紙の本
私なりにいろいろと考えた
2019/01/28 15:00
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者がいうように、明確な殺意がある犯人が相手をめった刺しにする、ところが救急車で運び込まれた先の病院には名医がいて、その刺された男の命を助けてしまう、もちろん、この場合殺人ではない。ところが、明確に殺意があったわけではないが衝動的に相手をさしてしまい、相手が救急車での搬送途中に渋滞に巻き込まれて死んでしまったとき、これは「殺人」になってしまう。理不尽なような気もするが法により我々が人を裁く場合は仕方がないことなのだ。裁判員制度が導入されてから、はたして我々は正しい判断ができているのだろうか。やはり疑問が残る
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人を裁くことに対する哲学的な問い
2017/07/29 18:00
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投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
あとがきで筆者自ら述懐しているように、人が人を裁くというのは、なんと重いテーマなのか。執筆動機には、欧米に倣う形で2009年に日本に導入された裁判員制度のことが念頭にあったのだと思う。導入部での著者指摘によると、フランスの参審制や歴史的にコモン・ローを採用している英米の陪審制度の違いには、近代国家形成過程の違い、国民の国家・政治観の違いが見事に縮図的に反映されているという。面白い。このあたりは、同著者による「民族という虚構」の続編的考察ともいえるかもしれない。トップダウン的に裁判員制を導入した日本では、裁判員そのものを信用していないとも取れる制度設計が目につく。法律や裁判について素人の一般市民が、裁判審理にコミットすることによる、冤罪発生確率の上昇や量刑の誤りを招くのではないか、等という素朴な疑問は、制度導入前より議論されたものであるが、他国の制度を慎重に考察した著者は、事実認定だけなら素人の陪審員だけでも問題は無い、とする。一見日本人の常識と異なる結論なので、目から鱗の思いだ。プロの裁判官ですら、多数決による罪状認否や判決には、社会心理学のテーマでもある密室空間における同調圧力や認知不協和に基づく意見維持の脆弱化がある。一方、少数意見の尊重の雰囲気は同調圧力を緩和する。英米の陪審制で事実認定は全員一致とする原則には、歴史・経験的な知恵のみならず社会心理学的にも故なしとしない。このあたり著者の面目躍如たるものがある。日本の裁判員制にはまだ問題は色々ありそうである。日本人の精神風土との兼ね合いもあり、この制度が根付くかどうか今後よく吟味する必要はありそうだ。
本書後半では、なぜ人は人を裁くのかという根源的な問題に対して、哲学的ともいえる考察を進める。特に本書での最大の問いは、人は主体的な存在であり、自己の行為に対して責任を負う、という普通語られる責任論の根拠としての「自由意思」なるものが本当にあるのか?という点である。大脳生理学者リベットの実験によれば、人間の「行為」は人間の顕在意識形成に先立って起こっている、という「事実」がある。人間の意思が因果的に行為を制御できていないとすれば、人とは、実は犯罪行為に対する罪を問われるような自由意思を持つ主体的存在ではないのではないか、という深刻な問題である。個人的には、このレトリックには、顕在意識のみに自由意思があると決めつけている部分に危うさがあると思うので、著者の考えには賛同しない。
著者は仏教説話を引きつつも、宗教に解答を見出すことに否定的である。しかし二千年の歴史を持つ大乗仏教には、自我執着の末那識が麁重縛の種子を阿頼耶識に播くことで表面意識に煩悩が育ってしまうというサイクルがあるという心理モデル概念が既にあり、そこには確かに完全な自由とは言えないが、煩悩生成を許すかどうかの意思的決定権をそれぞれの人間に認めている。また修行により煩悩の滅却が可能であるとする。今の社会心理学がまだ人間の内面構造の深くに踏み込めていないのではないか。キリスト教徒ではないが私が本書タイトルで連想したのは、ヨハネ福音書8章のエピソードである。犯罪者に対して抱く大衆の憎しみの気持ちが人を裁く権利を主張している。しかし、裁く権利があると思っている人それぞれにも一つや二つの傷が脛にあるはずだ。時代とともに極刑が影をひそめ始めているのも事実だ。大衆の価値観も不変ではない。犯罪の原動力が煩悩にあるならば、人の集合知が、犯罪の少ない寛容的で平和な社会を構築する方向に社会を不断に改変していくことが可能だ、という方に賭けたいと思う。
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新聞広告によると
《我々は裁判の意味を誤解していないか》
《裁判員制度や冤罪事件を検証し、犯罪や処罰についての常識に挑む。人間という存在を見つめ直す根源的考察。》
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すごく整理されていて、日本の裁判員制度、世界の参審制などがよくわかった。三章はとても難しい。それでも、参審員の可能性もある日本人は、ぜひとも読んだ方がいいと思います。
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裁判は真相究明のためではなく、社会秩序維持の装置として存在する。『犯人=スケープゴート』という表現は中々に的を射るものかもしれない。はじめこそ実例を上げて説いていくが、哲学本。
答えの出ない問いへの向き合い方を考えさせられた。裁判員制度は他人事ではない今、裁判の仕組み、思想に触れられたのは良かった。
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裁判員制度について日本や世界各国の観念について触れながら分析した本。第一章の内容に関心させられました。タイトルにもある「人が人を裁くということ」は本質的には大きな欠陥があります。そもそも善悪の判断はその時代の価値観で変化するものであり、また犯罪の真偽というものも検察官と弁護士の主張のどちらが「よりもっともらしい」かを判断する非常に頼りない原理です。そのため、裁判を成立させる論理として、フランスでは一般意思という神のごとき意思が存在することを仮定し、アメリカでは事件の真理の追究ではなく合意形成を図るだけとなっています。
翻って日本はどうか?裁判制度を成立させている論理は何なのか。私はそれは、お上に対する無条件の忠誠心だと感じています。日本は江戸時代に中央集権国家が完成して以来他国と戦争することがほとんどなかったせいか、権威者への反抗という概念が希薄だと思います。そのため、専門家や権力のある者の意見には渋々であっても従う。裁判で言えば裁判官のほうが裁判員よりも偉いという感覚。
欧米の人が全員裁判の論理的妥当性について考えているとは思わないが、日本も成熟社会を迎えたのだから、こういった哲学や思想について思考をめぐらす人が増えることが今後の国の立ち位置を決める上で重要になるのではないだろうか。
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・裁判員よりも裁判官の方が有罪としやすく、量刑を重くする傾向もある
・規則は集団を離れて暴走する
・比較対象が無いと人は簡単に影響される
・悪い行為と見なされることで悪い原因が生成される
・「人間は他者との比較を通して自己同一性を確認する」
・価値観の渦に対する防波堤
・重要な問いほど、答えは無い
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主に裁判員制度と冤罪が生み出される仕組みについて書かれている。
日本に限らず、どこの国も冤罪を生み出す可能性が極めて高いという印象を持った。犯罪者として捕まったが最後、無罪の人も有罪に仕立て上げる捜査(というより操作)の有り様が克明に記されている。
そして、これだけ冤罪の可能性が秘められているのだから、死刑を含め「人を裁く」という行為は慎重に行われるべきだ、ということがよくわかった。
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タイトルを読むとナラティブで情緒的な感じなのかな、
と思ってしまうけど、全然そういう本ではない。
ただこの著者の他の著作に比べると最後の方は
中途半端だったような(新書だから...?)。
第1章は何度も読み返したい感じ。
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筆者は在仏30年になる社会心理学者。日本にも裁判員制度が導入されて久しい。市民参加の正当性,認知や記憶の曖昧さ,主体・自由意思の虚構性に光を当て,素朴な司法観を見直す好著。
本書は三部構成。まず裁判員制度をはじめとする司法への市民参加とそれを支える理念に触れる(裁判員制度をめぐる誤解)。次に自白や証言を引き出す過程でいかに記憶が捻じ曲げられるかを見て(秩序維持装置の解剖学),自由意思と責任の転倒した関係を論じる(原罪としての裁き)。
ヨーロッパにもアメリカにも参審制,陪審制といった裁判への市民参加が認められているが,その正当化根拠には違いがあるようだ。欧州では,裁判の目的を真相究明に求めることが多く,アメリカでは紛争解決に求めることが多い。欧州は国民を重視し,アメリカでは共同体を重視。もちろん,本当の真実というものは誰にも把握などできない。欧州裁判制度の追及する真実とは,国民自らの手で決定した事実。権力でなく市民が真実を決めるというスタンス。アメリカでは,地域共同体で起こった事件は自分たちで解決するというスタンス。中央政府は基本的によそ者。
どの国も,複数の市民が裁判に直接関与するが,人数,裁判官との役割分担など,制度設計によって裁判の内容が影響をうける。責任が稀釈されたり,同調や服従なども起こりうる。ただ,一回きりの参加にとどまる市民の判断は,犯罪を裁くのに馴れた職業裁判官よりも有罪判断に慎重な傾向。
冤罪の危険というのはどうしてもなくならない。自ら進んで犯行を認める者はいないし,捜査機関は被疑者が犯人であることを信じて追及することが多い。密室における取調べによって,逃げ場のなくなった被疑者が虚偽の自白をしてしまうケースが後を絶たない。日本でも外国でも同じ。
また,人間の認知能力,記憶保持能力というのは非常に限定的で,連日の執拗な取調べによって,真犯人でない被疑者が,犯罪事実を自分が起こしたように誤信する結果になることも稀ではない。目撃証言についても同じで,捜査機関が希望する証言内容を実際に見聞きしたと思込んでしまう証人も。
冤罪の種は尽きないのだが,それ以上に重要な問題提起が第三部でなされる。近代刑法の大前提として,人間は自分の行動を自由に選び取ることができる,自律的な存在だという考えがある。それにもかかわらず,犯罪に手を染めたという点が批難に値するため,処罰が正当化される。
しかし,生理学・心理学で得られた知見によれば,自由意思や主体の存在は極めて疑わしい。意識的な身体の運動に際しても,その運動を引き起こす神経の電気的指令は,動かす意思よりも前に生じることが分かっている(リベット実験)。身体の動作は完全に意識的に制御できるわけでない。
さらには私とか自己というのも実在するとは言い難い。自己は社会的に構築された幻想であるといっても間違いではない。それに人間誰でも遺伝と環境が作用して出来上がったものであり,それ以上でもそれ以下でもない。もとは単細胞の受精卵だった。そのような存在を裁くとはどういうことか。
結局,主体とか自由意思というのは,責任を問うために捏造された概���にすぎない。社会秩序を維持するためにそういうフィクションが必要とされたのだ。魔女狩り,動物裁判,死体の処刑のように,災厄のシンボルを破壊する儀式を通じて共同体の秩序を回復することは,常に行なわれてきた。
この第三部の責任論は,同著者の『責任という虚構』で詳しく論じられていた。「責任はフィクションである」なんて違和感があるかもしれないが,結構説得力のある話だと思う。
近代合理主義とその前提する人間観には科学的にみてかなり綻びが出てきてるように思う。ただ,その場合,逸脱行為にどう対処するかが難しい。まったく逸脱のない社会は全体主義であり,不健全・不自然。逸脱行為は必ず起きる。それを何らかの形でうまく扱っていかなくてはならない。
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裁判とは何か、突き詰めて考えた本。
理性的に分析されていて、面白い。
人を裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味していて、実はそれ自体が犯罪行為だという指摘にはドキッとさせられるけれど、それぐらいの重みを実感しないといけないと思った。
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内容が濃くて読むのに時間がかかるが、多くの人に読んでもらいたい本だ。犯罪を処罰することに対して、私たちの常識がいかに間違っているかがよくわかる。
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難しい本だったけど読んでためになりました。
冤罪のできる過程とか。
以前島田荘司さんの「奇想、天を動かす」って本で社会秩序を守るためにスケープゴートとして逮捕された人の話がでてきたけど、小説の中だけの話ではないと実感しました。しかし勿論それを肯定するわけでもなく否定もできないのかなと思いました。
何を基準に善、悪を決めるのか等答えのない疑問について書かれています。
1章、2章がそんなかんじだったけど、3章はなんか哲学っぽい話で読んでてよくわからんかった。
また時間ができたときにでも読み返してみようかな。
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一見すると、裁判のみに焦点を当てた本かと思うかもしれないが、心理学、社会学、哲学の分野に話が広がっているので、少し圧倒されるかもしれない。
けれども、様々な視点から問題を捉えようとする筆者の姿勢であると私は感じたので、評価に値すると思いました。
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前半の各国の陪審員制度の解説は、各国民の考え方が判って面白かった死刑制度の部分は、過去の歴史部分が興味深かった。アメリカとフランスの法概念の違いって、大きいんだと実感。