紙の本
文明のインターフェイスとしての思想家
2011/10/23 16:15
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近、友人との会話のなかで、原発と自動車は同じかどうかが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利用するのとは同じことだという意見に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、何がどう「違う」かは自分でもよく分からなかった。
その時は『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだから云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。
後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車しかないが電力を安定的に供給する方法は原発だけではない、第三に自動車の原理や技術の基本は確立しているが原発の制御はそうではない(原理的にも技術的にも未知の領域が多すぎる)の三点だった。
第二、第三の点はあまり自身がない。特に第三の理由はほんとうにそうなのかよく分からない。このことを考えたいと思って、『大津波と原発』のもとになったラジオデイズでの内田樹・平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始められたという『日本の大転換』を読んでみた。
中沢新一さんはこの150頁ほどの小さな書物のことを「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「緑の党みたいなもの」の立ち上げを宣言した著者がそこで約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。
ここに書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。
たとえば「太陽と緑の経済学」の先駆をなすピエロ・スラッファの「贈与的変換の部分を組み込んだ生産」の理論が、十八世紀のフランソワ・ケネーによる「フィジオクラシー(重農主義)」を原型としているという話題に続けて、「これについては、すでに『純粋な自然の贈与』に詳しく語ってありますから、ここでは多くは繰り返しません」とあるのは著者自らが言及している例だ。
そのほかにも人間の心のトポロジーと贈与の経済の構造との相同性をめぐる話題については『愛と経済のロゴス』で十全に論じられていたし、日本文明がもつ「インターフェイス性」や「ハイブリッド性」等々の話題も『フィロソフィア・ヤポニカ』で余すところなく論じられていた。
また本書で始めて、マルクスやバタイユやハイデガーの仕事を先駆形態とする「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という新しい知の形態が提唱されているのだが、これにしてもその議論の中身(すべてのエネルギー革命はそれに対応する宗教思想と新しい芸術をもっていて、来るべきエネルギー革命は一神教から仏教への転回として理解できる云々)を見ると、必ずしも初めて目にするものではない。
そもそも「媒介のメカニズムを使って生態圏の出来事を解釈する哲学的思考」としての神話や一神教や「第二種交換」としての芸術のあり方などは、中沢新一のラフワークともいうべき対称性人類学をめぐる「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体のテーマである。
それではこの「パンフレット」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。
それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき時ではなかったからである。
この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学者・中沢新一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。
《日本はいま、文明としての衰退の道に踏み込んでしまいかねない。その日本文明が大津波と原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、新たな生まれ変わりへの道を開いていくために、私たちがとるべき選択肢は、ただひとつであるように思われる。幾重にも重なった困難のいばらを切り開いて、前方に向かって、エネルゴロジー的突破を敢行すること、これである。
もとどおりの世界への復帰ではない、自然回帰的な後退でもない。私たちは前方に向かって、道を切り開いていくのである。私たちは、世界に先駆けて自覚的に第八次エネルギー革命[アンドレ・ヴァラニャックはエネルギーの歴史を七段階に分類し、第二次大戦後の原子力とコンピューターの開発に基づくそれを第七次革命と呼んだ]の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。そしてそれをとおして、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に、大きな転換をもたらすのである。そのように今日の事態を理解するときにはじめて、私たちには希望が生まれる。》
最後に、原発と自動車の違いをめぐる先の論件について本書読了後の見解を述べておくと、自動車の場合は「媒介のメカニズム」もしくは「インターフェイスの構造」が社会と人間と技術の間に組み込まれているが原発はそうではない。そこが決定的に違う。
紙の本
しなやかな性転換
2011/10/11 00:05
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
原子力発電所とはいかなる思想の下に生まれたものなのか?一神教の国々で芽吹き、ソ連のニンゲンによってで初めて実用化されたゲンパツは、自然を制御してこの星の「小さな太陽」となるはずであったが、どうやらチェルノブイリからフクシマを経て、その役割のピークを終えようとしている。それはゲンパツを生んだ思想がこの星の実態に合わず、資本主義とか共産主義とか、政府の大小とか、そういう既存の知の枠組みが機能しなくなってきている示唆だ。
地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学をひとつに結合するような新たな知の形態が生まれない限り、わたしたちが今直面している問題に正しい見通しを与えることなど出来そうにない、と中沢先生は言う。本書はその新たな知の形態を模索する中沢先生の一連の思考の長い延長にありながら、思考から行動へと大きく舵を切り始める端緒となる書である。
一神教的で自然搾取的な価値観に基づいたゲンパツが緩やかに衰退する中で、それでも日常の生活の質を諦めることなく現実に対処していくには、私たち自身を活かしている太陽と緑に寄り添って、太陽と緑の活動原理を経済原則に組み込む必要がある。これまでコストという経済事情に阻まれていた太陽と緑の経済化は、詰まるところ、この地球でしか生きられないニンゲンの生を問い直すことでもある。そして現代の科学や貨幣だけでは割り切れないわたしたちの生を省みるヒントとして、ここにあらためて仏教がクローズアップされている。
とはいえ、大転換には長い時間がかかる。自然は時に酷いほどに現実をばっさりと切り裂いてしまうけれど、社会はそんなに急には曲がれない。けれど、曲がる意思を示すのは個人で、示し続けるのも個人で、その個人を束ね、近代を超える知の新たな形態を実践するのは、男根主義的な政治や経済を超えた、しなやかな経営とかデザインというものではなかろうか。女子高生からマネジメントしてしまうこの国には、いずれしなやかに組織を動かすなでしこがたくさん出てくるはず。天照大神の国の経営は、JKが課長になる頃にはきっと百花繚乱。それまでにやるべきことは、あの無味乾燥でしなやかさのかけらもない太陽光パネルを、カワイイと言えるくらいに洗練させておくことくらいかな。
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アナロジー全開のアッパー系文明論的脱原発論.生態系に外部性を無媒介に取り込むものとしての原発,一神教,市場主義.ケネーのフィジオクラシーへの言及
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『イカの哲学』以来の中沢新一の本だが、やはりこの人の言説は全て「宗教」ががかっている。思考の抽出の仕方が特殊であり、懐かしくもあり、今は遠い世界の話のようにも思える。3・11以後の日本文明のあり方が、これまでのあり方は変わるという意見には納得するが、「贈与」という思考手段にこだわり演繹的に自論を提示していく方法は、回りくどくもったいぶった生活とかけ離れた世界である。
エネルギーを8つの段階に分け、原子力エネルギーは当然第7段階ととらえ、これからのエネルギー政策を第8段階として遂行していくという意志は認める。現在も小型原子炉開発は先端技術として研究されるべき技術である。それを完全否定するのではなく、原子力発電という技術自体が自然界にあるまじき姿であり、それを勇気をもって捨てていくための思想的バックボーンであろうと心がけているのだろう。それには大いに賛成する。
本書が、あらゆる具体的な事象を通り越して形而上の「思想」として、完成させるための第一歩であるのならば、巷でまかり通るインチキ思想をもここに収斂されていくだろう。中沢新一はいろいろな意味であやしさもあるのだが、こういう立ち位置で世界と対峙する日本人がいてもいいと思う。
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中沢新一の新著である「日本の大転換」では、この大きな転換期に基づく新しいライフスタイルがなんなのか、そしてどのうような未来図を見出さなくてはいけないのかが短めではあるが解説されている。
ところで、ぼくはこれまでブログなどで何度も主張してきたが、この原発事故はもともと人間には手に負えないモノをさも知ったふうにして取り扱った結果であり、そして取り返しのつかない状況もまた結果である。ぼくらはこの結果を踏まえ、脱原発の方向で新しい生き方を模索してくしかない。
そのことを中沢新一は肯定的にさらに具体的な可能性を導きだしてくれていることに、すこし気が楽になった。未来は明るいわけではないが、そんなに暗くもない。それはぼくらの意識次第なのだ、ということをあいかわらずの語り口でさらっと言い切る中沢新一にまたしても聞き耳をたててしまうのだ。
中沢新一は、原発というシロモノを「生態系の外部にある核の物質現象を無媒介で生態系の内部に持ち込みエネルギーを得ようとするシステム」と定義した。つまりこれは原発が太陽を創りだす装置と位置づけてもいいだろう。沢田研二が演じた「太陽を盗んだ男」はまさにこのことを伝えたかったのではないか、と勝手に解釈してみる。
第6次エネルギーまでは、太陽のエネルギーを少なくとも間接的にエネルギーとして手に入れたが、第7次エネルギーである原発は太陽のエネルギーを自ら産み出して直接利用したのである。まさに神の領域に人間は野蛮に踏み込んでしまったのである。そしてそのツケが回ってきたことに、もしくは犯すべからずの領域であったことにいまさら気づきはじめたのである。
こうなってしまっては、この第7次エネルギーを求めることはできないわけで、中沢新一は第7次エネルギーに変わる第8次エネルギーを導き出すために、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)という知の形態を提言する。これにより原発は完全に否定される。
中沢新一は、原発や資本主義を一神教的だとし宗教的な展開で批判する。それは、アメリカの経済破綻と原発事故によるエネルギーの破綻が同一の構造を持っていると容易に想像できる。
原発は太陽から降り注ぐ光量子エネルギーの贈与を無視し、自ら太陽を作りそこからエネルギーを得ることに成功した。資本主義も貨幣の一人歩きにより、贈与という概念を捨てもっぱら交換原理だけで発達することになった。それこそが一神教的なるものの欠陥であったのだろう。
中沢新一がこれから進めようとする未来図は、太陽光発電など太陽から降り注ぐ光量子エネルギーを活用した第8次エネルギーの活用ではあるが、そこに日本人がこれまで切り捨ててきた第一次産業である農林水産業を基軸に据えた経済をいま一度取り戻す必要がある。太陽の贈与を経済活動に直接結びつける農業、漁業こそが基幹となり、贈与と交換の市場経済を作り上げる(作りなおす)ことが必要なのである。これを中沢新一は「太陽と緑の経済」という素敵なネーミングで語っている。太陽は自ら生み出すものではなく贈与されるべき関係でしかない。それが人間と太陽とのもっとも適した関わり方なのだ。
中沢新一は「黄色い資本論」という論文でこれらの具体的な道筋をぼくらに示してくれるはずである。そして、あわよくば日本版「緑の党」を主宰しているかもしれない。どちらにせよ、原発の破綻で生き方を大きく転換しないといけないぼくらにとっては、画期的な道標になってくれることを願うばかりである。
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3.11をきっかけに「生き方や考え方を変えようとしている人々は、誰もがエネルゴロジストになれる」と中沢新一は言う。
エネルゴロジストとは、「地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学とをひとつの結合した、新しい知の形態」としてのエネルゴロジーを理解しようというひとのことであり、そうした視点から「この先」を見ようとするひとのことである。
そこで、まずこの本の前半では、いわゆる石炭や石油といった「化石燃料」と「原子力」との「ちがい」について語られる。太陽の恵みを、あくまでも生態圏の範囲内で長い時間とたくさんの媒介を経てつくられる化石燃料に対して、原子力は、ほんらい太陽圏の活動である核反応の過程をなんの媒介も経ずにそのまま生態圏のなかに持ち込んでしまう技術である。
石炭や石油について、限りある資源を大切にしよう、電気は大切に使おう、といわれるのは、それが自然によって与えてもらったものだというリスペクトがはたらいているからである。ところが、人間が科学技術によって自力でつくっている(と思い込んでいる)原子力については、オール電化を例に出すまでもなく「電気はどんどん使って、どんどんつくろう」ということになる。資本主義と原子力が「セット」であるゆえんだ。
それに対してエネルゴロジーは「第8次エネルギー革命」だと、中沢新一は言う。そのことは、補遺として収められた「太陽と緑の経済」でより具体的に説明が試みられている。
そこでは、原子力+資本主義から、自然の理法に則ってつくられるエネルギー+「つぎのかたち」の経済(ケネー=ラカン・モジュール)へと大きく舵を切ることの必要が、「贈与」「農業」「カタラテイン=交換」「地域通貨」「キアスム構造」といったキーワードとともに宣言される。
もし、このマニフェストがぼくら日本人に勇気をあたえてくれるとしたら、それは、今回の悲惨な災禍を体験したぼくらだからこそ、この大きな「使命」を成し遂げることができるのだと信じさせてくれる点にあるように思う。具体的な動きとして、著者が提唱する「緑の党のようなもの」が近々リアルな活動として始動し、この本はいわばその「マニフェスト」にもなるようだ。ぼく自身、よく考え、自分にできるかたちで積極的に関わっていこうと思っている。
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太陽光発電を中心とする自然エネルギーへの転換をいっているが、ストック(化石燃料)ではなくフローの利用となると、量的に足りるのか、また無理にでも多く利用しようとすると自然破壊が進むのではないか(自然エネルギーは、自然から直接エネルギーを収奪することなのだから、最も自然破壊的である)。
原子力だけが太陽圏のエネルギーだというのは認めるが、ウランという地球からの贈り物を燃やしているのだから、贈与の次元はあるのではないか。
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雑誌『すばる』6・7・8月号に連載されていたときから注目していた論考ですが、そのときとったレジュメとレビューの下書きが、例のたなぞうの終了騒動(!)のドサクサでどこかに紛失してしまって、途方に暮れています。
でも、もし見つからないなら、何としてももういちど再考して、かたちとして残したいと思います。
これは、3・11以降に生きる私たちの持つべき世界観として、地震学者や医療救命関係者や原子力発電所関連の専門家や精神分析家や環境学者や経済学者や企業経営者や芸能人などが、それぞれの専門分野と思い入れを持って思索し行動して問題定義されたなかでも、とりわけ、もっともすぐれて重要な人類的視点で書かれた考察です。
彼は、一面的ではない、私たちがいま現在考えられる究極の選択をしようと試みます。それは、宗教と資本主義という、人間が作り出してきたシステムを根源的に問いただすという方法で展開されます。
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新書3連発。これは出色。原発事故に対する言い様のない異常性や違和感を見事に言い当てた。まさに慧眼。反論もあろうが、わたしにとっては年末に今年一番の読書となりました。
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内田樹氏らとの対談で、「緑の党みたいなもの」構想を立ち上げた中沢新一氏の著作。ご本人は荒削りのマニフェスト(脱原発の)とあとがきに書いている。言わんとしていることは何となく理解できるが、具体性に乏しく、私のような凡人には「先にあるもの」をイメージしにくい。これからに期待。
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原発問題を宗教論や経済学と絡めて論評してた。
こういう見方がある事を知って、目からうろこが落ちた。
これから日本が進むべき道についていろいろ考えさせられた。
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3月11日の大震災は日本の今後のあり方を大きく変えるかもしれない。
そしてこれは日本にとどまらず世界全体に及ぶのかもしれない。
本書では地球科学、生態学、経済学、産業工学、社会学と哲学をひとつに結合した新しい知の形態を提唱している。
この大胆な提案は賛成するにせよ反対するにせよ、検討してみる価値がある。
【熊本大学】ペンネーム:童鯛
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第八次エネルギーは太陽エネルギーの贈与を受けてまるで光合成のようにエネルギー変換を行うこと。太陽さえも作り出してしまおうとする贈与抜きの原子力エネルギーからの脱却。
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震災後、原発を機に、日本は変化しなければならないと。今までのエネルギーは太陽のエネルギーが地球にもたらされ、それが、時間を経て石油になり何になりしているが、原子力は、太陽自身の中で起きていることを直接地球に持ち込んでしまった。「エネルゴロジー」という観点からとらえて、これからの日本を説く。
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中沢新一の文章は、いつもこちらをハッと気づかせてくれるものがある。
哲学や宗教からから物理、エネルギー論、経済学まで非常に切れ味が鋭い。 大震災後3ヶ月間、思索を重ねた彼の著作がこれ。
内容を要約すると、脱原発によるエネルギー転換から、現在の閉塞した資本主義経済の在り方そのものの転換につながり、今こそ日本からその変化を起こしていくべきだという至極真っ当なものなのだが、そこに至る過程がすごい。
エネルギーの存在論=エネルゴロジー という概念を定義する。エネルゴロジーの原則として、太陽のエネルギーが生態圏の内部に取り込まれるためには、石油や石炭のような化石燃料にしても、光合成にしても、生態圏のなかで何段階にも媒介されることが必要である。ところが、原子炉は、媒介を経る事なく生態圏外の現象を圏内に持ち込んだ点で異質である。そのような無媒介の状態には、「安全」などの神話的思考は意味をなさない。
さらに、このような原子力技術に対応する宗教的思想こそ「一神教」であると筆者はいう。もともとは、自然や動物や植物にも宿っていた神が、モーゼの思想革命により、絶対的な超越神への信仰が生まれた。そのような超生態圏的思考が、その後の人の思想や経済にも決定的な影響を及ぼしているという。
そして、そのような状況で成長した資本主義も、社会というサブ生態圏の内部に、異質な原理で作動する市場メカニズムをもちこんで、社会そのものを変質させたというのだ。
社会は本質的に、人間同士を結びつけるキアスム(交差)の構造を内在していて、与え、与えられる「贈与」の関係が組み込まれている。市場経済は、このような関係性がリセットされて、商品交換の価値として「お金」がでてくる。市場は自分の原理だけで作動する自己調節能を獲得してしまうのであり、これが、表向きは、エコでクリーンエネルギーといわれた「原子炉」と同じ構造であるというのだ。その「原子力」の行き着いた先は、もはや言わずもがなのカタストロフィーである。
エネルギー理論を変えるという事は、もはや、その価値を市場原理の「お金=ビジネス」で語らない(語れない)ということである。TPPの問題もしかり、日本人は価値観の根本を問い直す時期に来ており、おそらく潜在的には多くの人が感じ取っているのだと思う。放射能に汚染された肉、野菜、魚を前に、我が身の安全に躍起になるだけではなく、脱原発を声高に叫ぶだけではなく、自分の価値判断の基準、優先順位を一人一人が問い直すべきだと思う。筆者のいう「太陽と緑の経済」を目指して。