紙の本
福島のためにまなべるもの,ひとびとのこころと愛
2012/03/18 15:00
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
チェルノブイリ周辺の住民や原発事故対策にかかわったひとびとの証言をあつめている. この本の解説にもあるように,著者が書こうとしたのは客観的事実だけではなく,ひとびとのこころ,とくに愛である.
福島でも原発事故に対策がとられ,事故そのものや住民の証言が取材されている. しかし,とくに対策に関しては客観性が重視されるぶん,ひとびとのこころがなおざりにされている. 取材においても,まだとらえきれていないもの,そしてこの本からまなぶべきことが,いろいろあるのではないだろうか.
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しろくま - この投稿者のレビュー一覧を見る
チェルノブイリ、言葉では知っていても、実態は全く知らなかったと気付きました。同時にフクシマが改めて恐ろしくなりました。
紙の本
強烈でした
2016/05/25 15:02
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:なりす - この投稿者のレビュー一覧を見る
福島のことを学ぶにはまずはチェルノブイリを。
強烈でした。
ロシア人(ウクライナ人)もっとしっかりしてよ、
役人の暴走を許しちゃいかんよ、
自分で考え自分の確固とした意見を持とうよ、
日本人もかなり似てるけど。
このひと言につきます。
脱原発なんて、今は死語かもしれませんが、
やっぱりそれを目指す意味はあるでしょう。
広島・長崎に対して失礼ですよ。
日本はきちんと目指すべき方向性を定めるべきです。
と書いているとお怒りを買いそうなので割愛。
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これほど「読むべきだ」と思った著書もない。
日本人は読むべきだ。特に、原発推進派は読むべきだ。
フクシマがあって、急遽「反原発」に転向した輩も、心して読むべきだ・・・と思う。
「孤独な人間の声」が最初と最後にある。
この妻たちの声が忘れられない。
ヒロシマ・ナガサキに学ぶこともなく、今回は日本の国が自らの過信で引き起こした。
旧ソ連のことなど言えた立場ではないだろう。
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チェルノブイリの事故そのものの記録というより、チェルノブイリ後の世界を生きる人々を、彼ら自身の言葉で描き出すもの。「未来の物語」と副題にあるが、日本に生きる私たちにとってこれは現在の物語だと思う。今この時期にだから読むべき一冊。
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そこにいたというだけの事でこうも不条理を背負い込む羽目になりうるのかと、つくづくこの問題で責任などとりようがないんだな、と、再認識しました。勉強になりました。
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今の日本でこそ読まれるべき本と思いながら読み始め、読み終えた後、誰彼に勧める事を躊躇する自分がいた。四半世紀前のロシアと今の日本で起こっている事象があまりにダブる。そして未来も恐らく酷似した道をなぞっていくのだろう。すでに福島を通過してしまったこの国では「知る事」すらあまりにも残酷な人々が多く生まれてしまった。 ただのノンフィクションで終わらないのは、被害を語る人々の、私達と変わらない人間らしさに胸打たれるから。御巣鷹山の本「墜落遺体」同様、死者への尊厳、悲劇に寄り添う遺族や関係者の心情が丁寧に心に届く。だから余計、辛
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チェルノブイリ原発事故の被害を受けた、一般の人々へのインタビューがそのまま本となっています。
様々な人たちが話をしていますが、特に心に残っているのが、消防士の妻と事故処理にあたった人の妻の話。
本のタイトルは『チェルノブイリの祈り』、副題に「未来の物語」とあって、読む前は「未来の物語」とは何を意味しているのか、鈍い私には分からなかった。
でも、読んでみて分かった。
チェルノブイリ原発事故の被害を受け、放射能を浴びて、人々がどうなったか、それは、その人達だけのことではない。その人達が体験したことは、もしかすると、私たちも体験するかもしれない・・・チェルノブイリの体験は、私たちの未来の物語ともなるのだ。
原発事故の恐ろしさ、放射能を浴びたらどんなに悲惨なことになるか、私たちは知らなければいけないと思う。
福島原発事故に見舞われた日本。一人でも多くの人に読んでもらいたい本だ。
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英語版からの感想。
86年のチェルノブイリ原発から10年後に書かれた本である。作者はジャーナリスト。足掛け3年にわたって、ウクライナやベラルーシでチェルノブイリ事故に関する経験を語る人々(チェルノブイリ経験者、というような名前で呼ばれる人びとの声を集めた、オーラルヒストリー・・・口述記録っていうんだろうか。日本語で翻訳も出ているが、今こそ多くの人が読むべき本だと思う。
86年のこの事故で、原子力発電は終わるべきだったんだろう。実際、そういう見方もあったんだろうけど(そういう口述もあった)、2011年には福島の事故。結局、何もかわらなかった。
チェルノブイリは、もはや単なる事故ではない。この本で語る人のなかに、「チェルノブイリはドストエフスキーなみのテーマ」みたいな表現をしていた人が居て、まったくその通りと思った。つまり、人間の営みというか、人間性・社会そのものを根本的に見つめなおし、問い詰める問題提起そのものであるということだ。皮肉にも、チェルノブイリについてあまり多くのことが語られてこなかったのは、そういう理由からではないかと思う。あまりに問題が深く広範なのでなので、誰も総括して語ることが出来ない。もちろん文学のような象徴的なものとして表れることもない。現実が文学を凌駕するという表現がぴったりくる。誰しもがうまく語ることが出来ない歴史的事実。
チェルノブイリもフクシマも、文化も政治体制も事故の様相も違いながら、類似点もなんと多いことか。ソ連政府の事態の隠蔽、沈静化への大量の兵士・ボランティアの投入、除染への取り組み・・・福島の事故で見てきたことと同じ。住民はなにもわからないから、ただただ上の指示に従うだけ。平静を装って不安を隠し、病に倒れたらそれを受け入れる。多くの人は、放射能と結びつけることもしないかもしれない。
人間は、生物としても、社会的動物としても、自分たちが作り出した放射性物質の前には無力だ。物理の力には悪意もなく、私たちはただ無防備に遺伝子がそのエネルギーに影響されるだけである。
しかし、人はそれでも生きていかないといけないので、それぞれのやり方でチェルノブイリと折り合いをつけていくのだ。もうどうしようもない。だから、諦めるか、意味を見出すか、ひたすら逃げるか・・・結局はまとまった見解などなくて、人それぞれ、個人個人で向き合っていくしかない。それはとてもとても孤独な戦いだ。チェルノブイリを体験した人たちは、みなそんな風に戦ってきたのだ。
3.11以降、日本で「福島の事故はチェルノブイリとは違う(その理由は、爆発の様子が違うとか、規模が違うとか、主に「科学的な」知見からのそれらしいコメント)と、どれほど言われたことか。それは、ただ単に、私たちはチェルノブイリを経験することはないだろうという根拠のない楽観的な見方にすぎなかったんだろう。経験したことのないことには、どう対応していいのかわからない。政府や企業も含めて日本中、3.11以降はそういう感じで8ヶ月が過ぎたように思う。そして、多くの人々はいまだ、何も起こらなかったかのように、または福島の影響を過小評価したり、単に諦めたりしている。何らかの危機感を持ちながらも、どうしていいかわからないというのが普通なのかもしれない。
私たちはどうしたらいいのか?
著者は最後に、この本で語られることは(過去のことであるにもかかわらず)それは未来のことである、というようなことを書いている。
私たちはチェルノブイリを経験した、経験している人々の声から何を思うか、何を学ぶのか?チェルノブイリはつまり、フクシマである。私たちはどう生きるのか?そういう根本的な問いを持たずにはいられない。
この本は、最初と最後の話者の独白は、チェルノブイリ現場に入って消火・除染作業に当たった作業員(英語ではLiquidaterと呼ばれる)の妻たちによるものである。
愛する夫が作業にあたったあとに死ぬという苦しみ。消防員の妻は面会謝絶になった夫のそばに規則を破ってでも死ぬまでの16日間、通い続ける。除染作業に参加して数年後に亡くなった夫の妻は、一年かけてゆっくり死に向かう夫の看病を続けた。どちらも死の物語でありながら、愛の物語であり、こういう例がそれこそ無数にあったのかと思うととても泣かずには居られない。原発事故は、科学の話だけではない。普通の人々にとっては、チェルノブイリは愛の喪失(故郷の土地に対する愛、大切な人に対する愛、などなど・・・)の物語である。失ったものはもう二度と戻ってこない。それが原発事故による放射能の一番の恐ろしさであると思う。
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チェルノブイリの事故の被害者のそのままの言葉が重い。あえて、チェルノブイリに逃げて来て、住んでいる人がいるなんて、知らなかった。
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ノーベル文学賞受賞ということだけで、手に取った本。
しかし大変な本を読んでしまった。衝撃的以外の何物でもない。
日本語版刊行が1998年。いままで17年間読まずに過ごしてきたことが罪に感じられるほど、必読の書。
死を悟った子供のあまりにも純粋な声、愛する夫を失った夫婦の物語、
『私はぜったいに彼らを正しいとは認めません。ぜったいに。たった一人の女の子のために』『私は、だれ一人として正しいと認めることはできません』
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チェルノブイリ原発事故の被害者、関係者へのインタビュー。
軍人、近隣の大人や子供、消防士、ジャーナリスト、共産党員、学者といった様々な人達が、それぞれの視点から事故とその後の生活を語る。
事故発生後、じっくりとインタビューを重ねた結果、事故の姿がよく描き出されている。
人々それぞれの思い、考え、経験によって悲惨な経験や、悩み、勇気ある行動、時には軽口を叩く姿が語られる。それぞれのエピソードがとても重い。
さらに、事故の被害の甚大さだけでなく、人というものは驚くほど多様な個性を持つ存在だということを教えてくれた。
著者が、この事故をじっくり調べた結果生み出した重い文章は、統計や公式データ、あるいはニュース番組やSNSといった、普段我々が接するメディアでは報じることが難しい
タイプの文章だといえると思う。
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2015年ノーベル文学賞受賞作家のノンフィクション。チェルノブイリ原発事故に遭遇した人々の哀しい声の記録。特に放射線に汚染された体で、子供を産んだ人の描写はすさまじいものがありました。永遠に残して語り継いでいかなければならない一冊だと思います。
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以前、友人に借りた本です。今回、ノーベル文学賞を受賞だけではなく、福島で起こっていることを改めて見直す為に自分の本として手に入れました。
歯を食いしばる、なんのために。おそらく自分が誰かの不幸の上に胡坐をかいて座って生きていることが口惜しいため。
涙をこらえる、なんのために。泣く資格なんてない。だって、私たちは原発の恩恵にあずからないで生きていくことが想像もできない。
そんな傲慢な人間が一冊の本で心を揺さぶられる。
ここには広島があり、長崎があり、福島もある。
そこにいる人々はみんなごく普通のどこにでもいる人間で、幸せだったり、不幸だったり、様々な人生を送っている。私たちと変わらない。
ただそこに放射能があっただけだ。
正しさとは何だろう。勇気とは何だろう。悲しみとは何だろう。愛とは何だろう。生とは何だろう。死とはなんだろう。
私は幸福な日々に思う。それこそが人間の傲慢さなのだと。
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今年のノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシェービッチさんが書いたチェルノブイリ原発事故の関係者・被害者の証言をまとめたノンフィクション。
冒頭の夫を亡くしたリュドミーラさんの話が圧巻。事故の悲惨さと極限の愛。まるで超一流の純文学を読んでいるようだ。
その他のインタビューもソビエト連邦の国家主義のもとに隠蔽が図られるなか、犠牲になる人々の声がたくさん収録されている。
非常に重く、また素晴らしい作品だと思う。
しかし、最後の解説の日本人男の文章は非常に陳腐でいただけない。読まないことをおすすめする。
非常に優れた作品はそれだけで十分なのだから。