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冒頭において、筆者は「文明」と「文化」についての独自の定義付けを行う。それによれば、「文明」とは概念の新たな文節化によってそれまでの世界からなにかを新たに切り分ける「驚き」の知覚であるとされ(これはサルトルや井筒の思想を思い起こさせるし、実際に後者の名を筆者は取り上げている)、これは以後<2>という呼称をもって表される。一方で文化とは構築主義的な「限られ、固定された思考の流れ」であるとされ、それは文明による文節化が定着した認識世界として、既にそこに確固として存在する。これは<2>との対比から<1>と名付けられ、さらにその可変的な遷移中間形態である<1.5>や、固定化した文化に対するニヒスティックな拒絶という<0>、といった概念を導入する。さらには社会や個人をヒューム流の「知覚像の集合体」(像とついているのは、たんに知覚とした場合にその主体が問題となるため)である多重主体性と定義し、併せて複雑な「まだら状の世界」の読み解きを試みている。純粋概念の扱い方が非常に手慣れており、この種の話としては読みやすい。
そしてなにより、筆者はこうした概念を概念のままにしておくことをよしとしない。むしろ西洋的な形而上学が持ち合わせている概念と現実との乖離をいかに埋め合わせるかがその主眼であり、現実にある物を、人間をまっすぐに捉え、それに適応できない思想をきっぱりと拒絶するその態度はまさしく哲学者のそれである。そして後半に入るにつれて、実際に<2・1・0>の概念を東アジアの三カ国(中・朝・日)それぞれの歴史的な自己認識として対応させることで(いや、順序から言えばこの3国の関係性を概念化するところから、本論は始まったのだろう)、その文明的自意識や思想の特殊性、関係性の語りを試みる。抽象と具体が高度に統合され、全体に知的誠実さと刺激的実験性に溢れる。実にユニークな一冊ではなかろうか。
<目次>
第一章 <文明>と<文化>
1,<文明>とは<2>である
2,<文明>の運動=<文明>の<文化>化
3,<文化>とはなにか
4,<文明>と<文化>の関係
第二章 人間とはなにか――<文明>と<文化>の主体
1,主体の関係性
2,主体の知覚像
3,心と物
4,<文明><文化>と知覚像
5,多重主体性
6,<文明>の定着とニヒリズム
第三章 <文明>と<文化>、そして社会
1,多重主体主義と<文明><文化>
2,多重主体主義と社会
3,社会とはなにか
4,現代社会と<2・1・0>
第四章 <2・1・0>の世界観
1,ふたつの世界観
2,新しい世界観へ
3,<文明>と<文化>をめぐる認識
4,文明論と文化論
5,<0>の立場
第5章 東アジア三国の<2・1・0>的自己認識
1,東アジアの<2・1・0>
2,中国の文化・文明論的自己認識
3,朝鮮の文化・文明論的自己認識
4,日本の文化・文明論的自己認識
5,<2・1・0>の誤謬
6,<2・1・0>の創造性
第六章 中国――儒教の<文明><文化>論的性格
1,<文化>=<文明>――孔子の戦略
2,老荘(��家)の世界観
3,文明の貧弱化――儒家の文明論的戦略
4,伝達される朱子学
第七章 朝鮮の自己意識――<小中華パラダイム>という戦略
1,朝鮮の<根源的知覚像>
2,朝鮮王朝の<文明>論
3,近代へ
第八章 日本文明論・日本文化論と<2・1・0>
1,なぜ日本「文化」論なのか
2,「日本=<0>」の諸相
3,日本の<世界史>的な自己意識
4,戦後日本の<0>性――<0>的自己意識への批判としての<0>的<文化>論
第九章 漢字の不透明性と東アジアのエクリチュール
1,東アジアの言語を考えるということの前提
2,「日本語」と「朝鮮語」
3,透明性と不透明性
4,東アジア・エクリチュールの未来
第十章 朝鮮の美と闘争
1,朝鮮の美とはなにか
2,白をめぐって
3,美と時間意識
第十一章 今、よそ
1,加速度から躍度へ
2,藤原定家の<よそ>
3,道元の<よそ>
第十二章 三島由紀夫は何を代表したのか
1,三島由紀夫というコイン
2,「みやび」とは
3,「文武両道」とは
4,「代表」概念への対案
終わりに
ディープ・フラット