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想田監督の創作態度に大いに共感。
モチーフを100%伝えるなんてできっこないことをわかりながらも
清濁あわせのむ世界を自らのフィルタを通し誠実に表現したいと努力する監督。
そうやって意識して作っているドキュメンタリー作者、意外と少ないんじゃないかと思った。
望ましくない現実も許容すること。
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この本、思いの外、面白い。新書向けの文体だと思う。新書でも、学術論文っぽいくせに、冗長的なものもあるけれど、これは、スルスルと、文字通り映画でも見ているかのように読み進んでしまう。構成が、ドキュメンタリー映画作家ならではだと感じるのは、褒めすぎ? けれど、著者が提唱する観察映画が、ナレーションも台本もない、つまり、準備された言葉で説明されないこととは対照的に、これは本。それゆえに、言葉で伝えなければならないジレンマがなかったのだろうか。観察映画には、台本、ナレーション、音楽や効果音が一切無いという。テレビ番組のディレクター時代の経験から、真逆の作り方を提唱するようになったのだそうだ。独身の頃、深夜のテレビ・ドキュメンタリーが好きでよく観ていた。深夜枠だったから、著者の考え方に近い作り方だったかもしれない。けれど、効果音こそなかったけれど、ナレーションは内容を伝える、重要な機能を持っていたように思う。著者は、最初にテーマや台本があると、対象を深くとらえられず、発見が得られない、と言う。対象を撮り続ける過程を通じ、テーマを発見していく手法は、僕達が恩師のもとで学んだ、居住環境/空間のフィールドワークと共通する。対象に対して、心を開くと言うスタンスも。【途中の感想につき、書きかけ】
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今夏「Peace」という映画を見ました。
その監督がこの本を書いているのですが、映画の裏側、思いを綴っていて、予備知識なく映画を見た私の(映画を見て不思議に思っていたことの)謎解きをしてもらいました。
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映画作家である想田監督が提唱・実践する「観察映画」とは?監督のドキュメンタリー論に触れて人、環境、社会、あらゆる出来事に対する見方が変わりました。想田監督の映画とあわせてオススメです!
【九州大学】ペンネーム:カカオ
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一種のメディア論でもあるが、筆者の映画や被写体、そしてこの偶然の積み重ねである世界に対する愛情が感じられた。
結局、映画でもテレビでも何かを表現することは世界を切り取ることであり、つくり手の「主観」が入るわけだけれど、この本に書いてあるようなことを知っているか知っていないかってことは結構重要であると思う。
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台本主義を捨て、僕らの目の前でおこっていることを観察することでみえてくる世界がある。僕らは台本主義、マニュアル、事前知識のおかげで、今そこでおこっていることを見逃してしまっているかもしれない。字幕も、ナレーションもない想田映画が、とてもワクワクして、説明抜きでも何が起きているかがわかって、見返したくなる魅力があるのは、これほどストイックに観察をし続け結果だった。映画PEACEのメイキングとしても楽しめます。
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ドキュメンタリーが作り手の作為から自由になれないという意味ではフィクションとの境が曖昧であるという主張は森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」と同じであった.森達也が同書でドキュメンタリーのフィクション性に徹底的に論及するしていったのと比較して、本書では作り手の意思から全く自由になる事はできないが、「台本主義」からできるだけ自由になるための参与観察の重要性を説く.
ドキュメンタリー論だけでなく、それぞれの映画への思い入れ、舞台裏、各登場人物の細かな感情描写、映画制作の台所事情など色々バラエティに富んだ内容となっている.
何より著者の登場人物達に対する親しみの気持ちがよく伝わってくる.
映像をとりあえず撮り貯めておいて、編集の時に多くの事に気づくなどは興味深かった.
以下同書から.
「観察」の対義語は「無関心」である.
観察は、他者に感心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである.それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる.観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない.
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恥ずかしながら今まで知らなかった映画監督、想田和弘さんの著作です。
「台本や事前のリサーチ、ナレーションや音楽などを使わない「観察映画」の提唱者」だそうで、本書ではドキュメンタリーとは何か、なぜ人がドキュメンタリーに惹かれるのかについて、想田さんの丁寧な言葉で綴られています。
4章にある、
究極的には「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくるのだと思う。
という意見に物凄く納得させられました。
私は観察映画と聞いて、大好きな「花とアリス」を連想しましたが、あくまであの作品から私が感じたのは、主演二人の演技力であり、それを引き出す岩井監督の技量であり、「人間の心の中を垣間見た!」とまでは思いませんでした。
と、いうワケで今、「映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外にあり得ない」と言い切ってしまう想田さんの作品をモーレツに観てみたい。
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ナレーションもBGMもないドキュメンタリー映画『選挙』を観て、想田和弘という監督を知る。この手法を彼は「観察映画」と呼んでいる。ここでは、その理論と実践、方法論などが明かされている。
「観察」とは、製作者である監督のみが行うものではなく、映画を観る者も行うという二重性を持たせた概念である。そのため、「しっかり観ること」「耳を傾けて聴くこと」が基本となり、ナレーションもBGMも自ずから排除されることになる。しかも、台本もなく撮影が始まるので、「観察映画」は、「偶然に遭遇し続ける旅」の様相を見せる。そして、スクリーンで展開されるドキュメンタリーは、人生そのものへと変貌する。
「犬も歩けば棒に当たる」という言葉が思い浮かぶ。
「偶然とは街だ。限りなく真実をはらみ、変幻する街、それでいて書物より単純な街」というセリーヌの言葉も想起させられる。
寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』」というタイトルの本があったことも思い出される。
平凡な日常も、実は偶然の連続であることに気付かされる。すると、「私は、はたして、目の前に生起する毎日の出来事を<観察>しているのだろうか?」という自問が立ち上がってきた。
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フレデリック・ワイズマン
結果的にテーマが出てくるのはよいが、製作中にテーマに縛られないことが肝心なのである
個人的には、タイトルはシンプルであればシンプルであるほど、観客の頭の中でイメージが広がりやすく、強い印象と余韻を残すのではないかと思っている
ショットが長ければ長いほど、観客に自分の目で観察・解釈できる時間が与えられるので、映像は多義的になる。逆にショットが短ければ短いほど、作り手による操作の強度が高くなり、映像は多義性を失っていく
観客に観察モードを立ち上げさせるために、長いショットを使う
つくづく思うのは、作品が結果だとすれば、方法論は原因である。旧態依然たる作り方をすれば、必ず作品もそうなる。原因をそのままにして、結果だけ変えようとしても無理だからである。逆に言うと、作品を変えたければ、方法論を変えればよい。それは映画だけでなく、あらゆる分野の「イノベーション」に言えることだと思う
マース・カニングハム チャンス・オペレーション
ブレアウィッチは、映し出された学生たちが現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた
同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものか
観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察にならざるを得ない
映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。既成の言葉を介在させることなく、現実をダイレクトに映し出すことが可能だからだ。だからこそドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組そのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。ドキュメンタリーにナレーションによる説明が不要であることの、もう一つの重要な理由であろう
演劇を観る人々は、「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくる(平田オリザ)
そして、俳優が演じる演劇なら、いくら人間の心の内側を覗き見ても、倫理に反することはない
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ドキュメンタリー監督想田和弘が徹底してこだわるのは、リサーチ、台本、ナレーション、テロップ、BGMなどの添加物を排し、対象のリアリティをえぐりだす「観察映画」という方法。
本書はその具体的な方法論と撮影についてのエピソード、方法の背景にある哲学などをまとめたもの。
テレビが往々にしてそうであるように、ある対象に最初から楽しい、正しい、悪い、汚いというようなラベルを貼る「テーマ至上主義」は、作り手としても合理的、受け手としてもわかりやすい。
僕も研究をしていると、最初に明確なテーマを設定するかということを口酸っぱく言われる。
たしかにテーマ至上主義は合理的なんだけど、そうすると現実がもつ多様性、リアリティを枠にはめ込むことになり、つまらなくしてしまうのだ。
日常生活でもそう。最初から「近頃の若者は」とか、「限界集落はもはや」とか、ラベルを貼ってしまうことで見落としているものは多い。
安易な決めつけを排した「観察」を意識することは、他者への理解、やさしさにつながるはずだ。
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ドキュメンタリー映画って客観的と思われがちだけど全然そうじゃないんやな。それがすごくよくわかった本。
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ドキュメンタリーというジャンルで映画を作っている監督が自分が撮った映画『選挙』『精神』『peace 』という作品をベースにドキュメンタリーについて、自分の作品について深く記述してある。ドキュメンタリーといっても様々な方法や手法があることや、監督自信が撮影するに当たって気をつけていることや自分の作品への回顧など、ドキュメンタリー映画の業界の事など、映画好きの人は楽しく読める。
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ドキュメンタリー映画を最近好んで見る。多額のお金をかけずにプロの俳優も使わずに、自分たちのお金で自分たちの映画を撮るドキュメンタリー映画。有名になって大ヒットしたりすることもないけれども、じわじわと感じられるよさがある。
そんな映画の中でもマイナーのドキュメンタリー映画の中で、ちょっと変わった映画が想田監督のドキュメンタリー映画である。彼はセレンディピィティを追い求めて映画を撮るという。
“Serendipity” :思いがけないものを偶然発見すること、能力
想田監督の映画は「観察映画」というスタイルを標榜する。台本を書かない観察映画の方法は予期せぬ偶然や発見を呼び寄せ人々の内面のやわらかい部分を描き出す。
作り始めの時にはテーマもなく撮影がどうなるか分からず、一種のギャンブルともいえるが、偶然が拾える準備は入念にしておき、Serendipityが訪れるときを逃さない。
もともと彼はNHKのドキュメンタリー番組を撮っていた。ひとつのドキュメンタリー番組では撮影スタイルは今とは間逆で、台本通りに撮ることに重きが置かれていた。
一方、観察映画を撮るにあたっての10の具体的方法論は以下の通り。
1. 被写体や題材に関するリサーチを行わない。
2. 被写体との撮影内容に関する打合せは原則行わない(集合場所などは除く)
3. 台本は書かず、撮影前や撮影中に作品のテーマや落としどころを設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
4. 機動性を高めるためカメラ・録音は原則一人で回す。
5. 必要ないかも?と思ってもカメラは原則長時間で回す。
6. 撮影は広く浅くではなく狭く深くを心がける。
7. 編集作業でもあらかじめテーマを設定しない。
8. ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。
9. 観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、その場に居合わせたかのような臨場感や時間の流れを大切にする。
10. 制作費は基本的には自社から出す。
本当に上記の方法でうまく撮影できるのだろうか、と思ってみてみたのが、想田監督の最新映画は「牡蠣工場」という映画。奥さんの実家のある岡山県牛窓で漁師さんに出会う。日本の漁業に関しての映画が撮れると思い、「仕事場」に行くと、そこは牡蠣の殻剥き工場。船で魚を撮るイメージを想像していたがはじめから大きく覆される。
しかし、監督は観察を欠かさない。工場のカレンダーの脇に「9日中国来る」という書き込みがあり、そこから牡蠣工場の牡蠣剥きという作業が高齢化が進み中国からの研修生無しには成り立たなくなっている現状や、しかし中国から来た研修生がいつの間にかいなくなってしまって受け入れが必ずしもすんなりうまく言っているわけではない現状が次から次へと明らかにされていく。
多分いいドキュメンタリー映画は遊びがあり、見た人それぞれの感じ方が異なり、いろいろな解釈がある映画を指すのだろうと思う。
例えば、普段の仕事でも、計画通り(台本通り)にある決められた範囲の答えに向かって進めるのはとても大事なことだけれども、計画や結論ありきの仕事はこなす感じになってしまうし、なにかとても大事な出会いを失ってしまうような気もする。
そんなことを考え、来るべきセレンディピティが来たときに気付けるように、適度に計画を緩めて過ごして行きたいと思う。
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2019年7月12日読了。
●観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカ
で勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメン
タリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極
力借りずに、撮れた映像と現実音で全てを直接的に
(ダイレクトに)語らせる方法である。
→『大統領予備選挙』ロバート・ドリュー監督/1960年
●ダイレクトシネマ
「生の素材=現実や登場人物に雄弁に語らせる」ことを
主眼にした、一種の思想運動と捉える事が出来る。
「現実に耳を傾け、何かを謙虚に学ぶための装置」
●毎回1人の人物を取り上げる20分間のドキュメンタリー
『ニューヨーカーズ』NHK
●『戦艦ポチョムキン』エイゼンシュタイン/1925年
→モンタージュ理論
●観察映画で発揮すべき作為とは「無作為の作為」。
作り手の「ああしよう、こうしよう」という作為を
可能な限り消すこと。
●マース・カニングハム
ニューヨークを拠点に活躍した、ダンス界の巨人。
前衛音楽家のジョン・ケージと親交が深かった彼は
1950年代、サイコロや易を使ってダンスの振り付けを
始める。偶然性を基盤に振り付けを行う「チャンス・オ
ペレーション」と呼ばれる手法を確立。
●ドキュメンタリーとは、「偶然の出来事の連なりをとら
え、作品に昇華される芸術」
●本
『ドキュメンタリーは嘘をつく』森達也
「ドキュメンタリーもフィクションである」佐藤真
●世界初のドキュメンタリー映画
『極北のナヌーク』ロバート・フラハティ/1922年
●『A』森達也/1997年、『阿賀に生きる』佐藤真/1992年
●原一男は自らのドキュメンタリー作りを「冥府魔道に入
る」(踏み越えるキャメラ)と表現し、佐藤真は「あら
ゆるドキュメンタリー作家は、いかに善人ぶったふりを
していようと、本質的には悪党である」(ドキュメンタ
リー映画の地平)と書いた。
●会話を入れ込むヒントとなった映画
『フォーエバー』エディ・ホニングマン/2006年
●師匠・中村英雄
日テレの『すばらしい世界旅行』などを制作。