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(7/14再読)
6月14日、改正臓器移植法にもとづいて、6歳未満の子が脳死と判定され、両親の決断によって臓器提供がおこなわれた。そのことが、ずっと、もやもやとしている。ご両親の決断が「尊い」と報道されていることにも違和感がのこる。ある選択が世の中で「尊い」と言われるこわさ。
賞賛の裏には、それを選ばないのは何事ぞというプレッシャーがたぶんある。「尊厳死」という言葉にも、同じものを感じる。"尊厳"という字面はいかにもよさげにみえるし、尊厳ある死だと推進派は言うようだけれど、「尊厳ないような存在は死ね」と私には読めてしまう。「尊厳ある生」がおぼつかないところで、死の尊厳がうたわれる不思議。
この本を読んで、脳死・臓器移植はやっぱりどう考えても「いのち」を比べてる、選んででると思い、「死」という言葉を使っているものの、「死んでない」と思った。知れば知るほど、脳死・臓器移植のことを自分はほとんど分かってなかったと思えてならなかった。
肝臓が機能しなければ肝不全、腎臓が機能しなければ腎不全といわれ、肝死とか腎死とはいわないのに、なぜ脳の機能不全は脳死というのか? 「われ思うゆえにわれあり」というデカルト式の人間観が、脳=人間といった見方をさせているのか。
50のQ&Aは丁寧に書かれていて、人間の「死」について、「脳死」について、子どもの「脳死」について、脳死判定のこと、重症の脳不全患者への救命治療のこと、臓器摘出と移植に関すること、臓器移植法のことなど、わかりやすく、説得力があった。
移植はほんとうに「治るいのち」を助けるのかという疑問もふくらんだ。異物である他人の臓器を自分の体内に縫いつけることで起こる拒絶反応をおさえるため、移植を受けた人は免疫抑制剤をのみつづけることになる。感染症にかかりやすくなるし、日常生活の制約も大きい。あれだけたくさんおこなわれている腎臓移植さえ、その有効性には医学的根拠がない、透析療法による長期生存と比べて必ずしも生存率が高いわけではないと読んで、腎臓の機能があまりよくなかったことのある私は、目をむいてしまった。
そして、「脳死」と判定された身体からの臓器摘出がどうおこなわれるかを読んでいて、頭に浮かんだのは、七三一部隊の生体解剖のことだった。中学生のときに『悪魔の飽食』で読んだ、麻酔をかけられて眠らされたままばらばらにされ、存在を消された少年のことを、その解剖手術のもようを思いだすのだった。
この本には、『長期脳死 娘、有里と生きた1年9ヶ月』の中村暁美さんと、『長期脳死の愛娘とのバラ色在宅生活 ほのさんのいのちを知って』の西村理佐さんからのメッセージが寄せられている。
▼どんな状態であっても命はみんな平等なのだ! なにより、脳死状態でも死んでなんかいない! 生きています!
この事実を知ってもらわないと、たった一つの尊い命が救われない、助かる命の陰に消される命があることになってしまうと恐ろしくなりました。(中村さん、p.10)
▼「脳の機能を失った子どもの人生」を毎日見てハッキリと言えるこ��は、それは哀れむべきものでもなく、不幸なものでもなく、ただそういう運命にあったということであり、私の母としての人生も、また然りです。…
帆花は、帆花の人生を生きており、「治るいのち」に劣るものではありません。…スクスクと育つ帆花の「いのち」の輝きから、どうぞ、目をそらさないでください。(西村さん、pp.14-15)
「バクバクっ子・いのちの宣言」(p.194)にも心をうたれた。
とおといしにかたは、ありません。
とおといいきかたと、とおといいのちがあるだけです。
わたしのかわりも、あなたのかわりもありません。
わたしたち、にんげんは、わたしのいのちを、せいいっぱい、いききるだけです。
この本は「ドナーの立場で"いのち"を考える」とサブタイトルにあるように、報道でも臓器移植ネットでもほとんど情報が出てこないドナーの側、ドナーになりうる側の立場からまとめられている。
脳死・臓器移植には、"命のバトン"、"命のリレー"、"臓器提供は人助け"といった美辞が重ねられているが、その実態はプライバシーという一言で、ほとんど情報が出てこない。「おわりに」にも書かれているが、臓器移植ネットワークは、臓器移植推進に不利な情報は公開しないか、不正確な情報を発表する姿勢を続けている。
そのことは、まるで原発に関わる情報の扱いに似て、技術や医療が何のためにどう使われているのかを、市民はなかなか知ることができない。
(6/21了)