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第1章「本当はアフタービートだったクラシック音楽」
第2章「革命と音楽」
形式ばった音楽に思えていたクラシック音楽が感情を湧き立たせるようなものへと変わっていく。
歴史上の出来事と音楽の変遷をこれほど関連付けて推察できるとは!
2016/6/14
第3章「撓む音楽」
第4章「音楽の右左」
自分の知識が足りないのか急に読むスピードが遅くなった。
興味深い推論がいくつも出てきて刺激的だが、文章の書き方なのか根拠の薄さなのかいまいち飲み込めない。
邦楽を西洋音楽と同じように聞いてはいけないというのは目から鱗。
2016/6/15
読了。
西洋音楽の記譜法に慣れてしまったがために、邦楽を同じ基準でみてしまっていたことに気付かされた。
ベートーヴェンの第九に込められた暗喩の考察や「君が代」で戦争には行けないということになるほどと。
2016/6/17
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無知の私、目からウロコ?の思わぬ音楽論が飛び出て非常に興味深い気持ちで最後まで読めました。
日本の音楽は西洋の音楽とタイプが違うことを再認識。
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日本人にとってクラシック音楽を受容するということは何を意味しているのかということを、著者自身の体験と考察を交えながら、エッセイのようなスタイルでつづった本です。
日本人という観点から、ヨーロッパの音楽はアフタービートが基本になっているという指摘をおこなったり、クラシックとジャズを貫くスウィングについての独自の考察をおこなったり、さらには、日本人と西洋人で右脳と左脳の使い方に違いがあるという、角田忠信の『日本人の脳』(大修館書店)における疑似科学的な議論までも引用しつつ、西洋音楽が日本において「クラシック」として受容されたことが生んだ「ねじれ」のなかで考察が展開されています。
若干議論が散漫に感じられるところはありますが、著者が直面しているのは、森有正がヨーロッパの思想と出会い格闘した問いと同型のものだということができるように思います。ヨーロッパの思想は、われわれ日本人にとって単なるユーラシア大陸の片隅の特殊な文化として受容されたのではなく、普遍性をもつ範型としての意味をもって受容されてきました。しかしその範型は、いうまでもなくヨーロッパという風土における「経験」のなかではぐくまれ、そのなかから生い立ってきたものであったはずです。ところが、日本におけるヨーロッパ思想の受容においては、ヨーロッパの思想的風土における経験から普遍性へのプロセスをそのままたどることはできず、単なる形式としてのみ受け入れられることになり、そこにレーヴィットが指摘した「二階建ての日本」というニヒリズムの淵源が存在しています。
本書は問題の提起にとどまっており、それに対するはっきりとした答えが与えられているわけではありません。しかし、著者自身が本書において提起されている問題、すなわち日本におけるクラシックの受容という「ねじれ」のなかに身をさらしつつ、その「ねじれ」のなかで思考を紡いでいくドキュメントとなっており、ある種の迫真性が感じられます。
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[コメント]
NHK BS「週間ブックレビュー」2012/02/04 6:30-
野崎 歓氏紹介
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はじめに
第一章 本当はアフタービートだったクラシック音楽
第二章 革命と音楽
第三章 撓む音楽
第四章 音楽の右左
第五章 クラシック音楽の行方
第六章 音楽と政治
おわりに
音楽史と思ったら音楽論でした
エッセイ風で読みやすかったが何か知識が得られたかというとあまり...
ただ「たしかに」とおもうことがたくさんあった
西洋クラシックはアップビートってことは理解出来た
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おもしろかった。
なぜ利き手がミリ単位でスライドさせ弦を押さえるという複雑な操作ではなく、弓を引くような比較的、大振りな動作をになっているのかとは、たしかに疑問に思ってたが、なるほど。
第九が大晦日の定番なのと、ウィーンのニューイヤーコンサートのワルツ漬けの違いも、そう言うことかと。巻末、この第九の話で書かれてるヴェートーヴェンの意図について解釈が凄い。
ヨーロッパは車の信号が赤い→黄色→青なんやね。