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最近気に入っている著者(昔から読んでいましたが)が合気道・武道に
関して、それから宗教と冥想に関して、最後に司馬遼太郎と坂本龍馬に
ついて書いた本。
面白かったです。
無敵の解釈。敵の解釈として『私の心身のパフォーマンスを低下させるもの』
という解釈とそこから見出された無敵の解釈。昔武道(剣道)をやっていた
私としてもよく分かる部分が多い内容です。額縁をずらす。キマイラ的身体の完成。中島敦の名人伝。レヴィナスによる正義と悪について。等々。。
日々の生活や仕事への態度として非常に役に立つというか
根幹としてもっている感覚に合っているし基準となる考え方です。
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前半二編は「いつもの話」だけど、後半二編に意外性があって楽しかった(編集さんがいい仕事した、と思った)。
第三部「現代における信仰と修行」
実は私の学部の母校(ICU)はヴォーリズによる建築。神戸女学院もヴォーリズとは知らなかったけど、その考察にはハッとさせられた。
「建物を実際にご覧になるとわかるけれど、ヴォーリズの建物には無数の暗がりがある。」(p.173)
「好奇心にかられてドアノブを回して、見知らぬ空間に踏み込んだ学生は、その探求の行程の最後で必ず『思いがけないところに通じる扉』か『思いがけない景観に向かって開く窓』(そこ以外のどこからもみることができない景色)か、どちらかを見出す。(p.173)
続いてレヴィナスによる正義と悪について。
「悪を根絶するというタイプの過剰な正義感の持ち主は、人間の弱さや愚かさに対して必要以上に無慈悲になる。逆に慈愛が過剰な人が、邪悪な人間を無原則に赦してしまうと、社会的秩序はがたがたになる。(中略)そういうデリケートなさじ加減の調整は、身体を持った個人にしかできない。法律や規則によって永続的に『正義と慈愛のバランスを取る』ことはできない。(p.182)
第四部「武道家としての坂本龍馬」
本書のハイライト。司馬遼太郎の描く剣豪はなぜ修行せずいきなり天才なのか?という、「そんなこと内田樹以外の誰も思いつかないし論じなかった」ことが書かれている。しかも、アクロバットに、自分の修行論(不条理に思えてもやることに意味がある)と司馬遼太郎の修行論(不条理なことを憎む)と作品世界(剣豪だった坂本龍馬が、剣で志半ばに死ぬ)の三つを肯定している。感服。
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修業とは何か
ということは、日本的なもので、なんとなく
その 本のネーミングで とびついた。
身体と言葉の一体性というものが説かれているのかと思ったが
全然違った。
鍛える という言葉には 数値的な物差しがあるが
修業には それがないということが、繰り返し語られて
何となく納得した。いかにも日本的だと思った。
天下無敵とは何か
という考察が 気に入った。
結局は 敵ではなく 私なのだ。
この修業論をよみながら、
池波正太郎の 剣客商売の 秋山小兵衛 をおもいだした。
加齢にも関わらず、歳をとっていくにもかかわらず、
小兵衛は 昔とった杵柄で 活躍する。
そして 息子も 徐々に成長していく。
あぁ。成長とは そういうことなのだ。
瞑想論 宗教の信仰心は おもしろいが
ちょっと、よくわからない感じだった。
司馬遼太郎の坂本龍馬についての指摘は
なるほど。という 鋭い指摘で、
なぜ 修業ということを 無視したのかを
司馬遼太郎の軍隊生活の 理不尽に対する怒りが背景にある
というのは、実に卓越した見方である。
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-424b.html
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修業の基本は、「黙って言われた通りにしなさい」というスタンスです。でも、「~しなさい」と言われると「それは何の役に立ちますか」と質問したくなります。
僕が子供の頃は「理由なんかない。やれ」という世界が、家族以外にも学校や地域との関係の中に残っていました。
ある意味、修業だったのかも。
内田氏の教育論の根底にあるものを見ることができたように感じられました。
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武田鉄矢氏のラジオでの紹介で知り読み始めました。
当たり前に日常を生きていたら絶対にぶつからない世界。「何かが違う」違和感を持ち続けている人達へのメッセージ。勝ち負けで一喜一憂する事よりも深いことでしょう。名人伝の別のバージョン、あるいは解説書ともとれます。
キマイラの頁では大相撲をの取組を想像しました。相対して勝ち負けを競っているのではない。行司、審判、観客も含めての一つの'大相撲'になるのだと。立会いから決まり手までの流れが石火の機、啐啄の機であるのでしょう。それはアマチュアの自分有利に立とうとする立会いの相撲とは質を異にする。かつての落語家が落研出身者を弟子にとりたがらなかったのも分かります。
著者も書かれているように'するめ'のように何度も噛みごたえのある良書だと感じました。
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武道家としての内田論で私には難しかった。
ただし、中島敦の『名人伝』の「無射の射」の解説と司馬遼太郎の書く剣豪たちへの考察はおもしろかった。
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内田樹さんが「修業」について書いた本。
修行ではなく、修業としているところが、本気っぽい。
本書にも共感する部分は多かったけど、自分も含めて、武道にまったく疎いひとにとっては、内田さんの他の作品に比べて少しわかりづらかったように思う。
修業とは、将来こうなるため、にあるものではない。いつの間にか、知らない場所に出ていることである。
弱さを敵とみなさない。弱さと共存する方法を追及するのが武道である。
これらの部分に共感しました。合気道をやってみたくなる本。
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なぜ僕が内田先生の話に耳を傾けるかというと、
それは先生の思想が「身体性」に裏付けられているから。
その「身体性」の元になっているのが、「身体的な」哲学者レヴィナスの思想と合気道なわけで。
修行について書かれた本書を読むことで、その思想のエッセンスに触れることができました。
今回も思考の額縁が少しずれるという、心地よい世界観の変化を体験しました。
「いくらやっても上達しないというのは、ある意味で得難い経験である」という先生の言葉は、
いくらやってもゴルフが上達しない僕にはとても嬉しい言葉でした。
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内田樹という作家は最近粗悪品濫造のきらいがあったが、本書は4章を除けばかなりまっとうな書である。
敵=万全の自分を阻害するもの、キマイラとしての同機、「いま・ここ・私」を離れるための瞑想など面白いと思わせる部分がある。
一見意味がないと思われるルーティンの反復から何を得るかという視点は今さらながら再認識されていいだろう。
ただ、相変わらず歴史を語り出すと、てんでダメ。論述の方法がなってない。
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今考えていることとシンクロして非常にレベルアップできる本、非常に言葉使いも庶民派でわかりやすい。
千里眼、空中浮遊とか、オカルティズムではなく、人間の潜在的能力の可能性という視点で共感できた
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内田先生の修業論。方々に書いた原稿をまとめて収録。
広い意味での修業というより、合気道の修業からの知見を書いていて、しかしやっぱり、広い意味につながってくるか。
印象に残ったのは「道場は楽屋だ」という言葉。合気道が試合を主にする武道でない以上、本番は、実生活だという。武道修業で培うものを役立てるのは、実際の生活・仕事という場所で。
また、修業というのは目標に向かっていくうちに新しい景色が開け、はじめの目標や目論みからどんどん逸脱していくものだ、という言葉もよかった。
合理や効率でない修業、
また読み返したい。
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特に、第1章「修業とはなにか」、第2章「無敵とはなにか」。もっと若い時この文章に接していれば、自分も今とは違った生き方ができたのかもしれない。稽古への考え方も、改めなくてはならないと思った。
さらに、Ⅲ「現代における信仰と修業」。「自分の生身が届く範囲に正義や公正の実現を限定」することの大切さ。肝に銘じたい。
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修行論は、内田樹さんの本で過去に実本で購入したんだけど処分してしまっていた。久しぶりにタイトル見て懐かしいな、と思いダウンロードして読み直したけど、相も変わらずの内田節満載で非常に面白かった。4つの文章を1つの本にまとめているので、ご本人曰く「幕の内弁当」の様な本とは書いてあるけど、どの文章も修行というのは何なのか、という本質に切り込んでおり、多面的な視点で修行についてわかるので非常に面白い本でした。また、忘れた頃に読み返したい。ただ、内田さんの語りは結構繰り返しが多いので、内田さんの類書を読んでいる人は、割と重複する内容も多いのでその点のみ要注意ですね。
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読むと色んなことに意欲がわいてきます。
過度に目的に捉われることなく、これからも自らの好奇心に従って広く伸び伸びと学んでいきたい。