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藤木久志の「惣無事令」論が修正を迫られているという話を最近いくつかの本で知り、その論理を含む研究動向を知りたくて読了しました。
戦国大名らを支配・統制する論理として、より上位の公権力発動である豊臣平和令としての「惣無事令」論を初めて知ったのは学生の時だったが、何年か前に読んだ藤田達生の著作(新書だったか?)にて「惣無事令」は存在しない、戦国大名らを軍事制圧するための方便であるとの論を知ったが、議論が平行線というよりは藤田反論は噛み合っておらず楯の両面に過ぎないのではないかという感想を持った記憶がある。
本書ではまず「惣無事令」なる法令は存在しないという確認から出発する。そもそも有名な刀狩令のような命令形式での文書は存在しておらず、藤木氏が立脚した史料も書状形式の文書であり(つまりはお手紙。通常、年は記載されない。)、まずは書状内容前後の状況から年を比定することから始めなければならないというある意味、不毛な現実がある。(失礼!)近年、「惣無事令」とされる一連の書状の年が遡って比定される研究が多くなり、加えて政治情勢の中での文書と背景の捉え直しという著者の観点から、やはり「惣無事令」は存在しないという結論を得ている。
「関東惣無事令」の文書とされた「惣無事」とは、織田信長による甲斐武田氏滅亡から関東統括としての滝川一益の西上野入部という「関東支配」の事実を根拠とし、後北条氏V.S.反後北条氏連合の苛烈な戦いに対し、関東諸地域の特殊政治状況を踏まえた上で、徳川家康(ひいては羽柴秀吉)が「信長如御在世之時候各惣無事」と要請したものとしている。「惣無事令」がそもそも存在しないという論証はもともと首肯できる話ではあるが、藤木論の魅力は、そうした政策・理念の一方的な強制押し付けによる「豊臣平和」の実現であり(武力を伴う)、関東の軍事・政治状況を踏まえた上でも、より高次の支配理論としてその本質は失われていないと考えるが、文書の比定年が揺るがなければ、武力を伴う「関東惣無事」の押し付けは、家康による秀吉臣従以前においては秀吉も家康も無理なはずであり、やはり単なる要請に過ぎないのだろうか。
ただ、この論理上重要になっているはずの信長による「関東支配」が数カ月だったことといい、本能寺の変後、神流川の戦いで滝川一益が北条氏直に大敗している事実といい、信長体制に戻れという要請が本来有り得て、しかも実効性が期待できたのかという疑問は残る。また、著者も記している通り、必ずしも信長「御在世」の通りの「国分(け)」になっているとは言い難く、「惣無事」が信長支配体制の再来とすることには無理がある気がする。
「惣無事令」文書比定年論関連でいえば、「関東惣無事令」とされた文書については北条氏直の左京大夫任官時期による論証で遡りは首肯できるのだが、「関東奥両国惣無事令」とされた文書の再比定に関わる論証は、一見、ごちゃごちゃしているが論理はいたってシンプルで、その当時の政治情勢に合致するという話だけでは単なる可能性の一つを提示しただけで「論証」にはほど遠い。
著者の個別・特殊政治情勢からのアプローチという観点で、後北条・上杉・徳川による甲��・信濃争奪戦である天正壬午の乱や、真田昌幸の立ち回りに一驚する沼田問題、最上義光と本庄繁長(バックに上杉景勝)との庄内問題、後北条と里見氏との政治経緯など、それぞれの歴史経過についての記述は勉強になり面白かった。
一方で、著者の主張する政治情勢からの位置づけについてはもとより最もな話ではあり、また、沼田問題や庄内問題もすぐれて当地における特殊性のある紛争には違いないのだが、あまりにも情勢に流されすぎており、公権力による支配論理ひいては統一国家構築論には結びつかないというその方法論の限界を示している感じがする。歴史の表面を辿ることに終始し、例えば各領土争いを国境紛争とその結果による国分けだとするその限定した論理は、政略・戦略的視点を失っていると思わざるを得ない。このままでは後北条氏による名胡桃城奪取を直接の発端とした小田原城包囲戦に至るまでの公権力論理や、それを契機とした関東・奥羽支配体制構築に至る豊臣権力の有り様が理解できなくなってしまう。また、小牧長久手の戦いが戦略的には秀吉優勢な経緯を辿ったという話は以前より知られていたが、第二次小牧長久手の戦いが勃発寸前だったという話は新知見だが、秀吉側の文書による家康「赦免」という文言は秀吉側による宣伝に過ぎないという見方も有り得、これも表面的理解だけに終始している感があり、一方の側の主張だけでなく逆に著者のいう政治情勢と関連させてもらいたかった。
以前として「惣無事令」を否定はできても「惣無事令論」の本質を越えてはいないと感じられ(すなわち、「惣無事令」というネーミングを変更すればよいのだから)、今後は新たな豊臣権力支配原理の構築を期待します。