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デネットやガザニガなど認知科学の分野の著作は読むたびに驚きと「腑に落ちる」感覚を与えてくれる。だけど、これらを読んでも「私」のしくみはわかるのに、本作のテーマである「脳は何故心を作ったのか」という一番知りたいところがわからない。あるいは自分の理解力のなさで読みきれてなかっただけかもしれないけれど……。
この核心の部分が本書を読んでわかった。いや、仮説なので、わかったという言い方はおかしいかもしれないが、もうこれでいいじゃないかと思えるほど腑に落ちた。
著者はディープ・ソートよりはるかにわかりやすいカタチで人類の究極の謎の答えのひとつを提示してくれた。
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”「私」は幻想である” 釈迦の言っていることと類似していて非常に面白い。しかも”心を持つロボットは作れる”と断言しており、その根拠も大変面白い。心の仕組み、心について考える「私」という存在について、大変解り易く書かれている。しかも読み易い。著者の他の著書もチェックしてみたくなった。
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ようするに『〈私〉とは、記憶とも「知情意」の多様さとも関係なく、ただ単に、「〈私〉というクオリア(感覚質)は私である」という決まりが脳の中に定義された結果作り出されたクオリアに過ぎないと考えられる』『〈私〉の正体とは、実は単純で無個性なクオリアの錯覚によって作り出された幻想に過ぎなかったのだ。(中略)疑問にする自体が誤りだったのだ』という。著者は長年の哲学命題はスッキリと胸を張って(自慢げに)解決したと言う。しかし、自分はスッキリとせず読了。
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長年一人で強く疑問に思っていたことに、ようやく明るい光が当てられ、出口へ導いて行ってくれるような本に出会うことができた。
科学においては、一番簡単な説明が一番正しい理論である、とされている中、この解決法はみごとに簡潔であり、科学に詳しくない私にも分かりやすかった。
今後、様々な実験によってこの理論が補強され、より確固たるものになっていくところを追っていきたいと感じた。
この理論を基礎とした科学というものを一度再構築する作業が必要になるかもしれないが、その先にあるものを見てみたい。
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知情意と分類してその上に意識、注意を持ってくる考えは大変参考になるが、知、情に意志、意識つまり意が絡む仕組みをもう少し考えてみたい 単に意識する、注意するという行為より意図する意志を働かせるということの意味は大きいと思うのですが
大変興味深い説ですが、意識よりも意志、意欲、意図を意味する知情意の意にもっと注目すべきだと思います 究極までつきつめた意識というのは無意識の脳の活動と対比していますが、そのような意識は無意識があるのと同じ意味で動物にもあると考えられます というかあってもなくても問題はない そこまでその存在を無意義にしてしまっていると思います 人間と動物を区別しているのは、この無性格の意識というものではなく、意志、意欲、意図を意味する知情意の意のほうだと思います。
単に意識している、注意を向けているというような傍観者的な性格のものではなく、意図する主体としての私こそがしっかり議論されなければならないと思います。
祈りの時には、自分を放念してみること それって、前野さんの私に徹すると、雑念が出てくるのも私の外の出来事と達観すると、自然に放念できそうです
意識の意義 今なにをやっているかをおぼえている???
前野さんの意識をつきとめてゆく訓練をすれば禅で到達する境地を得られるのかも
無意識でも出来、意識してもできる行動を対象にして、同じ行動を無意識でやるのと意識下でやるのとの違いを検証することでlつまり思考実験することで、意識の意味を考えてみたい つまり夢遊病者と正常な人の意識下の同じ行動を比較するという思考実験でもいい。
意識していない場合は、その行動がエピソード記憶として残らないのではないのか だとすると、意識は、エピソード記憶の主体者としての地位を獲得することになるのだろうか
もしエピソード記憶の主体者ということなら、人間以外の動物にはそのようなものは備わっていないということになるのでしょうか
この究極の私を実感してみたいものです 体験というか お手振りのときそんな感じが体験できそうなんですが
眠っているときは、エピソード記憶の主体者も眠っているのか、それとも存在しなくなっているのか どちらなのか
多くの総合動作が、意識しないでも無意識下で自動プログラムのようにできてしまうという事実をどうこの理論に関連付けるか たとえば、自転車に乗る、車を運転する 酔っ払って意識が飛んでいても、飲み屋から自宅に帰っているなど・・・・
たまに、寝られないと思うときがあって、でも寝ている寝たりないことはない、でも夜中じゅう目が覚めている感じがする これって、前野の私だけが目覚めていて、その他の脳、体はけっこうしっかりと休息を取っている感じ 幽体離脱もこんな感じなのか 夢はほとんど見ない感じ けっこう興味ある現象です
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・無意識ですることの技を磨いた人がスポーツ選手や職人さん?無意識を意識化した人が、哲学者や心理学者?
脳には、赤いリンゴを見た時、色を認知する小びとがいる(ニューラルネットワーク)。
丸い形だということを識別する小びともいる、これらの結果を受けて「赤くて丸いこの物体はリンゴだ」という答えを出す小びとがいる。情報は、意識されるとき以外は、小びとたちによってせっせと「無意識」のうちに処理される……。
そう言われてみると、電車に乗り遅れまいと駆け込み乗車したり、赤信号になった交差点を突っ切ったり、冷静に考えると危ないし、大きなメリットがない行為をしてしまうことがある。あれは、もしかしたら、小人の仕業だったのか?
自分も含めて、他者から見て「この人、軽率だなぁ~」、と思われるような人は、おそらく、意識して行動しているのではなく、小人たちによって行動している人なのではないでしょうか?しかも、その行動を、あたかも自分の意思でコントロールしているような錯覚に陥っている恐れがあります(^^ゞ
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平易な文章だが、途中、著者のロジックについていけなくなるところがある。これは私が「超文系脳」だからなのか?それとも「心の地動説」に「無意識」のうちに抵抗しているからなのか?
私たちの脳内には無数の「小人=ニューラルネットワーク」がいて、それぞれ分担して様々な処理をこなしている。そして、私たちが「主体的」に行っている思っている「思考」でさえも、実は小人たちの処理のなせる業で、私たちはたちはそれら小人たちの作業を川下で眺めている「受動的」な立場でいるのだと。
そして著者は「心はニューラルネットワークで表現できる」から「心を持ったロボットは作れる」と断言する。
ホントにそうか??
興味深い議論だが、今一つ、私には腹落ちしなかった。
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脳は小人が動かしている。
それは自分の意思ではない、下流で汲み取っているのが意思。
イメージトレーニングに勝る思考の実現方法はない。
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冒頭で永井均や「心の社会」を引き合いに出していたので期待感が高まる。ニューラルネットワーク網のアウトプットの観測者が「私」である、という論旨。心の諸要素は全てニューロの中で解体可能か。ロボットは心を持つのか。思考実験としては面白い本。
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久し振りに読んでいて衝撃を受けるとともに、絶望感に苛まれて何度か本書のページを繰ることをやめた。自分自身への儚さと不確かさを滔々とのべつたえられたような感覚であった。しかし読み終えて新しい世界に対する認知を獲得することができた。有り難い経験に感謝する。
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脳科学に立脚した「心」の解説書。比較的philosophicalな面を押し出すことで、比較的マジョリティにとって取っ付き易いよう書かれている。かといって、scientificな根拠を蔑ろにはしておらず、また、religiousな色が強く出ているわけでもない。非常に良書であると思う。
結局のところ、「自我」と「外部環境」との境界が不明瞭であるように、「科学」と「思想」の境界も不明瞭であるように思える。それを無知な「意識」が如何に錯覚するか。何が現実で、何が幻想か、それがはっきりとしたとき、意識のクオリアを失うことがないことを切に願う。
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「私の意識」とは小人たち(ニューロンのこと)が自立分散的に行った結果を自分が主体的に行ったと錯覚してエピソート記憶(ある期間と場所での出来事についての記憶)をしているに過ぎないととして数々の実験結果に加えて哲学や宗教なども交えて論考する。また、この理論を基に心を持ったロボットが製作可能としている。終章では「小人たち」の仕組みとしてニューロンそしてニューラルネットワークについても比較的(そもそも脳科学系は難解である)分かり易く解説している。地動説から天動説になったような正に天地がひっくり返るような衝撃でしたが、確かにこのように考えると都合がよく、AI(人工知能)なども考え易くなりそうです。
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簡単に説明されてると評判だったが、難しかった…。どうやっても実感し得ないことだから、難しいんだろうなぁ。
なんとなくわかったのは、すべては無意識で、それは日々の繰り返しで出来上がるってこと。その繰り返し、意識して繰り返しているつもりでも、実は"意識して"なんてのはなくてそれも無意識で、そうすると、先天的要因と外的要因で全てが決まるわけで、人の行動の予測できない要因って自然(Nature)のことしかないのかな。
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リベット博士の実験
意識が動かそうと意図する指令と、無意識に指の筋肉を動かそうとする準備指令のタイミングを比べたら、無意識下の運動準備電位が生じた時刻は、意識が意図した時刻よりも0.35秒早かった。つまり、心が「動かそう」と思う事が全ての始まりではなく、それよりも前に無意識下の脳で、指を動かすための準備が始められていた。
「意図している」と意識する事を人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びと達の活動結果を受け取って、「自分が始めに意識した」と錯覚している。
脳のニューラルネットワークは、使ったものほどよく発火する。局所的な相互作用に基づくボトムアップ的(メンバーの相互作用により民主的に物事を決める。統合的な目的はなくてもよい)なやり方。
「意識」はエピソード記憶をする為にこそ存在している。「私」はエピソードを記憶する事の必然性から進化的に生じた。
「意識(私)」とは、「無意識(小びと達)」の行っているたくさんの処理の一部を「私」がやった事として感じる為の機能。この機能がなければ、この機能について振り返って意識する「自己意識」は存在のしようがない。
小人達の最初の人員配置(学習前のニューラルネットワークの初期構造)は遺伝による。だから性格や能力は大雑把に親に似る。だが、ニューラルネットワークの繋がり方や発火しやすさはその後の学習(小人達の体験)によって後天的に変わっていく。
小人達の体験とは、外界とのインタラクションと、脳内の記憶とのインタラクション。
面白い事を考える小人が育っていれば、ユニークで創造的な人になるし、正直な小人が育っていれば誠実な人になる。
クオリアとはエピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつける為のもの。
感情は自他のクオリアを鮮やかにし、その結果としてエピソード記憶を強調し、メリハリをつける為に存在する。
鳥類やほ乳類は心を持っていると考えられる。
何が現実で何が幻想だったのかをはっきりと知るに至った未来人が、そこに見つけるものは、遥か遠い昔に我々が忘れてきた、素朴な自然崇拝の至福であるに違いない。
脳は一千億個の素子が同時に計算をする超並列計算機。コンピューターより遥かにたくさんの素子が、コンピューターよりも遥かに遅い速度で計算を行う。
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人間に心=意識があるのは、エピソード記憶のため。膨大な情報に色づけし、連続的・選択的に思い出すため。知・情・意や記憶と学習は、子びとたちが全て自動的にやってくれ、意識はその結果を受け取るだけ。
記憶する自己と経験する自己、人間にとっては経験する自己の方が大切だというのも、納得できます。