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イタリアの哲学者ヴァッティモの思想エッセイ。解釈学を中心に思想を紡ぐ筆者は、ヨーロッパ議会の議員をはじめとする盛んな政治活動でも知られる。本著では哲学と、科学、歴史、文学、論理、真理、との関係がひもとかれたのち、最後には哲学が現在果たすべき役割が示される。以下、簡単に最終章の末尾を紹介する。
哲学が自らを語るにあたって「哲学は全ての人の生活の中でいだく素朴で大切な疑問を云々」といったところで、それも非常に限定的だ。なぜなら、「哲学はきみが特別に考えるべきものがなにもないときに考えるものなのだ」(120)から。当然日常の喧噪の中で正面から向き合う機会など多くはない。「哲学が普遍的な言説であろうとしているというのは、そのとおりである。これは正当な願望であり、当然そうあってしかるべきである。だが、現実にはそうではありえない」(122-3)専門としての哲学が発揮できる力など、これだけではいかにも弱々しく見える。
だが、カント以降の哲学の文化がもつその普遍性志向は、ヴァッティモにとっては「意図と効果のあらゆる面において政治的な構築であることを要求している」(124)ことを表しているという。ヨーロッパに端を発したテクノロジーの普遍性の問題に向き合うとき、この問題は明らかになるだろう。テクノロジーの発達を可能にしてきたヨーロッパの価値地平から離脱して、産物であるテクノロジーだけが独立に普遍化していくところに問題は出来するのであり、そこにこそ私たちは哲学的な問いを投げかける必要があるのだ。「西洋ではテクノロジーの発達はデモクラシーの発達と分かちがたく結びついていた。ところが日本人が電子工学技術は自分のものにしながらデモクラシーは自分のものにしなかったとしよう。そのときには本来の意味での哲学的な問題が提起されるのである」(124)。習俗や文化に向き合うような政治の(彼が所属するヨーロッパ議会のような)取り組みが、その結果哲学の住まう場所となる。専門分化した「人類の一万分の一パーセントだけを相手に語っている」(121)哲学は、だからこそ自らの身を振り返り、その歴史を背負って政治に取り組まなければならない。
「日々の政治の次元で直接効果を発揮することはさほどでもないが、より幅の広い計画を立てて長い時間をかけて変革を達成してくれることに期待はできるのである。これもまた哲学の負うべき責任のひとつである。満足を得られそうになく、苦労ばかりかけられそうであっても、引き受けるべきなのだ」(125)
以上、本著のクライマックスともいえる部分だ。
ヴァッティモはヨーロッパ中心主義ではない(ヨーロッパの産物、であることは認めている)普遍的な思想の一端を提示しているのだが、結論はちょっと穏当に過ぎるかもしれない。日本オリジナルのデモクラシーの成立は認めなければならないし、そうした時にどこに「政治的な」哲学の問いは登場することができるのだろうか。かつ、ヴァッティモのように明確に神学に裏打ちされた思想が、どこまでこの国で正面から受け入れることのできるものかは、大いに懸念するところであろう。総括して、哲学の必要性はわかるようにはなっている。しかし、衝撃を受けるような斬新な提起によってその必要性の認識がなされるのではなく、哲学を生んだ文化と歴史性を丁寧に振り返ることによって、「順当に」それがなされている、という印象だ。
しかしそれでも、哲学者がメディアや政局に登場することがどこか蔑まれる中で仕事をしてきたヴァッティモの境遇は、この国の言論と政治との問題を考える際に大いに参照できるものであろう。哲学書としても、各章ハイデガーを忠実に読み込んだうえで、フランスのポストモダン系の主張とは一線を画した提起がなされている。入門書はそろそろ終わり、という哲学好きや解釈学、現象学に興味のある人には間違いなく一読の価値があるだろう。