「未曾有」や「想定外」といったあいまいな「呪文」をクチにしない、させないために
2011/11/07 17:53
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投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
「失敗学」の畑中洋太郎氏が、「失敗学」と「危険学」の立場から、今回の「3-11」の大地震と大津波という「自然災害」、そして原発事故という「人災」をどう考えるかについて一般向きに書きおろした本である。
「3-11」後、とにかく耳についたのが、専門家たちがクチにする「未曾有」と「想定外」というコトバだ。専門家ではないわたしたちにとって責任放棄としか聞こえないこのコトバに対して、著者もまた本書で厳しく批判している。あいまいさのなかに本質を隠してしまう呪文のようなコトバだからだ。
「想定」の「枠内」であれば、手順さえ間違えなければ問題解決はそれほど困難ではない。しかし、「想定」の「枠外」になるととたんに右往左往してしまうのが専門家である。想定外の事象にかんしては、その場その場でイマジネーションをフルに発揮して対応しなければならないからだ。ここで専門家の限界が明らかになる。
「想定」という枠の範囲を可能な限り拡げれば、ほぼすべての事象が「想定内」となるわけだが、実際問題、予算や時間など使える資源に制約がある以上きわめて難しい。「想定内」の問題解決はマニュアルでも対応可能なのだが、千年に一回しか発生ししない大津波を「想定内」として対処するのは、いくら予算があっても足りる話ではない。つまりは非現実的ということだ。
「想定内」か「想定外」かは、「想定」どう設定するか次第である。そのためには問題設定が重要だということだ。とはいえ、時間の経過とともに「想定内」の枠をめぐる環境も変化することも忘れてはいけないと著者は注意喚起している。思考停止状態にならないためには、つねにみずからシミュレーションという思考訓練を行っておく必要があるのだ。もちろん、カラダもすぐに動けるようにしておかねばらない。
著者の指摘で傾聴に値するのは、自然と「折り合う」ことの重要性である。すべてを想定内とし、防潮堤で津波をすべて防ごうとして世界有数の防潮堤を建設し、鉄壁の守りと思われていた田老町のケースにおいては、今回の大津波であっけなく防潮堤が決壊し、想定外の被害がもたらされてしまった。人間のチカラで自然と全面対決するのではなく、自然災害を「いなす」、「すかす」といった対応をとってきた、昔の人々の知恵に学ぶべきではないかという教訓だ。
あらためて気づくのは、こうした日本人の先人の知恵が、漢字語ではなく「ひらかな語」だということだ。漢字語やカタカナ語は、いかにも近代科学的なニュアンスを感じさせるが、自然を征服できると考えてきた近代科学の限界を痛いほど知らされたのが、今回の「3-11」の大災害であったことは真剣に反省しておきたい。
「天災」は、日本という国にいる以上、避けて通ることはできない。文明が進めば進むほど、自然災害による被害は増大するだけでなく、たとえ一部の損害であっても、すべてがシステムのなかに組み込まれている以上、その被害はシステム全体に拡がる。これは「天災は忘れた頃にやってくる」と喝破した物理学者・寺田寅彦の考えだが、読者も著者ともに深くかみしめる必要を感じている。
真摯な反省の本として、一般人だけでなく、「専門家」と呼ばれる人たちにもぜひ読んでいただきたいと思う。
災害に対する著者のかんがえには,まなぶべき点がおおい
2011/09/04 10:07
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
東日本大震災に関してもつぎの災害へのそなえに関しても,すでにさまざまな議論がなされている. 著者もおおくの部分でそれをなぞっている. あたらしい防潮堤より「減災」をめざしたふるい防潮堤のほうが効果的だったこと,避難のこころえ,などなど. しかし,とかく死者を美化したがる風潮に対して,著者は死者がどういう失敗をしたのかを検証しようとしている. ひとびとに津波の危険をしらせながら死んでいったひとについても,いきのこる方法がなかったのかをかんがえるべきだという. 原発事故に関しても東電や国を罵倒して 「ガス抜き」 しているひとを批判し,現状では不十分な台風へのそなえに関しても言及している. 災害に対する著者のかんがえには,まなぶべき点がおおい.
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「失敗学」「危険学」の畑村先生の最新刊。東日本大震災のさまざまな被害のうち、主として津波と原発事故について述べられている。
さまざまな示唆に富んだ考察は、今後の防災(というより減災)を考えていく上で重要である。是非多くの人に読んで考えてもらいたい本である。
さらに「原発事故調査・検証委員会」の委員長に畑村先生が就任されたことは、”最適任”としか言いようがないぐらいベストな人選ではないだろうか。是非とも後世に残る報告書をお願いします。
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失敗に学ぶ事は大事。反射的な脱原発ではなく、何を学び何を改めるのか。福島被災地の方すみません。一方、人としては失敗を忘れる事も大事。
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防災対策を考えるときに「死んだ人が見た風景」を知るという見方というのは斬新。災害は忘れたころにやってくるということを、「失敗学」「危険学」から科学的に説明されていた。人は忘れる生き物。そのために何をするのかが重要。
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人間は成功することを目指して生きるが、失敗から学ぶこともある。むしろ失敗を学ばなければ進歩はありえない。筆者は「失敗学」の提唱者としても知られている。今回の大震災を踏まえてこの考え方を述べているのが本書の主旨である。
第1章では「未曾有」という言葉を津波防災の観点から考えている。過去の歴史を調べれば、今回の災害は言葉どおりの未曾有ではなかったという。人は過去のこと、とりわけ都合が悪いことを忘れてしまうという特質があることを考えるべきだというのだ。確かに私たちは反省しないし、懲りない。個人の人生の中だけでもそうであるから、まして数百年という単位にしてみると記憶や伝承は忘れられ、ついにはかつて存在したかどうかも怪しくなっていく。これが未曾有ということばの背景にあるものだというのだ。
第2章では「想定外」を原発事故の観点から考えていく。今回の事故は決して「想定外」ではなく、想定をしきれなかった、もしくは思考停止していたことが問題だという。原発関係者がいわば村組織のような閉鎖性をもっていたというのは最近読んだ本にも書かれていたが、そうした集団としての特性も想定の幅を狭めていたのではないかというのだ。これは日本の技術全般に及ぶ問題ともいえる。
第3章では日本人にとって自然災害は必然であり、自然の恵みを受けるとともに災害は「すかす」必要があると説く。つまり自然を制御するのではなく、知恵をもって折り合いをつけていく態度が必要だという。原発問題に見られるとおり、日本人はその技術力を過信してきた。ここにきて、再び自然との共生を考えるべきだというのは、これまでもよく言われてきたことではあるが、今この時点になってみると切実な問題として再認識しなければならないと思った。
被災地では「未曾有」「想定外」は禁句だという人もいる。それはこの災害を特殊な出来事として過去の努力や対策を切り離してしまう言い訳のようなものだからだ。今回の災害の被害は計り知れない。でも、この痛みも人間は残念ながらすぐに忘れてしまう。そして次の機会に生かすことができない。そうならないように災害の状況を詳しく調査し、原発事故後の対応を厳しく検証することによって未来の災害への対策にするべきであろう。
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【きっかけ】
東洋経済オンラインの書評
http://www.toyokeizai.net/life/review/detail/AC/e72cc17745b8ba1a13bfee95f3a6d8eb/
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甚大な被害をもたらした東日本大震災、その被害の原因を冷静に分析して、今後の防災・危機管理をどのように行うべきかを論じる書。客観的事実を元に、人間の危機管理・危機に対する意識の性質・本質を浮き彫りにし、そこから今後の具体策を述べています。「誰それが原因だ」「このミスが原因だ」というだけで終わるのではなく、そこからさらに踏み込んで、どうしてそんな原因が生まれたのかという、問題の本質である人間の性質にまで踏み込んでいて、自分自身の危機に対する意識の持ち方を見つめ直すとともに、これから自分自身が危機に対してどう生きるべきか、その観点を持たせてくれましたように思います。この震災から、生きている我々は学び、次の世代につなげなければならない。
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ご恵贈頂いておきながら、読んでいなかった。
不覚。
大変に興味深い。
「死んだ人が見た光景」(62ページ)、「信玄堤」(72ページ)、完全な高台移転は今回も実現しない(77ページ)、原子力の専門家は「想定する」のが責務だということ(91ページ)、「問題設定」と「問題解決」について前者が圧倒的に難しいということ(96ページ)などなど。
また、山の「崩れ」について言及されているが(162ページ)、思わず幸田文の「崩れ」を思い出した。そうしたところ、その数ページ後できちんと触れられている。
これは、やられました。
こういうところで、作者に対する信頼性がぐっと増すわけですね。
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日本人とは自然災害から学んできた人々とは、まさに至言。今回の大震災が未曾有ではなく、原発事故が想定外であってはならなかったことを理路整然と述べていて、次の災害の予測までするあたり、失敗学の面目躍如です。
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終始一貫して「未曽有とか想定外とか言ってるけど,前にもあったやん.忘れるなよ.」.後でもう一度しっかり読みたい.
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津波には対抗するのか、備えるのか?
多くの人々の頭の中には、防波堤に守られているという安心感があった。
原発事故で、見たくないものは見えない、聴きたくないことは聞こえない、考えたくないことは考えないという自分に都合のいい施行をする人間の困った性質が見られる。
おおくの技術はリスクとベネフィットのバランスの中で活用されている。
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『失敗学』の著者として有名な畑中教授。今回の東日本大震災を、「失敗学」の観点から考えるとどうなるのか。本作品では以下の3つが特に主要なポイントであると考える。
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(1)「未曾有」「想定外」という言葉に隠された本音
教授は「未曾有」「想定外」という言葉に潜む危険性を指摘している。つまり、それらの言葉を用いることで曖昧さの中に物事の本質をすべて覆い隠してしまう危険性である、ということだ。
これらの言葉を繰り返し用いることで、「未曾有のことが起きたんだから仕方ない」、「考えても意味がない」と人々の思考停止を招き、本来行うべき原因調査とそこから得られるはずの教訓に備えることが出来なくなる、と述べている。
専門家は、起こり得る事すべてを想定することが専門家たる所以であり責務である。原子力技術を扱う仕事は、想定外という言葉ですべて免罪になるような軽いものでは決してない。それは、想定外という言葉を繰り返し使う専門家にも同様に当てはまる。
「想定外のことを想定して、初めて専門家は専門家としての責務を全うする。」
以上の責務を全うしている真の専門家は国内に果たしてどれだけいるのだろうか?
(2)「コンプライアンス」の意図的語釈
コンプライアンスは通常、「法令遵守」という言葉に訳される。実際、「コンプライアンス=法令順守」という図式は社会で広く浸透しているのではないだろうか。
実は、コンプライアンスは「社会の要求に柔軟に対応する」というのが本来の意味らしい。ここにコンプライアンスの意図的語釈がある、と著者は指摘する。つまり、「法令さえ守っていればいい」という誤ったメッセージを与え、その結果、事の本質を矮小化し、日本の組織から危機管理能力を削ぐことにつながってしまう、と危惧している。
(3)「見たくないものは見えない」「聞きたくないことは聞こえない」という人間の本質
人は自分にとって都合のいい思考をするという性質を有している。これらの性質は記憶の忘れっぽさと同様に、事故や失敗を引き起こす要因である、と著者は述べている。
しかし、これらの人間の本質を逆手に利用すれば事故や失敗を防ぐ有用な手段に成り得るのではないかという指摘は大変興味深い。つまり、従来の発想を転換し、「見たい」とか「聞きたい」という姿勢を持てば想定を変える必要性に気付くのはそれほど難しいことではないのだ、と言う。
「危険が見たい」という意識で色々な物事を注意深く観察すれば、どこにどんな危険が潜んでいるか分かってくるようになる。物事の見方をひとつ変えるだけで、想定外を想定内に取り組むことが可能となる。
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人間の歴史とはすなわち被災の歴史でもある。
日本という国で暮らす以上、私たちは歴史から学ばなくてはいけない。今回の震災でも、私たちはそこから何らかの学びを引き出さないといけない、それは同じ時代に同じ日本で生きている者の務めではないだろうか。
自然災害という人智では計り得ない事態に直面したとき、最後に頼りになるのは自分自身である。最後は自分の眼で見て、自分の頭で考え、判断し、行動するしかない。
私たちは今回の災害を転換点にできるのだろうか?
それはこれからの私たち自身の行動に懸かっている。
文末の締めとして、本書で取り上げている寺田寅彦の言葉を引用したい。
「わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である」
今回の大震災で事を発した一連の問題から私たちは学ばなくてはいけない。そして同じ過ちを二度と繰り返さないようにしなくてはいけない。それが今を生きる私たちの責務であり、これから生まれてくる子供たちの未来を守ることにつながるのだから。
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(2011.11.25読了)(2011.07.15購入)
☆畑村洋太郎の本(既読)
「だから失敗は起こる」畑村洋太郎著、NHK知るを楽しむ、2006.08.01
「数に強くなる」畑村洋太郎著、岩波新書、2007.02.20
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失敗学のすすめで有名な畑村洋次郎先生。
某漫画で、金をかけて作ったものが良いモノとは限らないが、失敗を知って、それを乗り越えて作ったモノなら、それは良いものだ。とあるように、エンジニアリングには失敗が付きものであり、それを知見としてまとめ、今後に生かしていくことは極めて重要なプロセスである。
そんなのあたりまえで、一般論かつ理想論ではないかと反論するかもしれないが、実はこれを体系的に整理し、設計(保守)にフィードバックすることはなかなか難しい。
具体的な方法論は失敗学のすすめを読んでもらえば良いとしても、ここでは本書「未曾有と想定外」の書評を記す。
まず、筆者は未曾有という言葉を使い分けの説明を行う。未曾有というのは、歴史上初めて事象であり、いまだかつてないものと定義する。この言葉は便利で、どこぞの電力会社の言い訳によく使われているが、それを使うと本質を見えにくくするという可能性を有する。
確かに、今回の事象は未曾有の事象であり、対策のしようがありませんでした。と、いわれるとなんだかしょうがないな、と思ってしまうけれど。
筆者は、これについて2つコメントをしていて、未曾有という簡単な言葉で終わらせることなく、物事の本質を見抜くつまり、なぜ、大地震を予測出来なかったか。そして津波が来たときにどのような事を起こりえるのかを考えなかったのか。という原因分析の必要性を述べている。
そして、歴史的に見ると、今回の津波は数百年スパンで見ると決して珍しいものでなくむしろ過去に数回起こっている。しかし、哀しいかな人間は忘却の生き物であり先人たちの失敗を再び繰り返してしまったとも述べている。
今回の原子力発電所の事故で調査委員会のトップとして、文字で今回の事故を記録し、何が良くて何が良くなかったのか―それは誰に責任があったのかという問題ではなく―を知見として残し、今後に繋げていくことが責務であると述べている。
が、残念ながら筆者は原子力の専門家でないのが至極残念。
電気事業者が「絶対安全」を繰り返し使用してきてこの事故は組織に改善の意識が乏しく、マニュアル通りにこなせば良いという考えが蔓延した結果だと言っている。まず、原子力のエンジニアが「絶対安全」といったことは絶対ない。なぜなら、現場の作業員は、原子力は事故を起こせば危険であり、作業ミスを起こせば、事故につながるという意識で作業しているため、原子力が絶対安全なんて考えるはずがない。むしろ、原子力は危険ですが、こんな対策をして十分リスクが小さくなるような作業をしています、という説明をするだろう。絶対安全はマスコミが創りだした、妄想である。
そして原子力システムをあまり理解していないようである。
まず福島第一原子力発電所1号機でアイソレーションコンデンサ(IC)を操作員が手動で停止したことは問題であると考えているが、これに関して反論がある。まず、著者は緊急時でICを停止し、冷却を停止したため炉心溶融が早まった。もしICを運転し続けたら延命でき、その間にベント操作して炉心溶融は防げたと述べているが、ICを停止したのは、原子炉がスクラムをしてICが自動で起動して、津波が来る前の出来事である。どうしてテレビやニュースが聞くことができない状況で、ましてや大津波警報が出ててて4mとアナウンスされた状況で、10m規模の津波が襲来し、ICが起動できなくなることを予測できたというのだろうか。
また、原子力ビジネスは建設から発電に至る全てのプロセスは許認可制度である。
つまり、事業者の設計に対して安全性に責任を持つのは許可者である国である。それなのに、筆者は組織にのみ注目して、制度のあり方には触れていないのは極めて残念である。
調査委員会の最終報告書が待ち遠しいが、これらの点に言及し、調査していることを望むばかりである。
本書は、事故が起こり調査委員会にアサインされたために今までの筆者の考えを短くまとめたという印象が強く、内容はあまり吟味されていない感じである。
筆者ほどの著名な方が、軽々と今回の事象は組織事故であり、頭でっかちの電力会社の体質に問題があるという意見を述べるのは軽率すぎると思っている。
それならば、今回の事故をよく観察し、一般の企業にも起こる想定外(これはマニュアルに記載されていない事象という意味)の事象に、どのようにアプローチしていくのかという方法論を実例とともに紹介するほうが良かったと思う。