紙の本
これからの世の中で「個人」が主体的に生きるための説得力ある見取り図を提供してくれる本,
2011/03/09 16:34
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、インターネット世界がリアル世界と融合していく方向のなかで、「個人」が主体的に生きるための見取り図について納得させてくれる本である。
「キュレーター」といえば、日本では一般に美術館や博物館の学芸員のことをさしている。専門知識のバックグラウンドもとに美術展などを企画し、作品を借りる交渉を他の美術館や個人収集家と行い、作品解説やキャプションを書き、カタログを執筆して編集し、イベントとしての美術展を成功させる専門職のことだ。その「キュレーター」がやることが「キュレーション」である。勘のいい読者なら、本書のタイトルをみて即座にそのような連想を抱くだろう。
では、キュレーターが「つながり」や情報革命とどう関係しているのか?
キュレーターの役割を抽象的にいえば、作品という個々のコンテンツに「場」というコンテクスト(=文脈)を与えることにある。同じ作品であっても、企画内容や展示の仕方によって、つまりその他の作品との関係において、それを見るものの印象は大きく異なってくる。新しい発見もあれば、自分のものの見方に安心感を得ることもある。
つまりキュレーターの役割は、情報を整理して見せる、その見せ方そのものにあるといえる。いいかえれば、ある特定のものの見方(=視座)の提供である。コンテンツという一次情報は、それ自体の価値もさることながら、コンテクストとあいまってこそ、相互補完的に意味を形成するのである。キュレーターがコンテクストを設定した作品こそ、見るものにとって意味ある価値をもつ情報となっていると言っていいかもしれない。
著者の佐々木俊尚氏は、膨大な情報が流通するインターネット世界でもまた、「情報の結節点」がほかでもない「生身の身体をもった人」であることを、「キュレーター」や「キュレーション」という概念を使って、さまざまな事例をもとに説得力ある説明を行っている。こういったキュレーターたちの存在がネット上には無数に存在していることに気がつかないと、これからの世の中を見誤ることになるだろう。なお、キュレーターというのをそのような意味で使うのは、米国のネット世界から始まったらしい。
ある特定のカテゴリーに属する情報について、個々人がその真贋のすべてを判断することは容易なことではないが、信頼性の高いキュレーターが仕分けしてコンテクストという付加価値をつけて整理した情報は、二次情報であっても抵抗なく取ることができる。自分の専門分野や詳しい分野では自らがキュレーターとなる一方、自分がさほど詳しくない分野では自分以外のキュレーターたちの意見に耳を傾けることになる。人間はもともとそのように多面的な帰属意識をもつ存在であり、この傾向はとくにブログやツイッター、それにフェイスブックなど、双方向の情報の流れが可能なNSの急速な発達と普及によって顕在化してきた。情報の流れが根本的に変わりつつあるのだ。
この流れのなかでは、かつてのように権威ある媒体で識者がマス(大衆)に向けて一方通行で上から目線で垂れ流す情報が意味をもたなくなってきたのは当然といえば当然なのだ。日本のマスコミの多くがこの変化に対応できないのもムリはない。
著者は、新書本にしてはやや厚めの300ページを使っているが、これはまだ「マス幻想」をもっている人のために、かんでふくめるような説明が必要なためだ。日々、インターネット世界のなかに生きて活動していれば、著者のいうことは素直に理解できるだろう。もちろん、最初から最後まで読むと、イメージをさらにふくらませることができる。
冒頭にも書いたように、ネット世界はますますリアル世界と融合していく方向にある。その意味では、本書はこれからの時代の個人の生き方について書いた本でもあるといってよい。ぜひ一読することを薦めたい。
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池上彰のつくり方
2011/03/30 01:52
7人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さいとうゆう - この投稿者のレビュー一覧を見る
メディア・リテラシーを身につけるというのは「情報の目利き」になることである(日垣隆)。あふれる情報の中から有用なものだけをピックアップし、それを必要としている人に対して提示するが「目利き」の役割だ。
私たちは目利きの「目」を信用し、その人のアンテナを信頼している。
キュレーターは、博物館や美術館の学芸員であることにとどまらない。「世界中にあるさまざまな芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展として成り立たせる仕事」をするには、「情報を司る」ことができなければならない(p210~211)。
かつては、世界中にある情報を収集するのも、それらに意味を与えるのも、マスを対象としたメディアの仕事だった。しかし、もはやそこで生み出される「企画展」に、私たちの心は躍らない。
「ある情報を求める人が、いったいどの場所に存在しているのか。
そこにどうやって情報を送り込むのか。
そして、その情報にどうやって感銘を受けてもらうのか。」(p41)
上記の問いに答えるためには、(1)情報の需要のありかを極小の単位でつきとめ、(2)ピンポイントで情報を送り込むための方法を考え、(3)情報の意味と価値を確実に伝えることのできるよう、表現に工夫をこらすことが必要だ。
「情報」は「物語」になることで人を動かす。その「物語」のリアリティは、メディアとしての目利きの誠実さと熱意に支えられている。
「社会との関係は接続と承認が中心になり、その接続・承認を補強するための手段として、いまやモノは買われている。それは、消費の向こうがわに人の存在を見るということ。他者の存在を確認するということ。」(p126)
キーワードはむしろ情報ではなく「人」である。
「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、「人の信頼度をみきわめること」の方ははるかに容易である。(p207)
時代は、多くの、そして小さな「池上彰」を必要としている。
紙の本
ソーシャルメディアを活用する人の価値観と行動原理
2011/04/11 08:49
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:かつき - この投稿者のレビュー一覧を見る
Web上で起きている新しい現象のルポでおなじみの著者による
マスコミの終焉とパーソナルキュレーションの時代の到来を
解説しています。
キュレーションというと、美術館の「キュレーター」の役割を
思いますが、その通りで、本書では「キュレーション」を
無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて
情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と
共有すること。
ととらえています。
ツイッターやフェイスブックといったソーシャルメディアは
よく「繋がり」を求めている人が集うと言われます。
その繋がり合う人々の価値観や行動原理がわかりやすい。
この頃の20代、30代の人の行動を見ていると
とても地に足のついた人が多いと思うのです。
等身大の、自分のやりたい店や事を仕事とし
プライベートも自分らしく時間を上手に使っています。
例えば、天然酵母のパン屋さんなど、
週に3日とか4日しか開けずに
売上高よりも自分のやりたいことで
自分が食べていければいいというスタイル。
上昇志向がない分、小さくまとまるばかりと
批判する人もいますが
私はとても堅実な気がします。
等身大の生き方をしているな、と思っていました。
でも、やっぱり旧世代は不可解なこともあります。
そんな彼らが求めているのは、自分と価値観を共有する
お客様との出会いや繋がりなのだと
ようやく理解することができました。
私も同じパンを買うのなら、天然酵母で丁寧に、
そして安全で、おいしいパンを買いたい。
お店の人がいい人であれば通います。
そして、お店やその主人との繋がりを求めてもいます。
自分のことを「顧客」として認識してほしい。
そんな繋がりが新しいソーシャルメディアを通して
さまざまな現象を引き起こしていることを解説しています。
本書ではさまざまな例が出ているのですが
個人として、ソーシャルメディアを使いながら
どうやって他者と繋がっていくのか。
そして企業としてソーシャルメディアを使う際に
今までの価値観――大衆全部を取り込む――という手法は
通用しなくなっているということを前提に
使いこなさなければならない、という警告です。
著者の佐々木さんと私は、消費をする際の価値観が似ている――
誰かが持っているから自分も持つ、
今流行っているから自分も参加する、という行動は
決して取らないタイプだと思うので
そういう点ではとても共感できるのですが
世の中はまだ「記号消費」「みんなが持っているから」という
消費欲のほうが大きい。
しかし、そうではない価値観を共有する人と結びつくのが
とても困難だった、Webのない時代ではなく
時間や空間を飛び越えて繋がれる時代に
この価値観の共有は大きいと思いました。
価値観マイノリティ(笑)には勇気の出る本です。
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12月の下旬、佐々木俊尚さんと食事をしながらおしゃべり。
その時に話していた内容が、この本の入り口かのような感覚になりながら、
みんなよりちょっと前にこの本を楽しませていただきました♪
(ちなみに、間隔を空けずに一気に読む方がオススメ)
佐々木さんがよくお話されている「キュレーション」をキーワードに、
情報のあり方の変遷や背景が書かれている。
今の揺らいだ環境に不安な人もそうでない人も、読むと今がより理解できると思う。
ソーシャルな世界でリアルもネットもボーダレス感覚で動いている人には、
肌感覚にあったものが、明文化されていてすっと入る内容なんだけど、
様々な分析と共に記載されているのは見かけない(たぶん)ので必読。
面白いのは、幅広い事例を用いながら、今起きている情報流通やその構造について綴られている点。
読みながら、それぞれの価値観でいろんなことを派生して、
いま起きていること、感じ取っていることを考えることができそうな気がする。こういうのって好き。
人とその内容をシェアすると視野が広がりそう。(2/12に実際にやっちゃうんだけどね♪)
私の場合は、「人」そのものについて考えふけってしまいました。
この件は最後にも書くけど派生しすぎて未整理・・・徐々に独り言blogに書いていこうかな。
まず、興味深かったのは、情報構造と社会心理の関係の変遷について。
情報の流通のしかたによって、人がどういう心理状態にあったのか?どう変化してきたのか?
について触れられているところがある。
何をするにも、「人」が必ず関わる。だからこういった関係を理解するってすごく重要だなぁって。
#若い層もマスメディア時代を生きた層も、お互いの認識が深まりそう・・・
#とも思った。お互い非難し合っていても先に進まないもんねぇ。
キュレーションの時代、情報はいろんな視座による意味付けが加わって世の中に流れ出ていくのだろうけど、
それによりどのような心理の変化が起こるかは気になるところ。
マスの時代は、自分の情報の開閉バランス(つまり自分の見られ方につながる)は、自らは取りづらかった。
今は、自分で出す情報も、出し方も(もちろん受信についても)コントロールできるようになってきている。
逆に、それらを自らコントロールできるスキルが不可欠のような…。
ツールの使い方含め、自分次第なんだけど、その自分次第がいろいろなので、どんな心理状態を生むのか?
そして、それらが反映されてどのようなことが起こり得るのだろうか?と。。
情報構造と社会心理の関係をとらえていくのは長期テーマだなぁ。
キュレーションそのものは普段から体感していて、そのひとつが読書朝食会”Reading-Lab”(通称:リーラボ)。
ここで起こること、その場を通じて自分に起こることにもともと興味があった。
この本の言葉を用いてとらえるのもまた面白い。
このコミュニティでは、各自持ち寄ったオススメの本を、各々紹介&���リートークしていくわけなんだけど、
佐々木さんの言葉を借りて言えば、これは
いろんな人の視座にCheck-inしながら、自らその本に対する解釈・認識を(再)構成することをやっていたんだ。
フリートークの時間がある分、お互いのゆらぎからくる解釈や広がりが加わり、
さらにその場では常にその解釈・認識は変容し、再構成されていく。
瞬く間に「ふつうの本」は立体的にとらえられるようになる。
セマンティック・ボーダーが変容している状況だったんだろうなぁ。
以前、千代田区MIWでお話したときに、
“リーラボは「本と人と思考・思想が交流する場」と思っています”
と私は話をしたのだけど、言い換えれば「本と人と視座が交流する場」なんだろうな。
だからゆらぎっぱなし。考えが固定されない。改めて、おもしろい場だなぁと思う(^ー^)/
<派生して拡散中。一部は収束…>
・キュレーション能力?のUPのために何が重要なんだろうか
→キーワードは「受信機能」「応答する存在」
最終的に、女神山での「聴く」まで飛んじゃう。
・キュレーションのスケール感(?)をどうとらえるか?
・コミュニティ論。空気感とか。共有されているコンテキストについて。
身体性とか?
・ハイコンテキスト/ローコンテキストと感覚の関係。
そこから情報の見せ方について。
とかとか。まだあったような。。。 他の本もリンクして頭の中が大変です(^_^;;
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もう大きなビジネスなど存在しない。
情報流通の変化による記号消費の消滅、それによるマスコミの消滅。
こうして大きな物語も消滅し、無数の小さなビオトープが立ち上っては生成される。(しかしこの細分化はある種の孤独感を引き起こし、大きな…とは言わないまでも「日本」のような中ぐらいの物語を必要とする…。)
これからは深くビオトープを理解していないと、正確に情報を伝えることはできない。一般的な日本人などいないから。これは重要なポイントだ。大きなバケツは拡散し、小さなビオトープは揺らぎを続ける。
だのに大量消費のマスモデルに、今でもしがみついているコンテンツ業界。
でもぬけだせないのだ。それは自分たちの規模やビジネスモデル、給与体系を否定することだから。
佐々木さんは行動ターゲッティング的なライフログ情報流通は、プライバシーの問題から浸透しないという。ある視座へのチェックインというソーシャルな情報の流れだけではなく「いま•ここで•こうしたい」自分に最適なライフログ的情報の流れにも僕は進化していくと思うのだけど…。
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「キュレーション」 - 情報を収集・選別し、意味づけして共有すること。
昨年、あらゆる言葉に「ソーシャル」という接頭語が付いていったように、今年はこのキーワードが世間を賑わすことになるのかもしれない。本書は、その「キュレーション」をテーマに、ITジャーナリスト・佐々木俊尚氏が書き下ろした渾身の情報社会論である。
◆本書の目次
プロローグ:ジョゼフ・ヨキアムの物語
第一章 :無数のビオトープが生まれている
第二章 :背伸び記号消費の終焉
第三章 :「視座にチェックインする」という新たなパラダイム
第四章 :キュレーションの時代
第五章 :私たちはグローバルな世界とつながっていく
著者と「キュレーション」という言葉の関係は、実に不思議である。キュレーターという職業が、美術館・博物館の学芸員として存在することからも分かるように、この言葉自体は著者が開発したものではない。しかし、この言葉に意味づけを行い、流通させたことに対する著者の役割は、非常に大きい。すわなち、佐々木氏こそが「キュレーション」のキュレーターという関係なのである。
また本書の構成にも、非常に興味深いものがある。事例として取り上げている題材、それを捉えるための概念が、それぞれ二軸のキュレーションによって成立してるのだ。まさに「キュレーションの交差点」といった全体像である。具体的には以下のようなもの。
・事例の題材としてキュレーションされているもの
ジョゼフ・ヨギアム(画家)、エグベルト・ジスモンチ(アーティスト)、『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』(映画)、田中眼鏡店(眼鏡屋)、フードトラック(屋台)、一座建立(茶道)、月明飛錫(ブログ)、フィロ(サービス)、フードポッティング(サービス)、ロケーションレイヤー(サービス)、シャガール(画家)、ヘンリー・ダーガー(作家)、八島孝一(美術家)、アロイーズ・コルバス(画家)、田中悠紀(画家)、『彼女が消えた浜辺』(映画)、青花(染付)
・考え方、概念としてキュレーションされているもの
ビオトープ、アンビエント化、つながり消費、視座、チェックイン、キュレーション、セマンティックボーダー、ホロニックループ、一回性、ポストグローバル
上記のキーワードだけを抜き出して見ると、難解な本のように思えるかもしれない。しかし、それぞれの内容については本書内で丁寧に意味づけがされており、それこそが「キュレーション」の本質でもある。また、本題の説明に入る前に、三章にも及ぶ分量を背景の説明に割いているところも注目に値する。「キュレーション」というものが飛び交う土台の変化が、それだけ大きいということを意味しているのであろう。
本書は、マスコミ人にとっては、やや耳の痛くなるようなことも書かれていると思う。しかし、そのような表層的な部分に着目するのは得策ではない。本書に書かれている「キュレーション」とは、メディアや情報流通のみに留まるような概念ではないのだ。「キュレーション」とは、人間関係でもあり、生き方でもあり、哲学でもある。��分の視座で本書を捉えるならば、「自分らしくあれ、自由に生きろ!」というメッセージである、と意味づけしたいと思う。心が躍る一冊である。
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記号消費から機能消費へ。
無数の情報の中から価値ある情報を選別し、それにコンテキストを付与して独自の視座を提供するキュレーター。
視座の提供のことをキュレーション。
アウトサイダーアーティスト。
なるほど。
文章が合わんのか、なんとなく読み辛かった。
例示されている物語が、いちいち詳しい。それが内容の理解の助けになっているとも思うけれど、僕はちょっとくどい感じがしたな。もっと全体的に短くまとめてくれた方がよかった。
内容自体はおもしろいし今を生きる上で必読の書のようにも思える。
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視座が人によってそれぞれ違うものなら、自分ももしかしたら誰かの(何かの?)キュレーターに成り得るのかもしれない、という可能性に気付いてなんだかワクワクした。
自分の視座はなんだろう。
視座を切り口と言いかえると、能動的な意味合いが強くなるのかもしれない。とふと思った。
意識してなくてもツイートするだけで視座は勝手に出来あがるけど、自分なりの視座というか、人と違う、それこそキュレーターになれるような人の視座はやっぱり能動的な感じがするな。
それが、自分なりの切り口とかアイデアとかで、自分なりの視座を持つ人=キュレーターなのかなぁと。
本の内容ではないけれど、初電子書籍版を購入してみたのでそれの感想も。
ツールはiPhoneのiBooks
読みながら付箋が貼れないのは不満だけど、これくらいのページ数ならどこでもさくっと読めて、目も疲れない。
それこそ仕事でちょこっと休憩してる時なんかに数ページ読んだり。
携帯ならいつでも持ち運んでるし、隙間時間を読書に充てるのには電子書籍は非常に便利。場所も取らないし。
新書なんてそれこそタイムリーな話を読みたいときには一番良い気がする。
もっと色んな本が読めるようになればいいのにね。
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面白く、一気に読み終わりました。時代背景や想像力を掻き立てる事例を交えた考察が的確でどんどん吸い込まれていきます。しかし、広告のあり方は本当にかわるだろうな。センスが問われる時代になりそうだけど、今までよりも面白くなることは間違いなさそう。色々と考えさせられる、間違いなく読んだほうが良い1冊です。
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結論だけを言うためなら長過ぎる。しかし、あちこち脱線風でも私には面白かった。自分の趣味の領域がかなり似ていることを発見し、著者への親しみもいっそう増した。主張も、すべて賛成とまではいかないが、おおむね賛同できるし、分かりやすく説明されている。
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今、話題の佐々木俊尚さんの本。
「キュレーション」とは本来、アート用語なのだが、今回のコンテキストでは情報を集めて広げる行為である。
かつてのマス広告が機能不全に陥った経緯の解説から、"ビオトープ"と表現される現代の人々の集約具合の解説は秀逸だった。
佐々木さんの本を初めて読んだのはインフォコモンズだったが、その時はとても衝撃だった。その後、ウェブ国産力なども読ませてもらっている。
俺の中では、梅田望夫がアメリカへ去ってから、カオスのウェブの道程を示してくれる貴重な人物であると考えている。
孫さんとのUst対談や、NAVERまとめのイベントなど、動向はチェックさせていただいている。
今後もその鋭い観察眼と語り口で我々の先行指標でいてほしいと切に願う。
・目次
プロローグ ジョゼフ・ヨアキムの物語
第一章 無数のビオトープが生まれている
第二章 背伸び記号消費の終焉
第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム
第四章 キュレーションの時代
第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく
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ソーシャルメディアプラットフォーム
キュレーターの役割が重要になる。キュレータ−とはやはり編集者とほとんど同義ではないのか。世の中に情報があふれている時代、何を信じていいのか、どの情報をよりどころにすればよいか、やはり、その指南役、ものの見方を教えてくれる人が大事になる。googleの検索では、選び切れない情報量で混乱するばかり。
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情報は単独では成り立たない。松岡正剛の唱える「編集」の概念と似ているかも。音楽にしろ、映画にしろ作品は単体で成り立つのではなくて、その背後にある文脈みたいなのをいかに感じ取れるかってこともひとつの命題かもしれない。音楽を聴くときに楽曲だけを聴くんじゃなくて、その楽曲を成立させる音楽的背景を考える行為だとしたら?わかりやすいMr.Bigを聞いて背景世界のブルースを感じたり、イングヴェイにバッハを感じたりするような感じ?
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2011-05-25購入
背伸び記号消費の終焉
2011-06-22読了
この知的レベルの文章を書ける「ITジャーナリスト」に感謝。
ウェブ開発の実践者としてこういう文章をもっと読みたい。
読解図 http://on.fb.me/jelLtg
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情報過多の中で「視座」を与えるキュレーター、その視座を受け入れるチェックインという発想が非常に新鮮でした。
以下、自分用メモ。
従来は戦後の高度経済成長とアメリカからの文化流入により日本の全体が同じような価値観をもち、企業・職場といった「村的」な繭の中でタコツボのようなソーシャル環境(ビオトープ)を形成していた。
これに対し、世界中の情報を流通させる情報プラットフォームの出現と人々の価値観の多様化により、従来の固定的なビオトープが、一時的な特定の趣味・テーマによって集まる「アドホック」なビオトープに変容する。
さらには、一個人がこれらのアドホックなビオトープを複数またがるというのが常となってきている。
この状況において、様々なコンテンツに文脈を与える「キュレーター」が用意する「視座」を受け入れ、情報を受け取る(チェックインと表現)フォロワーという構造が出来上がる。
情報過多の状況において、信頼できる人による情報のフィルタリングを経た
発信を受け取ることで、フォロワーが自分に関心のある情報を集めつつ、そのフィルターの揺らぎによりタコツボ化を回避するということが成立する。
・アンビエント化
iTunesは音楽をアンビエント化した。
アンビエント化はコンテンツがオープンに、流動的になり、いつでもどこでも入手出来るただよっているような状況。