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ルソーの説いた「一般意志」は、現代社会でこそ有用な意味を持って、現代政治を変える可能性があるのではないか―。
情報化・総記録化が高度に進んだ現代だからこそ実現可能な、「可視化された無意識」による政治。熟議民主主義の限界と、データベース民主主義の可能性。
我々には独裁者の代わりにGoogleが、ナショナリズムの代わりにTwitterが与えられ、国会にニコ生を導入―。大雑把にいうと軽薄に響くアイデアが、東浩紀の思想により具体性を帯び、何よりも説得力を持つ。
思想史の難しい話もありながらも、わかりやすい解説で入り込める。読んでよかった。考え続けたいと思う。ありがとう。
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一日でさらっと読めてしまった。
とはいっても、それは本書の内容の深浅に求められるものではない。
本書の射程は50〜100年後に定められている。
今の子どもたちに向けて、もう少し対象を広げるならば現成人あたりに向けて書かれている気がした。
本書で語られている夢を実際に生きるのはそうした層の読者たち(私も含め)だからだ。
古典で掲げられた理想のために必要な環境が整いつつあるというのを出発点に、現代政治とその制度、それらと私たちの向き合い方に論を進める流れに身を任せ、気がついたら読み終えていた。
私もそんな風に夢を語りたいと思った。
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動物的、データベース、ソーシャルメディア、新しい公共、集合知、熱議民主主義ののコスト過剰…もやもやと皆が感じていたがなかなか繋がらなかったこれらのキーワードを何度も何度も丁寧に繋いでいて、いかに東さんが敷居を下げてこの議論を伝えようとしているか、繋がらない議論にはどんな対立点があったのか(ミクシィ的/グーグル的、ないしコミュニタリアニズム/リバタニアリズム、とか意外なほどシンプルな対立軸に見事に回収されていて驚く)、ひしひしと伝わった。残念、とか馬鹿のもの、とかいわれる日本のWebにはまだ未来がある。
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「筆者はこれから夢を語ろうと思う」から始まるこの本は、
言葉通り「夢」を与えてくれるだけの力がある。
その「わくわくする感じ」を提供してくれただけで、
十分わたしには価値のある本だ。
著者が「二次創作」と明言しているように、
これはルソーやフロイト、ローティなどを「拡大解釈」した、
言わば壮大な物語と言っても良いのではないかと思う。
この様々な固有名詞やエピソードを経由して語る様は、
なんだか内田樹の語り方を想起させる。
というのも、
あることを説得する・納得させるためには、
質めんどくさい手順を踏まなければならないという、
半ば偏執狂的な思考がその裏に隠れているように思われるからである。
実際、
両者とも右往左往しながら、
都度都度同じ事を少し言い回しを変えて語ったりしている。
この二人の振る舞いが似ているのは、
それだけ説得には労力がいることを端的にしてしていると思うのである。
そしてこの手法は「物語的」なものでもある。
物語というものは様々な出来事を順繰りに語るのではなく、
時間的にも空間的にも、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしているものだ。
だから、
わたしが「物語としての面白さ」を発見したのは、
単なる直感や偶然ではないと思われるわけである。
(それこそ物語だと言われるかもしれないけれど)
ここ2年くらいの(多くはないけれど)読書体験の、
一応のピリオド(あくまで一応)が本書にあるような気がする。
つまり、
「フリー」「アーキテクチャの生態系」「評価経済社会」
といった"現在→未来"を志向する本での体験と、
「逆さ日本史」「内田樹の本(読んだ全て)」
といった"過去→現在"を志向する本での体験が、
「一般意志2.0」に集約されているように思われるからである。
たぶん今後は、
中沢新一的なものと村上隆的なものが、
ここに付加されていくようになっていくんじゃないかしらん。
というめちゃくちゃざっくり&個人的な感想を述べておくことにする。
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とても面白かったし、著者がいいたいことがすんなりとはいってきた、これは今の若者なら思い描くことが容易で、逆に年齢の高い方々には理解しにくいであろう、そしてそれはそのままジェネレーションギャップの怖さへつながり、昨今の不信感へも接続する。
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ルソーの社会契約論を元手に現代社会の可能性を引き出すような、現代の日本にルソーの考えを参照していくような、そんな本。
著者自身の言葉の通り、エッセイのようで今まで読んだ現代思想系の本の中では圧倒的に読みやすい。曰く、実際エッセイらしい。
私のように予備知識の蓄えが浅くとも読みすすめられることが嬉しい。
「一般意志2.0」という言葉が、『クオンタム・ファミリーズ』や『フラクタル』といった他の作品群とリンクしているようで、そこもまた面白いし、それだけ著者の情報社会論に対する考えが凝縮している本なのだろう。
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年末の帰省にも持っていったけれどチビ相手でとても読めなかった。やっと手にとってみるとグイグイ引きこまれて一気に読んだ。
こんなに基礎的なところで揺さぶられるのは、同時代の本を読んで経験したことがないような気がする。
古典になるかも。
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著者の未来に対する希望の書として書かれたのではないでしょうか?社会思想の本でも哲学書でもないエッセイであるということを繰り返していますが実際、一般意志2.0という題名をゴールとしてシンプルで熱い想いを語っているように感じました。「動物化するポストモダン」に代表される著者の視点をルソー、フロイト、ローティ、そしてグーグル、ツイッターという名詞を使って再構築しているようです。それをボールドと感じるか?トリッキーと感じるか?自分にとって、それは今、起こっていることをペシミスティックに考えるか?ポジティブに考えるか?の違いになるので圧倒的な現状肯定論としてこの本に刺激をもらいました。ただ、WEB2.0から始まる2.0ブームの軽さの中でビジョンとしての一般意志2.0がどれだけ普遍性を持ちうるか、心配になりました。
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『動物化するポストモダン』で知られる東浩紀の最新の著作。ルソーの一般意志論のラディカルな再解釈から始まり、ハーバーマスやアーレントに代表される熟議に重きをおいた社会思想を批判し、それらを綜合した「民主主義2.0」「国家2.0」を構想する。従来の政治思想・社会思想系の著作に感じられる歯がゆさを解消してくれる、爽快な一冊。
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無意識の欲望を可視化することで新たな政治、民主主義を創造する。白田先生との対談と合わせて読むと、スイスイ読めると思います。
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未だに新聞はことあるごとに「いまこそ熟議を尽くし」などと言う。そんな熟議民主主義が空疎としか捉えられない現代(日本)においては、
むしろこの本の空想的な提案の方が今すぐにでも実装可能に思えてくる。ただしこの本の射程はもっとずっと潔い。もういい加減、政治というものや社会というものの定義を変えない?だって違うじゃん、と。東浩紀と同時代に生きていることを嬉しく思う素晴らしいエッセイ。
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ローティーを読んだことがないのでわからないのだが、13章のローティー解釈はアダム・スミスの道徳感情論との類似性を感じたが、ローティーがどう言及してるかは知らない。
前に、著者が「クォンタム・ファミリーズ」という三島賞受賞の小説を出版したときに、「私の現時点での入門書として最適なのはこれです」と言っていたのでQFを買って読んだが、(面白かったものの)何故これが入門書なのかさっぱりという感じだった。
ただ、この「一般意志2.0」は凄く解りやすいし、これを読んだ後にもう一度QFやフラクタルを観ると、だいぶ様相が変わってくるかもしれない。
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最初は単なる思考実験の本なのかと思ったけど、将来の政治・社会・国家についてすごく切実な提言がなされていた。具体的な仕組みの実装イメージはまだまだこれからのテーマだと思うけど、この本に書かれていることがどこまで実現されているか、数年後に読み直してみるのも面白そう。
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日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。
「集合知」あるいは「群れの知恵(wisdom of crowds)」p29
一般意志は政府の意志ではない。個人の意思の総和でもない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である。p47
「複雑性の縮減」p110
ネットは宮台真司が言うところの「島宇宙」を強化する。p112
これからの政府は、市民の明示的で意識的な意思表示(選挙、公聴会、パブリックコメントなどなど)だけに頼らずに、ネットワークにばらまかれた無意識の欲望を積極的に掬い上げ制作に活かすべきである。p117
無意識の可視化装置としてのネット。p129
21世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議により抑え込む国家となるべきではないか。p143
政府1.0は一般意志の代行機関だった。しかし政府2.0は、意識と無意識、熟議とデータベース、複数の「小さな公共」と可視化した一般意志が衝突し、抗争する場として構想される。p146
現代においては、選良と大衆という人間集団の対立があるというよりは、ひとりの人間が、あるときは選良として、またあるときは大衆として社会と関わっていると理解したほうがよい。「大衆の欲望」は、その各人の大衆的な部分の集合として形作られている。p152
共起可能性: 検索でどの単語とどの単語が一緒に打ち込まれる傾向にあるか p167
「総記録社会」
【議論の中核をなすテーゼ】
①近代民主主義の基礎である「一般意志」は集合的な無意識を意味する概念だということ。
②情報技術は集合的な無意識化を可視化する技術であり、したがってこれからの統治はその分析に活かすべきだということ。p169
来るべき国家においては、有権者が責任をもって民意を託す選挙、およびそのまわりに張り巡らされる熟議の空間(各種審議会、委員会、討論会、パブリックコメント、さらには論壇誌やブログ、そしてテレビ- すなわち国政を頂点として組織される膨大な言論空間)とは別に、大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置が準備されなければならない。p182
本書が構想する未来社会は、本能にしたがい天真爛漫に生きる幼児=動物でもなければ、成熟した成人=人間でもなく、欲望の噴出に戸惑い懊悩する思春期の青年のイメージが最も近いのだ。p198
【ハンナ・アーレント『人間の条件』】
「ゾーエー(zoe)」と「ビオス(bios)」は、ともに「生」を意味するギリシャ語である。ただしニュアンスが異なっている。ゾーエーがいまの英語の「動物学(zoology)」の語源に、ビオスが同じく「伝記(biography)」の語幹になっていることに現れているように、前者には動物的で身体的な「生命」の含意が、ビオスには人間的で精神的な「人生」の含意が強く入っている。つまり、そこでアーレントは、人間の生には動物的な生と人間的な生の2つの側面があると指摘していたわけである。p199
ローティは、来るべき社会の公的領域は、徹底した相対主義のもと、あらゆるタイプの正しさや美しさで受け入れるような、言い換えれば、いかなる正しさや美しさとも無関係な別種の原理のもとで運営されるような、価値中立的で脱理念的なものであるべきだと論じた。彼は、その原理のもとで運営される社会を「リベラル・ユートピア」と呼ぶ。リベラル・ユートピアに理念やイデオロギーはない。理念ゼロ、イデオロギーゼロのユートピアこそが、彼の考える理想社会だった。p208
人間と動物、論理と数理、理性と感情、ヘーゲルとグーグル- それらさまざまな対立を「アイロニー」で併存させ、接合したところに、本書が構想する民主主義2.0は立ち現れる。p216
動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する。それが本書が構想する未来世界の公理である。p240
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最初の印象:
面白いと思う。
ただ、もう少し思考のジャンプが欲しかったかな。
「地方自治はSNSでいい」という発言が非常に刺激的だったので、期待しすぎたかもしれない。
むしろ一般意志2.0を基準として、どういった展開が可能なのかの部分に興味がわく。
それは東浩紀氏がやることでは無いのかもしれないが。