紙の本
東日本大震災とコントラストをなす関東大震災と「天譴 (天罰)」と
2011/06/29 22:05
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
東日本大震災をうけて再刊された本だが,おもな部分は戦前に書かれたようだ. 前半はタイトルになっている流言蜚語について書いているが,抽象的なのと,インターネットがある現在とはことなる状況のものなので,途中で読むのをやめようかとおもった.
しかし,後半は著者の関東大震災の経験をつづった文章をあつめていて,具体的かつ印象的な文章だ. そこではしばしば 「天譴 (てんけん)」 ということばがあらわれる. 「天罰」 にちかい意味だ. 石原慎太郎のことばがおもいだされる. 過去の震災が書かれている本として鴨長明の 「方丈記」 とヴォルテールの 「カンディード」 があげられている. 後者はヨーロッパに広範な被害をだしたリスボン地震について書いているという. 「カンディード」 との比較で日本の 「天譴」 ということばの軽さが指摘されている.
著者は「東京が消失しても,300 万の日本人が死んでも,涙を流す外国人は 1 人もいないでしょう」 と書いているが,東日本大震災でわかったことはそれとはまったく逆だった. そして,著者はまた大威張りで朝鮮人を殺して銃剣の血を洗っている兵隊と出会っておどろいているが,東日本大震災では日本人みなが献身的にはたらく自衛隊員のすがたを見た. このコントラストは現代の日本人の希望であり自信につながるものだ.
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第一部「流言蜚語」のみ読了.オリジナルは1937年.報道を環境への適応のために必要とされる情報チャンネルとした上で,流言蜚語を「アブノーマルな報道形態」と定義づける.a, c の情報のみが与えられており,全体像を構成するために不足の情報がある場合,それを補い首尾一貫した情報にするためにb’が外挿される,という流言蜚語の構造.「潜在的輿論」としての流言蜚語.
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本著は昭和12年に出版されたものだが東日本大震災を受けて復刊されたもの。
二部構成。第一部は流言蜚語について、その意味、定義等をロジカルに整理したもの。報道、与論との関係など、なぜ流言蜚語が生まれるのか分析を深めている。関東大地震における朝鮮人虐殺が背景にあるのだろうが、ロジックの進め方は抽象的で難解なところもある。
流言蜚語は情報が閉ざされた社会で起こり得るとしているが、情報の透明性が確保されているインターネット社会において流言蜚語が起こり得ないのか?
第二部は著者自身が少年時代に経験した関東大震災について。生々しい体験談。
「天譴(てんけん)」の考え方は、今回の東日本大震災でも唱えられたことでもあり、共通項が多いことに驚く。
首都圏直下地震が騒がれる中、冷静さを求めるためにも歴史を紐解くことが大切なのかもしれない。
以下引用~
・流言蜚語が生まれるためには、何かが与えられていなければならぬ。しかしすべてが与えられていてはならないのである。そこには与えらるべくして与えられておらぬものがなければならぬ。そして与えられておらぬものと欠けているものとは作り出さなければならぬ。
・医術の目標とするところが治療でなくかえって予防であるように、政治もまた流言蜚語が発生した後においてこれを禁止したり真相を発表したりするのでなく、その発生に先だって常に真相の発表に努力すべきであり、これによってその発生を防ぐべきである。
・知識の世界では全体の一部分を知っても他の部分を知らぬということがある。しかし信仰の世界では一部分を信じて他の部分を信じないということはあり得ない。全体か無かというのが信仰の世界の法則である。報道が流言蜚語から区別されるのは、前者が信頼されているからである。
・政治に関係するもの或いは社会を統制するものは、もし流言蜚語の発生を防ごうと欲するならば、まず民衆の信頼を得なければならぬ、と吾々は言った。
・言語への軽蔑の支配するところは、かえって流言蜚語の発生と成長とに有利な風土を持つということである。
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佐藤のメディア論の名著30に掲載された。実際は全集の中で150ページぐらいで読んだ。
清水が下町の自宅で体験した関東大震災での軍隊の朝鮮人虐殺のことが書かれているかと思ったら全く触れられていなかった。世論の本の最初の場面は引用されていた。ほとんど具体例なしの理論本であった。