紙の本
「退屈」は人間の自由の証しか?
2011/11/03 19:13
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:碑文谷 次郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
長年、「暇=退屈」と思ってきたが、哲学者はそう単純には考えないものだ、ということが分かる本。ハイデッガーの分類に従い、「退屈」には「暇があって退屈している」状態の第1形式と、「暇がないが退屈している」状態の第2形式があり、人間はおおむねこの第2形式の退屈を生きている、というのが先ず本書前半の幹となる考察である。この幹に至るまでに、本書前半で著者は一万年前の人類に起こったという大変化(遊動生活から定住生活へ)の中に「退屈」の発生源を見出し、「退屈」の正体を突き止めようとパスカル、ルソー、マルクス、ガルプレイスなどの論考のみならず、フォード大量生産方式や映画「ファイトクラブ」などにも言及する。その説明は「退屈」の解明に向かって手際よく、説得力を持つ。そして、著者自身「退屈論の最高峰」と位置付けるハイデッガーの『形而上学の根本諸概念』をベースに「退屈」の考察を深めることによって、人間が「正気」で生活していくとは、「気晴らし」と「退屈」とが絡み合った上記第2形式を生きることではないかーと、人間の生の本質に迫るハイデッガーに共感を寄せる。
本書後半は、そのハイデッガーの結論ー人間は退屈できるからこそ自由である。だから決断によって人間の可能性である自由を発揮せよーへの疑問が提示されるところから始まる。ハイデッガーは人間を動物から何とか区別しようと腐心しているのではないか?と考える著者は、日向ぼっこするトカゲ、哺乳類の血を吸うために18年間待つダニ、満腹になるまで延々と蜜を吸うミツバチの行動を分析しつつ、彼らが一つの環世界に浸っていることが得意であることを丁寧に検証する。一方、人間もこれら動物と同じく各人固有の環世界を生きているが、一つの環世界にとどまってはおられず、環世界間を自由に移動する存在であり、その自由こそが人間の退屈の根拠であることを説く。我々人間は、そういう人間であることを楽しみ、時として、トカゲやダニにように「動物」になることを待ち構える存在である、と。
確かに「退屈」は人間の自由の証しかもしれないが、毎日毎日、時間に追われる身からは、「退屈」な時間とは贅沢以外の何物でもない。一度、徹底的に「退屈」な一日を過ごしてみたいと思っていたが、どうやら「退屈」も遭遇してみると、なかなか厄介な荷物らしい。”時の経つも忘れる”ということは、人間にとっては最も幸せな時間かもしれないと思った。
紙の本
「俺」の悩みを深堀りした一冊
2012/02/12 08:43
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わ☆たぬき - この投稿者のレビュー一覧を見る
暇と退屈は、人類が遊動生活から定住生活に移行せざるを得なくなった一万年前からの問題なのだそうです。この大きな問題が、哲学的な知見のみならず、人類学、経済学、社会学などにも言及され、パスカル、ラッセル、ガルブレイスなどの考察も、結構ボコボコに突っ込まれて、否、批判的に検証されています。ワタシのような素養のない者にも、その先賢の権威に惑わされること無く、難解な言い回しをせず平明な言葉で考えてみることが大切だと勇気付けられました。
“退屈論の最高峰”(P198)ハイデッガーを論じた第五章は、個人的には少々難解でありましたが、「暇」と「退屈」を4つの類型に分けて検討し、読者をハイデッガーの結論へと読者を導きます。また、巻末にある36ページに及ぶ注も、読み応え充分。
“倫理学とは、いかに生きるべきかを問う学問”(P338)なのだそうです。我々が、暇と退屈から逃れられない以上、手にとってみるのによい一冊だと思います。
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教育というプロセスの実践
2012/02/02 17:33
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hharu - この投稿者のレビュー一覧を見る
“結果よりプロセスの方が大事”といったことを述べる本はいろいろあるわけだが、それを自らここまで実践してみせた書物は珍しいのではないか。著者も書いているように、本書の「結論」だけを読むことにはあまり意味はない。1ページ目から順に読んでいき、著者と一緒に考えていくプロセスじたいが醍醐味となるように書かれており、その意味でも正にこれは「教育的」な書物と言える。
内容としては盛り沢山だが、例えば、論じられている「浪費」と「消費」の区別というのは、「財」と「サービス」の区別に通じると思う。とすれば、無限に消費されるだけのサービスではなく、提供することが楽しみでもあるサービス(ボランティア?)というものが、やはり重要になる気がする。
ところで、本書で批判の対象の一つになっているハイデガーの「決断」という言葉は、創文社のハイデッガー全集『形而上学の根本諸概念』では「自己封鎖解除即決断」と訳されている。「鍵をあけて開く」という語源や、「自分を開く」という意味を訳語に反映させるために、このような異様に長い訳語を作ったらしい。つまり単純な「決断」ではないので、そうした点も踏まえて再読してみたいものだ。
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この本では「暇」と「退屈」について、複合的な視座から分析し、現代におけるそれら概念の在り方について検討している。
「暇」と「退屈」は異なる。「暇」は客観的な条件である。時間に余裕がある、何らかの仕事に追われていない。そういう状態。
対して「退屈」はこれと異なり、主観的な規定である。
だから、この2つの概念から4つの場合に分かれる。
「暇であり、かつ退屈である」「暇であり、退屈でない」「暇がなく、退屈である」「暇がなく、退屈でない」
これらの中で一番想像しにくく厄介なのは、「暇がなく、退屈である」状態だと思われる。後にハイデガーを援用して、この「暇がなく、退屈である」状態とはどういうことかを分析する。
後の議論の展開は読んで欲しいところであるが、自分にとっては示唆に富むとこが多かった。「消費/浪費」「環世界」など、極めて重要と思われる概念について詳細に書かれ、全体の議論の見通しが良かった。アレントのマルクス批判を批判する箇所は痛快だった。
わからなさ過ぎて困った、というようなところはなかった。それは序章にもあるが、意図的なところなのだろう。
本の刊行にあたり、度々著者は「自分の思うところをぶつけたので、是非読者の感想を聞きたい」という旨のことを言っていた。
個人的に、ここに書き連ねたくなるようなものではないが、皆何かを喚起される文だと思う。
あまり関係ないが、並行して読んでいた森岡正博「無痛文明論」との近似性を感じるとこがあった。あまり上手く説明できないので、同じような感想を持つ人の詳細なレビューを待つか、頃合いを見て自分が纏めてみたいと思った。
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一瞬、時間の感じ方が人それぞれ、動物それぞれ違うというのが新鮮だった。
自分が途切れないように感じる時間には一瞬のブラックアウト、未知の時間がある。
五感をフル活用して、贅沢を感じながら生きる。私の言葉では足りなさ過ぎると思うがそんなところ。
面白かった。
人間が定住を始めざるを得なかったという大昔の話から展開するとは思わなくて興味深かった。
定住が当たり前でなかったとはまた目から鱗。
でも私は確かにゴミ出しとかが苦手だ。
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いやー、参った。環世界あたりの話はディスコミュニケーションの話にも応用できそうな気がするなぁー。それにしても知的好奇心をくすぐる一冊!
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お堅い本かと思って読み始めましたが、なかなかに面白かったです。暇と退屈について、よくぞここまで考え抜いたもんだと感嘆しました。話は哲学してるんだけど、どこかユーモラスで退屈しない。読んでて笑ってしまう。ちょっと強引な展開もユニークです。「環世界移動能力」、私も持ってるんですね?知らなかったですw 動物的にならないように気をつけなきゃw 読み終わった瞬間から、再読しようと決めました。私の大切な時間をこの本で"浪費"して大変よかったです♪
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みなさんの「好きな事」は、産業に与えられた事ではないですか。以下、本文より『…産業は、あなたが何を受け取るかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものをあなたに差し出している…』
マーケティングにも通じるかと勝手に思う。
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暇と退屈に関して、論理的かつ哲学的観点から検討を行なっている。しかし哲学者という人はいつもこんなことを考えているのだろうか。
退屈と気晴らしが入り交じった世界に生きながら、徹底的に物を楽しみ突然訪れるであおう不法侵入に備えること。そうそれば、そこから思考することができる。これこそが筆者のいう「暇と退屈への有効な対処方法」となるのであろう。恐れ入りました。
[以下読書メモ]
<暇と退屈の累計>
・退屈している かつ 暇がある
・退屈している かつ 暇がない
・退屈していない かつ 暇がある
・退屈していない かつ 暇がない
(退屈とは主観。暇があるとは客観)
・退屈の三形式
①日々の何かの奴隷になる状態
(田舎の駅で電車を4時間待っている状態。何度も時間を確認している)
②パーティー(退屈と混じり合うような暇つぶし)に参加しているがなんとなく退屈だ
③深い退屈が決断によって反転し、何かに突き進む。①に戻る
・時間とは何か。人間は18分の1秒以下の時間は体感できない。スクリーンの暗転が18分の1秒以下だと気づかない。しかも驚くべきことに、全ての感覚の最小の器らしい。(18分の1秒以下の空気振動は聞き分けられず、単一の音として聞こえる。触覚も同様)
・二つめの結論。これは贅沢を取り戻すこと。人間は通常、②の退屈な状態にある。この状態を利用したのが消費。消費は観念を対象としているから浪費と違い終わりがなく、いくら消費しても退屈な状態から脱することができない。
退屈を脱するためには、②の状態を徹底的に楽しむこと。楽しむためには訓練が必要なのだ。(かならずしも知識や教養だけが要求されるわけではない。)物(パーティにおける食事、飲み物、葉巻・・)を楽しむ必要があるのだ。
そして待ち構えないといけない。何かが不法侵入してくるのを。①や③の状態では何かが不法侵入してきたとしても気づかない。それは何かに囚われている奴隷状態だからだ。唯一②の状態のときだけそれに気付くことができる。気づけば思考することができるのだ。
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タイトルにあるように、「退屈と暇」という問題について考察したのが本書。キャッチーなテーマでありながら、骨太な内容で「人はいかに生きるべきか」という哲学の根本問題について論じている。哲学的な話題だかりでなく、人類史的視点、労働問題的視点など広範なトピックを扱っている。
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押しつけがましくない啓発書といった感じ。広く先人の思想に触れながら自らが打ち立てた問題の核心に徐々に迫っていく展開は読んでいてわくわくする。非常に知的。定住革命、環世界などの面白い考えも紹介されていて、充実の内容だった。
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「消費するな浪費せよ」というのはやや言葉遊びかな?という気がしないでもないし、バブル時代に流行ったボードリヤール的記号消費批判の域を脱してはいない。全体には古臭く、少々冗長ではある。中心部分はハイデッガーの3形式の関係性だろう。決断の奴隷になる事で結果的には第3形式≒第1形式というのは気がつかなかった視点ではある。だからと言って、消費社会の罠に嵌らずに、第2形式を享受せよという著者の主張はある種の諦観であり、高等テクニックかな?とは思う。まあそんな事はお構いなしに、ネット社会の隆盛において、退屈する暇もなく、新たな衒示的消費が蔓延っているわけだが。
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ある意味、怪物本。自分と同い年の人間がこんなの書くなんて凄い。思考が奥深い。はっきり言ってここに要約やあらすじを書くことに全く意味がない。本書は著者と一緒に思考を追体験して結論に辿り着かないと本当の意味で理解したとは言えないからだ。読んで面白さを感じるしかない。
個人的には、『環世界』からの展開が好き。
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あまりに長くなったのでこっちに。最高の読書体験。
http://d.hatena.ne.jp/pespace/20120109
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何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい...。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。p帯
「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない」(ウィリアム・モリス)p27
パスカルの言うみじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしを求めてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない。p43
(ラッセルにおいて)「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。p53
【定住革命的な人類史観】
遊動生活→定住生活の開始→食料生産の開始 p78
定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。
【「文明」の発生】
「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であると共に、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」p88
【有閑階級】
有閑階級とは、いわば、暇であることを許された階級である。p103
→(顕示的閑暇)
【資本主義において】
余暇は資本の論理のなかにがっちりと組み込まれている。Cf. フォーディズム p121
【レジャー産業】
は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲求そのものをつくり出す。p125
20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのである。p125
ボードリヤール「消費とは観念的な行為である」p146
「疎外」と「本来性」p165
ホッブズとルソーの「自然状態」の対照的な捉え方。p169
「本来性なき疎外」p180
【環世界】
すべての生物は別々の時間と空間を生きている。p253
人間にとって18分の1秒とは、それ以上分割できない最小の時間の器である。p265
【ハイデッガーの動物観】
動物は「世界貧乏的」であるのに対し、人間は「世界形成的」である。p277
環世界論から見出される人間と動物との差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力を持っているということである。人間は動物に比べて、比較的用容易に環世界を移動する。p285