投稿元:
レビューを見る
40年前の旧訳を読んだ時あまりピンと来なかったが、野谷文昭氏による新訳とあっちゃあ買わざるを得ない。
そして新訳で読み終わっても、やはり今一つ、確たる感想を抱きづらい作品だった。
革命に積極的に賛成するでもなく、反対するでもなく、現状を消極的に受け入れてキューバに残った、知識人階級の主人公。
冒頭で妻が主人公を捨てて(?)米国に脱出するが、それは主人公が妻に対して行なってきた「教育」が何の効果も及ぼしていなかったことが後々判明する。
そして、またそうなると分かっていても、他のキューバ女性に同じような振る舞いをし、同じように裏切られる主人公。
彼は何度もキューバを「低開発」と呼び、見下すようであるが、最後の最後、キューバ危機に直面し、「低開発」であったはずのキューバが先進国の争いの最前線に放り込まれ、主人公は愕然とする・・・。
自国を低開発と見下すだけ見下して積極的に関与せず、キューバ人女性のことも教育してやる必要がある対象と見下して、自分だけが高い位置で無関係でいられると思い込んでいた主人公のような知識人批判なのだろうか。
低開発のまま低開発であることを許されなくなったキューバの、複雑さがテーマなのであろうか。
何とも、私にはよく分からない。
そういえば解説をまだ読んでいなかった。読んでから追記しよう。
投稿元:
レビューを見る
同名の映画が興味深かったので、原作も。ストーリーというか流れはほとんど同じながら、映画がモノクロ映像に斬新な演出で強い印象を残すのに対し、小説は主人公の内面により深く寄り添って、その孤独や屈折した心情を描き出している。
語り手は、キューバのブルジョア階級に属していながら、革命後、あわてて国を出ていく家族や友人たちを冷淡に見送り、無為と孤独の中をただ彷徨っている。数多くの作家や小説、映画が言及され、彼自身も小説を手がけているらしいにもかかわらず、彼の批評や創造力は社会とつながる方向には向かわない。ここには、ありがちな社会主義的使命と創作の自由の葛藤というテーマは登場しないが、それは主人公が、革命に同調できないだけでなく、最初から社会に属していないからだ。
キューバに家があっても、キューバのものをひとつも置かずに過ごしていたヘミングウェイと、その死後もなお彼が生きているかのように敬意をこめて語る使用人。ブルジョアが体現しているキューバの低開発ぶりを蔑むほどに、その蔑みはそのまま自分に返ってくるが、新しい体制もまた彼が属するところではない。主人公の屈折ぶりは深い。『ヒロシマ、わが愛』をフランス語で観る主人公は、キューバ危機のただなかで、ただひとり自身の消滅を幻視するのだ。時代をはるかに先取りしたポスト・コロニアル的感覚に驚嘆する。
投稿元:
レビューを見る
「永遠に引き裂かれているのだろう。僕は自分にさえ同意できない。」p.68
最初から最後まで破滅的な自己嫌悪に満ちている苦々しいこの小説の中で、この一行だけが素直な言葉に感じた。この主人公は自分自身とも自分の人生とも向き合いたくないので、ほかのブルジョワ階級の人々のように革命後のキューバから逃げ出さなかったし、自分を変える努力をする代わりに貧しくて若い女性を思い通りに改造しようと空しい行いを繰り返していた。
人の感情をしっかり書いている作品だと思うけど、女性にしがみついている様が見苦しすぎて最後まで読む気がしなかった。