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大英博物館に世にも稀な聖書が保存されている。モーセの十戒の
うちの「汝、姦淫するなかれ」が、「汝、姦淫すべし」となっている。
「not」が抜けちゃってたのね。
わっちゃ~。やっちまったなぁ…の見本である。そう、誤植である。
よりによって聖書。しかもこの文言。モーセも目が点だろうな。
印刷物と切っても切れないのが誤植である。どんなに目を皿のよう
にして校正をしても、必ず見落としがある。
専門学校時代には校正の授業も受け、校正の試験も合格した私だが、
事務所勤務時代は先輩編集者から「お前の校正はザルだなぁ」と深い
溜め息を吐かれたことは数知れず。今でも書いた文章の誤字・脱字は
日常茶飯事である。
本書は明治の文豪から現代のエッセイストまでの、校正・誤植に関する
エッセイを集めた1冊である。
「水着姿」ならワクワクするけど、「水着婆」だったら怖いもの見たさに
なってしまう。「愛妻」なら微笑ましいが、「愛毒」だったら危険なものを
感じる。
「全知全能といわれる露皇帝」とすべきところを「無知無能」とやって
しまったから、さぁ、大変!外交問題にまで発展しそうな誤植まで
ある。
「天皇陛下」が「天皇階下」ってのもありましたね。右の人たちに
猛烈な抗議を受けそうだ。こんな誤植を防ぐ為に、「天皇陛下」の
4文字を活字にしちゃった印刷所もあったとか。
活版時代の話が多いので、現在のデータ原稿入稿しか知らない
世代ではピンと来ないかもしれない。でも、今だって「ちゃんと校正
してんのかよ」って本は結構あるんだよね。
何も校正者の見落としだけで誤植が生まれる訳じゃない。手書き原稿
の時代は執筆者の悪筆が生んだ悲喜劇だってある。大変なのよ、
悪質の執筆者の原稿を読み下すのは。ブツブツ…。
インパクトの強い誤植の話ばかりではなく、執筆者としての校正者に
対する苦言、反対に校正者に対する感謝の思いも綴られている。
印象に残ったのは吉村昭氏の「刑務所通い」と題された作品。
大学の文芸部で少ない予算をやり繰りして文芸雑誌を出していた。
印刷代を安く上げるために、小菅刑務所に印刷を頼んだ。校正の
為に刑務所へ通う吉村氏は、校正刷りを間に挟んで囚人たちに
親密感を感じる。なかには文学の素養のある囚人がいて、文章を
巧みに直してくれる。
ある時、吉村氏の書いた作品の最後に書いた覚えのない一節が
あった。
「雨、雨に濡れて歩きたい」
囚人が付け加えた一節だ。吉村氏はこの一節を消すことに苦痛を
感じる。しかし、やはり自分の作品が大事だ。
「私は、複雑な気分で、赤い線を一本遠慮しながら引いた。」
4ページにも満たないエッセイで、やられたよ。なんだよ、この余韻。
これまで「うわぁ、なんだこの誤植」って結構笑いながら読んでいた
んだけどね。すごいな、吉村氏は。
文章を書く人、本を読む人なら楽しめる1冊であ���。どんなに技術が
進歩しても、誤植ってなくならないんだろうな。それにしても、最近の
校正ソフトに頼り切った校正はどうにかならないものだろうか。
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高村光太郎先生はなかなか原稿を渡さないが、組み上がったゲラには誤植以外には赤を入れなかった。どうしても変更修正したい場合はその旨の手紙をつけて渡したという…(DTPに携わる者にとっては、なんと素晴らしい先生だ!)など、活字の事など若干古い内容もあるけれど様々な年齢や立場の書き手が誤植に対して色々書いていて面白かった。同じ言葉でも漢字にしたり、時にはひらいたり不統一なのを指摘された事への苛立ち、校正ミスの開き直りなど、ある意味言い訳みたいな文章が多くて笑ってしまう。
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誤植に関するエッセイ集
過去は植字工が一文字一文字拾って組版を作り、それが一頁となっていた
今と違い変換や置換で文字を置き換えられる訳ではない
字数が変わり頁を跨ぐことが有れば、それは後続する全てを組み直す必要がある
リアルな世界での影響を作家も編者も知っていたからこそ命を賭して校正する
現代はリアルを見えなくする事で擬似的な効率性を有難がる風潮だが、本質から目を背けすぎている感が強い
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みんな間違えるんだなって安心する。
昔の印刷所には勤めたくない。。たった一字の直しで残りも変えるってエグい。
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昔原稿は手書きだった。悪筆で発生する誤植。機械的に直し発生する表現の貧困。誤植棚から表現のぼた餅。誤植はいいとも悪いともいえない。ただ手書きからPCになっても、校閲者(読者含む)には今後もお世話になります。