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予想外の猟奇ホラー。
むちゃくちゃな設定なのに、ちゃんと入ってくるのは、
主人公の思いに覚えがあるから。
自我は他者と比較しないと感じられないのか。
だれもが、どうしようもない自分を隠して演じながら生きているのか。
こんなに共感したのも、珍しい。
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解説が秀逸。思わず「なるほど」とうなづいてしまう。でもこの本を消化するにはもう少しだけ時間がかかりそう。
p331「(解説)人は演じることによって自己を獲得するのか。それとも、演じることをやめることで本当の自己に到達するのか。」役割をやめて解き放たれたい。親子関係、上下関係、男女の関係、あらゆる関係性に縛られず、真の自分を追求したい。他人との関係性が無くなった自分は、他人と繋がって一つになる。境目のない世界、全体主義的統率は人を酔わせる。この一体感は快感に違いない。だがしかし、その代償として次第に自分が失われていく。俺山。そして全体から逸脱すればそれはある種の死を意味する。こうして結局、自分というものが消滅してしまう。でも消滅してしまう前にまた他者との関係性の中で、他人とは明らかに異なる自分を再び手にするのだ。
他者がすなわち俺であること、これはすこぶる楽だ。完璧に分かり合える。だからそれを望む。そこには関係性がない。なぜならみんなが"俺"だから。俺俺俺俺俺。でもきっとそんな俺は崩壊する。なぜなら他者は"俺"であるというのは、実際は幻想に過ぎないから。それに自分が他者と同一であることに耐えられないから。人は明らかに異なる他人との関係性がないことには耐えられない。結局のところ、そうでなければ自分を保てない。関係性があって始めて自分というものが生まれる。それは他者を"俺"の中に取り込んで支配してしまうことよりも、遥かに切実なのだ。
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怖い、とても怖い小説。
自己と他者に差がなければいい、同じならいい、なんの努力もなく解りあい必要とされ、その輪のなかで完結してしまいたい、自分だけが自分だけがと自意識に被害妄想に振り回されることもない。「同じ」だという絶対的な安心感。けれどそれは「同じ」なかで自己が失くなるということになる。
…さてそれが現象として実際に現れたらどうなるか、それがこの、俺俺。
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周りを見渡した時に、何か皆、生きにくそうだなぁと、何となく感じていた閉塞感、それはこの「俺俺」に書いてあるようなことなんだよなと腑に落ちた。でも、そういう人たちがこれを読んでもきっと気づかないんだよな。
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亀梨くん主演の映画化が話題になっている大江健三郎賞受賞作品。
偏見は良くないが、この小説にしかなしえない小説の映画化は困難だろう。
後半は終始一見哲学的な自己分裂の連続描写は評価が難しいと感じた。
ただ、あとがきにある、
秋葉原連続殺傷事件の犯人である加藤智大の言葉、
「自分の家に帰ると、自分とそっくりな人がいて自分として生活している。家族もそれに気づかない。そこに私が帰宅して、家族からは私がニセモノとして扱われてしまうような状態です。」
この小説が、加藤が起こしたあの惨劇よりも前に書かれた小説であるという事実だけで、評価に値し、そして、この小説がフィクションを超えた現実になったとも言えるのだ。
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映画の予告を見たので、コメディタッチの話なのかなと思って、軽い気持ちで読み始めたら予想外。目の当たりにしたくないものを無理やり見させられているような、それでも先が気になって読まずにはいられない、不思議な物語でした。
自分と他者の境界が曖昧って、なんてオソロシイんだろう。ましてや、それがどんどん自分になって、結局自分しかいない世界なんて…考えたくもない。
しかし、この話、どう映像化するんだろう。
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「自己」とは何を持って形成されてるのか。
そんなことを考えさせられた作品。
例えば、僕自身仕事中では自分を「作っている」自覚はあるし、
1人でいる時と、友達といる時と、上司といる時と、彼女といる時とを比較すると、全て「同じ自分」ではあるものの、「ちょっと違う自分」だという自覚もなんとなくある。
じゃあホントの自分はどれなんだろう。
なんなんだろう。
この作品も、他人を演じるとこからはじまって、他人の「俺」に出会う。
いつの間にやら主人公は「自己」を見失い、「俺」が演じてたはずの「他人」に、思い出や意識も含めて何もかもが、いつの間にか、無意識のうちにすり替わっていく。
その後、似たような「俺」が増殖していき、
「俺」同士が集まって、互いの人生の苦労を理解し合って傷なめ合う。
それに慣れると次は「俺」こそが自分こそ特別と思いたくて、他者の「俺」を否定し始める。
「俺」の削除が始まり、最終的には1人に落ち着く。
そんな話でした。
自分と他人の境界は、あるようでないのかもしれない、なんて事を考えた。
「自己」は何を持って形成されているのか。
「自分らしく」とは何なのか。
「自己分析」なんてものを、就活中はよくやったけど、
あれから就職して3年目になった今、全く同じことをやっても、
結果なんて変わってるんじゃないかな。
それくらい自己は変容するものだと僕は思う。
周囲の環境に影響されやすい、確固たるものじゃない。
とすると、それは簡単に脅かされ、侵され、おかしくなる。
そんな危険があるよね。
なーんて事を想った。
他にも色々書きたい事はあるけど、レビューでは無くなってきたのでここら辺で。
続きはブログで書こうかな。
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後半壮絶。この話を面白いと思うのは難しい。
映画化、三木聡だからこそ出来るのかな。かなりB級オカルト系になりそう。
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周りの人との関係性、自分の在り方。
普段自分がいる世界の中に潜む非日常体験。
「増殖」と「アレ」への恐怖。
有り得ない話ではあるけれど、もしかしたら……。
ちなみに映画鑑賞後に読みましたが大筋は同じですが、映画と小説は別物です。
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読んでいて非常に辛かった。
しかし、同時に何かカタルシスも得られた。
それほど、自身にも身に覚えのある感覚が描かれている。
この本の面白さは、他人を「俺」にするという発想だと考える。
自身の不確かさ、他人との境界線のあいまいさは、他の作品でもテーマとなっていると思う。
しかしながら、多くの場合は「他者」が「自分」を侵食する恐ろしさ、絶望に焦点が当たっていると考える。
そのような作品のなかで、本著は発想が逆転している。
そして、そのような仕掛けが、単なる「恐ろしさ」のだけでなく、「優越感」からの「孤独」や「絶望」というストーリーの落差を生み出していて、より物語に深みや読者に迫る何かを生み出していると考える。
また、個人的には「俺」の増殖は、個人の境界線のあいまいさではなく、「もともとそんな境界線などない」という発想から生まれているのかな、と考えていた。
つまり、「自分の思ってることや経験していることは、何だかんだで他の誰でも持っていて、『特別』な『個人』など有り得ない」という発想だ。
しかし、作者はどうも個人の境界線を非常に意識していると考えることから、もしかしたらそのような「境界線」に執着する我々の「淋しさ」も作者は十分に理解してストーリーに組み込んでいるのかな、と考える。
一回の読書ではなかなか十分に理解が行き届いていないと考えることから、また時間を経て機会があれば読み直したい。
読むのは辛い作品だけれども(苦笑)
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前半は少しずつ読んだが、後半からいっきにラストまで読み進んだ。
中盤で「八十吉」が出てくるあたりから、話の展開が急加速されていき、ジェットコースターに乗っているようだった。序盤で出てくる「ヤソキチ」について、主人公の記憶は曖昧もしくは消失しているかのようで、「ヤソキチ」のことに限らず、さまざまな“俺たち”の記憶が重複したり上書きされたりしていく。読み始める前には、“俺”がたくさん出てくるので、混乱するかと予想していたが、作者の手腕でその心配なく最後まで話は明瞭であった。
“俺たち”と“非俺たち”の境界が明瞭になるにつれ、世界は殺伐としていく。“俺”と“俺たち”は自身でありながら他者であり、“俺”の存在はたんに“俺”であるという意識だけというところまでに行く。理解できない他者“非俺たち”の存在が脅威である状態を超え、何もかも解ってしまう“俺たち”の世界のさらなる脅威の描写が迫真である。そして、最終的には大団円である。
そのラストだが、大団円にする必要を感じなかった。“俺”がただ一人で呆然とするところで終わっていたほうが良かったのではと思う。「めでたし、めでたし」で終わる教訓譚のように感じてしまう向きもあろう。「現代の若者」の「孤独」や「不安」などをストレートに描写しただけの作品ではないだけに、その点が惜しまれる。
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ま○やみたいな表紙がおもしろくて買った。しかし中身はかなり濃かった。面白いとは言えないのだが、この題材をかききるあたり書き手の業がうかがえる。他の作品も読んでみたいな。冒頭のおれおれ詐欺なんてほんの導入。おすすめです。
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俺がいっぱい過ぎて若干のゲシュタルト崩壊(笑)
映画の予告だともっとコメディな感じかと思ったけど、予想以上に狂気!!
でも、現代社会をうまく揶揄していると思った、
「自己」について考えさせられるお話、
なんだか自分のことを書かれているような…そんな感じ
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細かいことはとりあえず置いておいて、いろんな意味ですごい小説でした。
テーマとしてはすごく壮大でいいのだけども、もうちょっとだけ足りなかったかなあ。話に無理があると感じたのと、最後らへんが詰めすぎな感がありました。
ただ、この深いメッセージを読み取るとすごく気持ちのいい小説。
自分と他人の境界線がなくなること、最初はそれが心地よかったけど、だんだんと耐えられなくなり、暴走が起きる…。
人間はいろんな人間がいるからおもしろいんですよ、ほんとうに。そんなことを考えさせられる、好きな感じの小説でした。
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そもそも自分を自分だと証明する術はあるのだろうか?
あるいは自分が自分であるべき理由…
ある日誰かと自分が入れ替わっても家族や恋人や友人、職場の人にそれは自分ではないと訴えた所で信じて貰えるのだろうか?
自分が自分である確証なんて実は自分自身にも無いのかもしれない…
私は中学生位の時に鏡を見ては不思議に感じていた。私って何?…私って誰?自分が何者なのか不確かで、何故ここに存在しているのか分からなくて不安だった。
自我の芽生える年頃だったからだろうけれど、鏡を見ると自分が自分で無いような気がして不安に苛まれた。
自分とは色々な個性の寄せ集めであり、そのそれぞれの個性が自分を自分だと思える唯一の手段なのかな…と思う。
個性が自分の証明だとすれば、現代では同じ様なファッション、同じ様な思考。で、似たような人達がうじゃうじゃいて、何だか気持ちが悪いと言えば気持ちが悪い…
皆と同じ思考や価値観でないと、空気読めてないと異端児扱いする学校や会社や世間が悪いのかな…と思う。
回れ右でみんなに従う自分、自分とよく似た自分、安心感で群れて、自分に似た他の自分だから、他の自分の事も理解出来るし、気を使わなて安心出来る…そしていつの間にかどれが本当の自分なのか分からなくなり、気付いたら別の自分に自分の居場所を乗っ取られてしまう…
自分が違う自分に入れ替わった事に家族も気付いてくれなくて、逆に本当の自分を不審者扱いされてしまう…
でもそれを受け入れる自分。自分の新たな家族にも何だかなじんでしまって…全部俺だからいいか、的な落胆的発想。全部俺!考えてる事も手に取るようにわかるし、行動も予測通り。気を使わなくていいし、ラク!他人と接するよりも、俺達だけで暮らした方が楽しい!俺は勢いがついて増殖を繰り返す。
周りも全部自分だし、日本中みんなが俺だ。
俺のコピー、俺の分身。俺だけが入れば楽しく人生を生きていける!
果たして本当にそうなのだろうか?
俺に似た俺にも少しは本体の俺(もうどっちが本体かすらも分からない)とは違う自我がある。
反発や言い争いを繰り返すうちに、ついには殺人事件が発生。自分が自分を殺すなんて…
本書の主人公均は、気まぐれで犯した俺俺詐欺をきっかけに、自分が誰なのかの疑問に初めて気づく。
元々自分の気持ちを偽り、誤魔化し、イヤな事から目を逸らして生きてきた事のツケが回ってきたのだ。
夢を追いかけて生きようとする友人、イヤな上司、流れに逆らわずに生きようとする姉の夫。虫酸が走ると思いながらも、結局は自分が目を逸らしていた自分自身の投影だった。
全ての人間が俺になった時に、お互いの自分の弱い部分を指摘し合い、そしてついには殺し合う…もうどの俺も信じられない。信じられるのは本体の俺だけ…
でも本体の俺はどれだ?均自身、大樹、あつし、色んな人間に間違われてどれが本物の俺なのか分からない。
俺が俺だと認めてくれる人は誰もいない…器の見た目さえ似てい��ば、中身はどの俺でも構わないのか…
確かに家や会社や学校で俺がいなきゃダメだ!と言ってくれる人がいるのだろうか?代わりはいくらでもいる、俺がいなくても地球は回る。似ている俺が入れば何も問題無い…
殺しあって一人になった、本物の俺の均。均でさえ自分が何者なのかも分からないまま模索して、生き残った人達と今度こそ良く似た俺達ではなく、本当の自分になる事を誓う。そして自分は誰なのか忘れないで欲しいーと。
人は常に演技する。家庭で、学校で、職場で。演技をしていないと不安になる。自分のアイデンティティを見いだせない。
けれど時々は演じる事をやめて、まっさらな自分に向かい合うべきなのだろう。悩みや苦しみを演技で誤魔化すな、そうしなければ本物の自分には、なれない。自分を誤魔化さずに生きるのは難しい。けれどそれを乗り越えなければ、本物の自分にはなれないのかもしれないー。
私も誰かに私を乗っ取られないように気を付けなくては!