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この巻は、理性をいかに鍛錬するかとか、「道徳」の構築に向けた思考の動きとか、本書の「応用編」的な部分となっている。つまりカントは既に、次の「実践理性批判」へ向けて、カントは動き出しているのである。
やっと光文社新訳文庫版『純粋理性批判』全7巻を読み終えたわけだが、カントのこの著作とは、結局何だったか。
それまでの経験主義としてくくられる著作家たちを「独断論」として批判し、緻密な思考を展開して見せたこの書物は、18世紀「近代」を切り開いた、やはり革命的だったと思われるし、現在読んでみてもその思想はじゅうぶんに刺激的で、挑発的である。
しかしカントの思考の枠組みが、せいぜい18世紀までの範疇に限定されて見えることも否めない。
なんでも分類する事が大好きなカントは、人間精神の活動を「感性」「知性(旧訳では悟性)」「理性」に分けるのだが、現在の我々のパースペクティヴから見ると、このような分け方は便宜的なものではあっても、それ自体リアリティを欠くし、さほど意味がない。
こんにち的な位置から見ると、私たちは脳をさらに細かく「分ける」こともできるが、人間が思考するとき、それらの各部が複雑に作用し合っていることを理解できるし、また、人間の心的な営みが「脳」という局所にだけ孤立的に限定されているというより、人間存在全体として考えているのだ、という風にも考えられる。
「感性」「知性」「理性」といった「カテゴライズ」は、西洋の言語体系のなかでは便宜的に成立し・活用される概念ではあるが、そうそう截然と区分けされるわけもなく、我々は意識と、意識外(無意識)、あるいは神経伝達物質、シナプス、あるいは身体すべて、といった全要素が複雑に絡み合った「全体」=ゲシュタルトとして、思考活動を行っているのだ、と思う。
だから「感性」も「知性」も「理性」も、人間の心性のちょっとした一面(特性)を示す用語ではあっても、それ自体として「存在するもの」ではないのに、それらを「主語」とし、あたかも独立して機能しうる何者かであるように記述するのは、明らかに「近代の誤謬」に過ぎないと私は思う。
この点で、カントの哲学もまた、「批判」されるべきであった。
しかし緻密な「批判」なる知的営為を確立したカントの「革命」の価値が損なわれることはないだろう。
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ようやく読破。最終巻は、これまでの読書のおかげか、それともテキストそのもののおかげか、とても読みやすく平易です。いや、また読み直さねば。カント・ヘーゲルは現代においてとても参考になる人たちです、うん。
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7巻は今までのまとめみたいな感じ。
いっそ全部あとがきって感じでいいんじゃないかとも思うくらいだけど。とりあえず読み終わって嬉しい。
朝の15分だけ読むって決めていたからえらくだらだらと読んだけど(1,2巻は2回ずつ読んだし)とても幸福な読書体験でした。
これから先何を読んでも純粋理性批判を読むのと読まないのとではきっと理解の仕方が違ってくると思います。
読み方の良いクセを得ることができた。
実践~と判断力~は新訳ででないのかな。
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ようやく、読み終わったが、いよいよこれからが本番である。わかりやすいという評判の本訳であるが、いわゆる定番の訳語を当てはめていないことによって、かえってわかりづらい部分も多い。また、丁寧に訳者が解説していることは、細かすぎて全体が見えづらく、巻数も多くなっていることも含めて、やや「おなか一杯」という感じである。他の解説書や他の訳本も読んでみたい。どちらにしても難解である。なんとなくわかった部分はまだ多くないので、再読しながら、理解できる部分を増やしていきたい。
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amazon に注文します。
(2017年7月24日)
届きました。
読んでいます。
(2013年7月26日)
◆エベレストからは、何が見える?
カントの『純粋理性批判』は、世界最高峰です。
エベレストみたいな本です。
実物のエベレストには、登れっこありません。
本のエベレストは、登れます。
自分の頭で。
もちろん、この本(光文社古典新訳文庫)の訳者、
中山元先生という名登山ガイドがいて初めて、
なんとか登ることができます。
全7巻。
最終巻まで、来ました。
もうあと少しです。
一挙に登ってしまうのが、もったいない気がします。
*
登り切ったら、どんな風景だろう。
(2013年8月7日)
読み終えました。
時間がかかりますが、時間をかけてでも読むと楽しい本です。
普通の日本語で読める本をつくった中山先生と版元の努力に、恐れ入ります。
日本の財産です。
(2013年8月8日)
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原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT
超越論的な方法論(純粋理性の訓練;純粋理性の基準;純粋理性の建築術;純粋理性の歴史)
著者:イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804、ロシア・カリーニングラード、哲学者)
訳者:中山元(1949-、東京都、哲学者)
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ようやく最終分冊。これまでが「超越論的原理論」という長い長い第一部で、ここからが第二部「超越論的方法論」という、なかなかにアンバランスな構成であったことに今更ながら気づく。世界認識において働く感性・知性・理性の各々の機能とそのための材料が明らかになったところで、今度は実践的な見地から、何のために世界認識を「すべきか」が語られるのが本分冊である。これまでの議論に比べてやや教条的な色彩が強く、読んでいてやや退屈なのは否めない(7冊目でこちらがダレて来ているのも当然あるが)。
物自体を直感できず世界の実像を認識できない我々が、それでも世界の認識に取り組むのはなぜか。それは我々が動物的・感性的な衝動の影響を脱し、理性の指示のみにおいて〈実践的な自由〉を志向するからだという。この実践的な自由とは、「幸福のために何をすべきか」という処世術的・実用的な基準ではなく、「何があるべきか」という理性の判断における基準すなわち〈道徳法則〉のもとに規定される自由のこと。つまり、我々の理性の関心はそのような実践的な自由を入手することに向けられているのだという。
そして、この道徳法則は必ずしも処世術的な「幸福のために何をすべきか」という実用的な見地には立っていないため、この法則に従って行動していても幸福になれるとは限らない。ではどうするか?全人類の行動が道徳の法則つまり「あるべし」という〈定言命法〉に従うよう統制する「神の国(恩寵の王国)」の存在を想定すれば、道徳法則と処世智の規則は一致する、というのだ。そんなこと本当に可能なの?と当然に思うがこれが本分冊の一応の結論であるようだ。詳細は続編「実践理性批判」に引き継がれることになる。
というわけでどうにか読了(読破とは言いづらい、何となく)。正直、各分冊の訳者解説がなかったら一冊も読み通せなかったのではと思う。独断論を批判するカントのそのロジックが「それこそ独断論じゃないの?」というような突飛さを持っていることも多く、納得感がないままに読み進めることになる。これが苦痛この上ないため、僕には訳者解説や副読本のような補助線なしには到底読むことができなかった。しかし、何とか最後まで読み通したことで、少なくとも同種の観念的な議論には幾分免疫がついたのではないかと思う。