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おもしろい。
レヴィストロースは、神話に「意味」や「目的」を読み取ろうとすることをやめようとした。
神話が完結した意味を持たないならば、ふだん考えるような言語の意味とは違った作用のうちに語りかけているに違いない。
パフォーマンスの「いま=ここ」は、動きの中に現在進行する一抹の未来を取り込み、絶えず現在でも過去でもない「いま=ここ」の時空間として現れる。
呪術とそれに込められた力はまさに神話的な伝統と今日現在とのリンクなのである
★マリノフスキーは、「現在」という時空間を神話の語りに裏打ちされた「呪術」として把握し、やはり行為遂行性に着眼している。かれは神話(呪術についての昔語り)と呪術(伝説上の出来事)との相互補完的な関係について、神話と現在を呪術が橋渡ししていると述べている
神話は歌や口碑として語られることによって、昔語りの出来事は失われたときの彼方にある「過去」ではなく、現在に重ね合わされた一つの世界として現れる
神話が語られ呪術として効力を発揮する「いま=ここ」の時空間では、マリノフスキーが「橋渡し」とか「今日現在とのリンク」とか呼でいるように、過去と現在が重なっている
「現在」として表される日常と、過去として表される非日常は、パフォーマンスとして重ね合わされながら、一つの全体になる
レヴィストロースが名付けた音楽も、「いま=ここ」を接合するものとして考えることができる
自ら内省的に音を聴くという能動性を失っていく
踊り手は、いまここのヤホブの人になり、さらに音楽になる
音楽の体験は対象となる音源には存在せず、ただ何かと触れ合っているという玄妙な感覚の中にしか現れることはない
肉の共同性
★関与のずれ
➡これは共同性の話だろう、全く同じなのに、全く違う体験
★(エスノグラフィーの現場)それは安易な異文化理解というユートピアではなく、相互にずれを感じつつ関与している場所に他ならない
★人格の延長とか、音楽になるというときにも、模倣や同一化や異種混交が起きているわけではなく、ただ「いま=ここ」というパフォーマンスの場が顕現しているに過ぎない
自分が他者からみた自分自身を同時に感受しているような間身体性では、かならず時空間の「ずれ」の感覚がある。
シマウタがシマになる力の根源を成すように習慣化され、人が風景になる根源を培っている
★ウタカゲは、ただ個人と個人とを結びつける以上に、個人が互いにつながる連続体としてシマになるような状態を生じさせている。ウタカゲが風景と人格とを接合する時空間を顕現させることによって、シマウタはいつもそこにあるものとして存続する
➡風景と人格の接合という言い方は、妙。
奄美では歌が記憶の装置。
奄美のシマウタでは、シマが風景と人間とを接合する作用をもたらし、人々をシマに生きる存在として切り分ける。ウタカゲが「あいだ」を対話という形によって顕現化させるという独特のやり方で、パ��ォーマンスの場がシマの風景になることを促し、さらには移動の相によって「あいだ」に鳴り響く
➡この「風景と人間」の接合というのは、その「場所」への没入という話で、言い換えれば、物語への参入=世界内存在ということだろうな
シマは、自分が身を置く場として認識される
シマもまた永遠不滅の命脈を保つ時空間として想像される。自然環境としてのシマとそこに暮らす人の存在に協会は始めから存在せず、人の暮らしも当然ながらシマの生態系や環境に影響を与えている。集落や田畑や祭祀空間を作る中で人の営みは自然の風景を変え、暮らしのたたずまい自体が風景の一部となっている。シマの人は自らの人工物とともに風景になるし、身体は風景と不可分に結びつくことによって初めて生活世界を作りだす
「人がシマになる」というのは比喩ではない。シマが生活そのものとなるとき、人それ自身がシマになる。人格を延長したところにあるシマは生命体の延長線上に認識される。そこに生きていると認識される存在すべてが地形に同一化し、一つの個体として原風景をつくる
風景になる人をつねにシマの内部あるいは中心にみるとき、シマは同心円を描く入れ子型のように見える。
パフォーマンスの場は、「かれら」の音楽になる時空間として広がっていた
国際都市での留学生活という自分のテリトリーは、音の響きによって脱領域化された。自分が音によってかれらの存在とのあいだにかかわりをもっていることを感受し、少なくともその瞬間だけは、「いま=ここ」という新しいネイションの誕生に立ち会うことができた
➡ナラティブの話。
先住民になる音楽に包容されるという体験は、「肉の共同性」を持っている。パフォーマンスの場はかれら、自分自身、われわれすべてのネイションとして鳴り響き、音楽という集積体の中に蘇生するような体験を紡ぎ出していた
➡これはアーレントのいう「物語」への参入の話だろうな。
安易な異文化理解というユートピアではなく、相互にずれを感じつつ関与している場所に他ならない。