紙の本
Armada Invencible
2021/08/05 22:43
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投稿者:6EQUJ5 - この投稿者のレビュー一覧を見る
有名な「無敵艦隊」そしてスペイン対イギリスの戦いはどのようなものだったのか、緻密過ぎるくらい詳しくまとめた一冊です。翻訳ということで取っつきにくいか?最初は思いましたが、読んでみるとスムーズでした。
価値ある、良い本です。
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訳者は当会にも縁が深い大森洋子さん。世界の海を席捲するスペインの野望に立ち向かうエリザベス女王の海の勇者たち。歴史を変えた一大決戦のすべて。全艦隊の詳細から司令官群像、両国の政治状 況、その後の歴史までを詳細に総括している。訳者曰く「この戦いは国際版”天下分け目の関ヶ原”と言っていいだろう。」豊富な資料と絵画は見るだけで参考 になる。
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スペイン無敵艦隊がなぜ英国艦隊に敗れたのか、どんな船が戦ったのか、余すところなく解説しつてある。日本人の研究者には書けないディテールだとおもう。明治の日本の海軍は真剣にこのような資料を研究したものだろう。
ちょっとレベルが高い本。手に入れたくなった。
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アンガス・コンスタム(大森洋子訳)『図説スペイン無敵艦隊』原書房、2011年
1588年に行われたスペイン無敵艦隊(アルマダ)とイングランド艦隊の戦闘を書いている本である。著者はアメリカの元海軍士官で海洋考古学の成果も参照している。読んでみると、現実の戦闘というのは映画のようなものではなく、だいたい「泥試合」だなと思った。
まず、戦争の原因は、主に三つである。
一、エリザベス女王が、元スコットランド女王メアリー・スチュアートを19年間投獄した上、処刑した(1587年)。メアリーはフランス王と結婚した(1558年)が、夫フランソワ二世が死んだので、1561年からスコットランドに戻り、国を統治していた。フランス語しか話せず、フランスの顧問団に取り巻かれ、失策が重なって、プロテスタント貴族の反乱となった。もちろんメアリーはカトリックである。反乱を避けて、従妹エリザベスに庇護をもとめたのが誤りだった。
二、ネーデルラント(オランダ、スペイン領)のプロテスタント反乱(乞食団)にイングランドが支援をしていた。
三、カリブ海のスペイン領を、ホーキンズやドレークなどの「私掠船」(イスパニアからすれば「海賊」)が荒らしていた。エリザベスがこれらの「海賊」に爵位を与えた。
で、頭にきたスペインのサンタ・クルス侯爵が、「イングランド攻略」をフェリペ二世に提案した。海軍の責任者である。最初はリスボン(当時のポルトガルはスペイン領)から上陸部隊をのせて、イングランド南のどこかに殴り込むというものだった。しかし、フェリペ二世は陸軍にも作戦をつくらせ、両者を折中するというくだらんことをした。無敵艦隊はドーヴァー海峡あたりに北上し、ネーデルラントの陸軍をまって、陸軍がイングランドに渡るのを護衛するというものである。合流地帯などは全部丸投げ、連絡方法も確立していたなかった。しかも、提案者サンタ・クルス侯は出撃三ヶ月前に病死してしまった。あとを任されたのはシドニア公爵で、優秀な軍人だったが、海軍の実践はゼロだった。断ったけど、国王に無理やりやらされた。この人は「臨機応変」というにはほど遠く、国王の計画をひたすら実現しようとがんばった。なお、スペインは5年もかけて準備していたので、出撃前にイギリスで無敵艦隊の解説本まで出版されているというありさまだった。
1588年5月28日、130隻の無敵艦隊が出撃、とにかくノロかった。巨艦で陸軍のみならず攻城兵器まで運んだ。大砲は積んでいたけど、船をぶつけた時に「硝煙にまぎれて」陸戦部隊が殴り込むためのもので、何度も打つようにできていなかった。何隻か脱落艦をだしながら、なんとかプリマスあたりに着いた。普通10日くらいの行程だけど、2ヶ月もかかった。
これをむかえ撃ったのは、イングランドのロイヤル・ネイビーと武装船団である。数だけは小さな船まで寄せあつめて190隻程度だが、スペインのような巨艦はなかった。そのかわり、船の幅を細くして速度をあげ、弾薬だけは積んでいた。要するに、人員もすくなく、ぶつけられて乗りこまれたらかなわんので、遠くから大砲で戦うというのが基本戦術だった。
ここで、スペインはプリマスあたりに押しかけて、なんとか上陸してしまえば、イングランドに常設軍はないので、訓練されていない市民軍とわずかの陸軍を相手にすればよかったのだが、シドニア公爵は国王の命令をまじめに守ろうとし、密集隊形でイングランド南岸をノロノロとドーヴァー海峡に進む。
イングランドの司令官はチャールズ・ハワード卿である。とにかく自分の艦隊が寄せあつめで、海賊あがりの「いうこときかん奴ら」を指揮しなければならんので、陣形もなにもなく、敵をみながら、場当たり的に攻撃することになる。部下のドレークやホーキンズなどは、(「サー」なんて呼ばれているが)もともとアフリカで奴隷を狩って南米に押し売りしていた男たちだ(押し売りに応じないと砲撃した)。この海戦でも戦列をはなれて、脱落艦を略奪しにいく始末である。イングランドの砲撃もべつに優秀だったわけではない。相手の三倍も打ったけど、スペイン艦はやたらに丈夫で、大きな損害はなかった。とにかくこのノロノロ進む艦隊をとめられなかったのである。
そして、ドーヴァ海峡でイングランド艦隊が「焼き討ち船」をつかうんであるが、これがまたセコイ。「焼き討ち船」はオランダの「海の乞食団」がつかったことがあり、この時はアルトウェルベン(アントワーブ)を包囲した海橋を火薬を詰めた船でぶっ壊し、スペイン軍は一度に800人の犠牲者をだした。しかし、この海戦でイングランド軍は火薬の不足に悩まされていたので、そんなモッタイナイことはできない。帆とかロープとか、とにかくいらなくなったものを詰め込んで、何隻かの船に油をしみこませて差し向けたんである。しかも、途中で一隻が燃えだしてしまい、意図がバレた。スペイン艦隊はイカリの綱を切って逃げた。とくに大きな被害はなかったのである。しかし、各艦一番いいイカリをなくしたのが致命的だった。密集隊形がとれなくなってしまったんである。そこへイングランド艦隊が砲撃した。「グラヴリーヌ沖の海戦」(1588年8月8日)である。イングランドはとにかく打ちまくったが、これで沈んだスペイン艦はわずかである。弾薬がつきて、補給を待っているうちに、風でスペイン艦隊がネーデルラントの浅瀬に吹き寄せられそうになる。座礁してはいかんから、無敵艦隊はイギリスの北を迂回して、スペインへ帰還することになる。結局、ネーデルラントにいた陸軍とは合流できなかった。
8月20日、スペイン艦隊はイングランドの北を回って、大西洋に入った。このとき、無敵艦隊126隻のうち、112隻はのこっていたのである。一般に言われるようにイングランドにさんざんにやられたわけではなかった。しかし、帰路、アイルランド沖で嵐に会い、座礁したり、沈没したりする艦が続出した。イングランドの砲撃で損傷していた船に嵐がとどめをさした。スペインに帰還したのは65隻であった(人員は負傷、船体は損傷し、病気が蔓延していた)。なお、アイルランド沖で座礁した船の乗組員はアイルランドのイングランド部隊に無差別に殺された。アイルランドはカトリック勢力が多く、駐屯するイングランド部隊は少数で、カトリックのスペイン人に扇動されたら暴動になる危険があったのである。イングランド軍も恐怖にかられていた。また、アイルランド人も信仰心や隣人愛を発揮したわけではなく、岸にたどり着いたスペイン兵を身ぐるみ剥いで略奪した。
このあと、イングランドが「逆アルマダ作戦」をやったが、港をおそって略奪しただけだった。スペインも失敗とはみず「第二次アルマダ作戦」を行うが、悪天候に阻まれた。いろいろと小競り合いをやるが、1598年フェリペ二世が死に、1603年にエリザベス女王が死んで、1604年にイングランドとスペインは和平を結んだ。イングランドは派手ではないが、生産的な時代に入り、スペインは低迷と海外搾取の時代に入っていったのだった。
この本はディテールが面白い。たとえば、スペインのインディアス艦隊(南米からの金銀宝石を輸送・護衛する艦隊)の人員が1人/tだったのに対し、無敵艦隊は2人/tのすし詰め状態の計画だったこと(現場で変更した艦もあり)、スペインの大砲がヨーロッパ各地でつくられていたけど、口径がまちがっているものもあり、「あぶないからできるだけ打ちたくない」しろものだったことなどである。
なお、フランシス・ドレーク麾下のウィリアム・アダムスは戦後、オランダ船に乗りこみ、日本にきている。和名、三浦按針。徳川家康の大砲は、オランダ船(リーフデ号)から買ったものとされている。