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自分も学生の時からドキュメンタリー大好きだったので論文を書くために森達也、フラハティ、ワイズマンなどなどたくさんの映画観たなーと思い出した。
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ナレーションや音楽をかぶせないということは、映像が本来持つ多義性を尊重し、残すということなのである。(p.90)
そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルの存在自体がナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、作品に偶然性を取り込むことによって、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開=ドキュメンタリー的驚天動地が期待できるからである。(p.117)
「観察」という行為は、一般に思われているように、決して冷たく冷徹なものではない。観察という行為は、必ずといってよいほど、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴うからだ。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察せざるを得なくなる。(p.125)
「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。観察は、自己や他者の理解や校庭への第一歩になりうるのである。(p.126)
橋下さんは自らの死について語るとき、必ずちらりとカメラを見るのである。たいていの場合、それはほんの一瞬なので、たぶん大多数の観客は気がつかない。僕も撮影のときには気づかない一暼が多かった。(中略)ただひとつ言えることは、橋下さんはカメラの前で、あたかも撮影されていないかのような、とても自然な振る舞いをされているけれども、実はカメラの存在に意識的であったということだ。少なくとも、カメラを一瞥する際、つまり自らの死について言及する瞬間には、カメラと僕の存在を強く意識していた。(p.165)
映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外に、あり得ない。だとすれば、撮影者の存在必死でかき消し、“なかったことにする”ことに、僕は積極的な意義をあまり見出せない。(p.178)
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(01)
観察、そして参与観察という問題が、著者のドキュメンタリーの中心として語られる。当然、観察にともなる加害者性や暴力についても言及されている。
人間の「やわらかい部分」を撮影(*02)し、公開することにおいて、被写体の同意があるとはいえ、著者も含め、ドキュメンタリー作家には罪悪の意識がともなわないわけではない。そのような加害性のある映像についての著述は、贖罪にもなりうるし、言い訳のように読めることもある。
(02)
ドキュメンタリー映画もフィルムからデジタルへと技術が転換し、低予算で多くの撮れ高を生産できるようになったことが、ドキュメンタリーの再興につながったと説明されている。また、編集作業は、観察映画にとって発見の過程であるとされる。二次三次にわたる取材内容の点検が作品の質に寄与しているが、それ以前の多産性は、ドキュメンタリーのより大きな可能性につながるように思える。映像素材の量的な氾濫は、ドキュメンタリーのみならず、映画の変革を促すのかもしれない。