・加筆したものを1冊の本にまとめたものである。世相や自身の研究分野の話と絡めながら、漫画に対する著者の並々ならぬ思いが綴られている。内容は日記に近く、この本から何かを得ようと思って読むものではないと感じた。時間があるときに、暇つぶし程度に読むことをお勧めする。
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内田先生の授業面白そう。出てみたい。
こういう先生に習いたかったな。
そして井上雄彦先生のすごさにほれぼれ。
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ブログをまとめたもののため、散漫でつまらない。
しかし冬ソナ好きは少女漫画読める、はわかる。
夫は少女漫画読めるし、冬ソナに感動した男。
私は冬ソナに鳥肌をたて、少女漫画恋愛ものは
反吐がでる女。
もっと本としてきっちり考察したのが読みたい。
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その名の通り、漫画に関するあれこれ。
いくつかの章あり、まずは「バカボンド」を取り上げ、「井上雅彦は天才だ!」と大絶賛。
つづいて、「日本辺境論」の延長で、マンガを論じます。
日本は漢字・日本語・カタカナの混淆言語であり、それは巨大な帝国(つまり、中華帝国)の辺境に生まれやすい。
それが豊かな自然音と言語のあいだの「擬態音」を生み、それがマンガを醸す土壌になったのではないか、という論です。
それ、同じことを*斉藤環先生も言ってたよね?
つづいて、オタク・BL論を論じ、BLは非常に性を自らの付加価値とする近代のエロスの在りようとは真反対で非効率的(つまり、どんなにエロかろうとさっぱり何も生み出さない)から価値があり、さらにそれは「男は男らしくマッチョであるべし」とするアメリカ主義の批判なんだそうな。
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「顔を描く」画力において、日本のみならず世界のマンガ家の中でも井上雄彦に伍する描き手はもういない。そのことは誰しもが認めるだろう。
でも、井上雄彦の天才性は、その「キャラ」以外の誰も口にすることがなく、それを口にしたことによって、その「キャラ」が「その人」自身になるような決定的な一言を探し求める真摯さのうちにむしろ存すると私は思う。(p.15)
人が20歳になるかならぬかで、ばたばたと死んでゆくような時代の「子ども」は、短期間に一気に「おとな」になる以外に生き延びる術がない。
『バガボンド』は「一気におとなになる以外に生き延びる道がない子ども」を主人公にしたマンガである。それは人格的成長を遂げることによって「豊かな人生を送りましょう」というような牧歌的な話ではなく、「おとなにならないと、死ぬ」という、ヴァイタルに切実な「ビルドゥングスロマン」なのである。(p.23)
日本は漢字とオリジナル文字の併存を維持している例外的な国である。どうしてこういうことが起きるのか。
それがわが国のリテラシーの異常な高さと関係がある。
私たちは日常的には非識字者というものにほとんど出会うことがない。
だが非識字というのはヨーロッパでもアメリカでも重大な社会問題なのである。非識字者の存在がプロットの鍵になるような物語(ルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』など)に類するものを私は日本の小説のうちには知らない。(p.45)
少女マンガは古代から未来まで、メイドから能楽師まで、あらゆる時代の、あらゆる主人公を受け容れ、あらゆる手法を駆使して、それを滑車してきた、きわめて自由な表現ジャンルです。そのような桎梏からも解き放たれた自由な少女マンガが、「アメリカのハイスクールを舞台にしたマンガ」にだけは手を出すことを控えている。これを「徴候的」と言わずして、何と言うべきでしょう。(p.131)
武道家は「石火の機」を重んじる。
訊かれたら即答。
その場にあるものをためらうことなく「それ」と指さして、「これだよ」と言わなければならない。
石火の機で「これ」と言い切れるのは、まさしくそのような問いがなされる当のそのときに他ならぬ「これ」の前に私はいるように宿命づけられているという絶対的な確信がその前段にあるからである。(p.142)
世界は十分に美しく、それはどのような人間にとっても生きるに値する。これが宮崎駿の究極的な映画的メッセージだと私は理解している。そして、このようなメッセージは、現に世界を最高度に愉悦的に享受している存在を経由してしか伝わらない。「空飛ぶ少女」はその理想型である。ひろびろと遮るもののない視野、人工的騒音をはるか眼下に見下ろすほとんど無音の聴覚野、肌に触れる風の爽快な冷気、そこに身を浸すことの快楽を宮崎駿は私たちに伝えようとして、それに成功した。(p.155)