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入試の現代文で頻出の内田先生の文章。本書も引っ張りだこなこと間違いなしと思いながら読み進めました。それほどに読みやすくわかりやすくまっとうな文章です。
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武道をやっていなくても,スポーツにしろ何にしろ高みを目指すために大切ことが書いてあり勉強になりました.
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「修行」じゃなく「修業」。
『稽古は、競ったり、争ったり、恐れたり、悲しんだりすることを免れて、ただ自分の資質の開発という一事に集中することが許された、特権的な時間である。道場はそれを提供するための場である。』(P115)
『「いるべき時に、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ことができる能力。それが武道修行が開発すべき能力である。』(P212)
またいつか。
20140818
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いま認識しているところの延長ではなく、別の次元にうつる感覚。
不射の射。
やっているときはわからないけれど、振り返ってみて気付くことに近いのかな?
C0230
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内田樹さんが修行・修練について哲学を述べています。
自分は哲学のコトはよく分かりませんが、文章からは修行への心構えのような、また気休めのような印象を受けます。
読みやすいのですが、分かりやすいか?と問われれば返答に困る一冊です。
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内田先生の本にしては何となく入ってきにくいなぁ(すみません!)と思いながら読みましたが、考えてみればそれもそうか、と思いました。
この本で繰り返し語られていることは、今見聞きしている世界(や自分という存在)は唯一無二のものではない。その枠組みを取り外すことこそが修業だ、ということでした。
当たり前と感じるものが当たり前じゃないと言われているわけですから、入ってきにくいわけです。
そのことを体得するにはそれこそ長い年月をかけた修業が必要なわけで、一読しただけで実感できないのは当たり前かもしれません。
あとがきにもあるように『噛めば噛むほど味の出るするめみたいな書物』とすべきなのかなぁと思いました。
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いつもながら教育論に通ずる気づきが非常に多い。
龍馬の修行について、そこにフォーカスしない司馬遼太郎の考え方ではなく、そこ自体に興味がわいたので深堀って欲しかった。
〈問い〉
①合気道って?
②鍛えるとは何か?
〈敵とはパフォーマンスを低下させるもの全て。無敵は、それが敵だと思う自分を消すこと〉
①
合気道の世界には「これでもうよい」という終着点はなく、常に上がある。だから、常住坐臥、日々の生き方そのものを稽古にしていく。
②
・師匠が弟子を殴って何かをさせると、「殴られたくないからやる」という弟子側の合理性基準に合わせていることになる。そうすると、弟子は自分の合理性判断の客観性を過大評価になる。だからあまり採用しない方が良い。言葉で殴るのも同様だろう。
・批判によって強化される「減点法」のマインドセットそのものが「負の力」をはらむ。減点法は、作り出すものより、損なうものの方が多い。減点するには、満点の状態を知っていないとできない。しかし、満点の状態を知っているという事実が、単一の度量衡に居着いていることになる。それ自体が致命的。
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道場は楽屋であり、道場の外が舞台
武道の目的は強くなることより、弱さを小さくすること
日々の生活が稽古になる生き方
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今の時代、何かを求めれば、すぐに得られるようになってきた。人々は、見返りを期待して行動しがち。
長時間ふんばることは、どういうことか。それを考えたくて読んだ本。
時代の流れが速いからこそ、今、もらえない見返りは
将来的な価値がなくなるのか。
そうではない、普遍的な学びもあるはず。
生き延びる能力=これを鍛えるのはどの時代も同じ
集団をひとつにまとめること。
敵とは、わたしの心身のパフォーマンスを低下させる要素。これを物体的な敵に限定しないひとのほうが、生き延びる確率が、あがる。
何かの因果論があって、心身パフォーマンスが低下する。
修行とは、現在していることの連関が、開示されていない。
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内田樹著「修行論」
「修行」について書かれた内容ですが、武道のような身体的なことだけでなく、内田先生らしい思想的な面も多く書かれています。
●努力と成果の相関
「努力と成果の相関」を信じて修行すると、人間の身体をシンプルなメカニズムとしてとらえてしまう。
そして「強化」ということを優先的に考えると、どうしても努力と成果の相関を数値的に現認したいという欲望に取り憑かれてしまう。
その例が「ダイエット」である。
「私は私の身体を支配している」という全能感は、きわめて強烈である。
●他者の成長を阻害する理由
相手の成長を阻害したくなる理由として、勝負において「私が強い」ということと「相手が弱い」ということは、実践的には同義であることがあげられる。
そして「私を強める」努力よりも「相手を弱める」ための努力の方が、効果的なのである。
なぜなら「ものを創る」のは難しいし、手間暇がかかるが、「ものを壊す」のは容易であり、かつ一瞬の仕事である。
だから相対的な優劣、強弱、勝敗に固執すると、人は無意識のうちに、同じ道を進む修行者たちの成長を阻害するようになる。
●「生きる力」を中心に
生命活動の中心にあるのは自我ではなく、「生きる力」である。
自我も実存も直観もテオリアも超越的主観性も、生命活動の中心に座することはできない。
内田先生の文章は痛快ながらも、日々感じる「モヤッ」とした現象を、明確で分かりやすい言葉で表現してくれるなあと思います。
時々自分に刺さる痛い言葉もあるのですが、それで目から鱗がボロっと落ちることも多く、これからも読み続けたい作家さんです。
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入力と出力の関係というのは、そんな単純なものではなくて、それをしっているのは「悦べる心」なのだと思う。勝手に入力を決めつけて、こうじゃなきゃいい作品が、、、とか思わないこと。
作品作りのためではなく、ちゃんと生き抜くために、本当にコツコツと書道を「愉快に」日常のルーテインに組み込んでいきたい。じゃなきゃ意味がない。生計をそれでたてるためでも、良い作品を創らないとまずいから(ik=功利主義)
でもなくて、ちゃんと生きぬけるように、「書道」をやっていきたいなと思う。そしてそれはたぶん、人様に個展で作品を見てもらうことより、なによりも重要なことだと思う。
勝手に「ミライ」を決めて、その「ミライ」のために単線的にやるのはやめよう。苦行ばっかりになってしまう。今やりたいこと、きていることに、向き合うこと。
●以下引用
修業というのは、エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく、という力動的なプロセス
「トレーニング」➡同一線上をただ前に進み、その努力の成果が距離やタイムとして数値的に考量可能なかたちで示される
➡ここのところの自分は、こういう「トレーニング」的に、物事を見ている
はっと気がつくと、誰もいない場所を一人で走っている。もう同一のトラックを並走してゐる競争の相手はどこにもいない。修行というのは、そういうものです。
道場は楽屋であり、道場の外が舞台である
舞台で十分なパフォーマンスを果たし得ることをめざして、道場での稽古はなされなければならない。
➡作品の質を上げたい、とか、上達したということで、練習に取り組もうとしているのがそもそもの間違いだ。
★自分の不調を、何らかの原因の介在によって「あるべき、標準的な、理想的な私」から逸脱した状態として理解する構えそのものが敵を創り出す
「無敵」とは、「すでに敵を含んだかたちでこの世界に誕生したもの」として「私」を構想できるマインドセット
未来を予測しないもの、それが「無敵」の探究への第一歩を踏み出すときの手がかり
自分の意志で身体を改変しているという事実が数値的に表示されると、「私は私の身体を支配している」という全能感が強烈になる
稽古は常に愉快に実施する。相対的優劣を競わない
重い不可に耐えつつ練習していたとき、連中時における「身体的リミッター」はmいつまでもこんなことが続くわけではないという「時間的リミッター」によってトレードオフされていた
いつ、どんなかたちで、どんな方向から、どんな文脈のうちで、到来づるかわからない。だから稽古する
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修行とは何か、というところは今一つだった。面白い考え方はいくつかあったが。
修行の意味は、事後的・回顧的にしかわからない。
努力させる以上は、努力した後に手に入るものを、あらかじめ一覧的に開示しておいてほしい。そうすれば努力するインセンティブになるから、という人が多い。
修行の意味は事後的にわかる。そのため、修行がもたらす成果を、修行開始に先立ってあらかじめ開示することは不可能なのです。
敵とは新進のパフォーマンスを低下させるすべてのファクターのこと。ライバルも含まれるし、腹下しもインフルエンザウイルスも、加齢現象も、財務状態の悪化も、家庭争議も含まれる。
自分の意志で身体組成を現に改変しているという事実がはっきりと数値的に表示されるとき、それがもたらす「私は私の身体を支配している」という全能感はきわめて強烈なもののようである。
ものさしでは重さが図れず、はかりでは時間がはかれないのと同じことである。運動の質が変化するというのはそういうことである。
減点しても、それで術技が向上するということはない。「減点できる」ということは、「満点を知っている」ということが前提になるからである。
聖典のうち、自分が真実であると判定した箇所だけを信じ、自分が嘘だと思う貨車は読み飛ばす権利が自分にあると思っているものを、信仰を持つ人と呼ぶことは難しいと思う。
私を強めるための努力より、相手を弱めるための努力のほうが効果的。ものを創るというのは難しいし、手間はかからうが、ものを壊すのは容易であり、かつ一瞬の仕事だから。
額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす傾向がある。私たちはあらゆる世界認識に際して、額縁はどこかという問いを視点に置くことになる。
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またしても魅力的な作品。
内田樹さんは、ハマるとぐいぐい心にヒットする。説明できないと思っていたことが、文章になっている。わかりにくそうでとてもわかりやすい。この作者に出会ってよかった。
無傷の完璧な状態にある私を「標準的な私」と措定し、不具合が生じている自分を「的による否定的な干渉の結果」と説明していることが、そもそも敵をつくる。因果論的な思考が作り出す。
敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れた時にこそ人は最強になる。
自分の弱さの構造と機能について研究すること。
→辻信一さんの著書と通ず。
努力する方法を変える時、今までの評価軸が崩れるため、目標がわからなくなることから非常に抵抗をする。ただ、質は変化する
哲学者は「弱さ」は語らないが「無知」は語る
→変化することへの強い抑制
心身の能力を開花させるには、
何か新しいことが加わるごとに、それを受け容れ組み込めるように、全体の構造が基礎から組み替えられるような、総合的な柔軟性をもつこと。
キマイラ的
複数の構造体、運動体がひとつになっていること
。異質なものの合成。
カタストロフ
突然の大変動。大詰め。
自我
自分ひとりの五感や価値観に居着き、自分ひとりの存在を優先し、他者との協働身体の構成を拒む
漸近線
限りなく近づくが交わらないし、接しない
錬度
訓練を積み重ねれ得られる熟練の程度
共振
振動する物体が、外部の振動と同期して更に大きく振動すること
自分が知的に探求していること
身体が感覚的に探求していること、は
同じものにいきつく
修行のメカニズム
師匠と生活を共にしていると、呼吸があってくる。共感度が増す。
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http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334037543
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『下流志向』(講談社文庫)や『先生はえらい』(ちくまプリマ―新書)と同じテーマを扱った本ですが、それらの本が既存の知性への批判が中心だったのに対し、本書では既存の知性に代わる身体に根差した知性のありようを「修業」という言葉によって直接的に論じているような印象を受けます。
書き下ろしではなく、著者がこれまでに発表した4編の論考をまとめた本です。とくに「修業論―合気道私見」と題された最初の論考がもっとも著者の思想がまとまって提出されているように思います。
なるほどとうならされるところも多かったのですが、やはり「身体の知」を批判原理としてではなく、直接的なものとして語ることには危うさを感じてしまいます。「修業の意味は、事後的・回顧的にしかわからない」と著者は言いますが、そうだとすればなおのこと、それは従来の知のありように対する批判原理にとどまるべきものであるはずです。そうした知が直接的に提示されてしまえば、それはあらかじめ批判的検討を封じてしまう独断的なものに堕してしまうか、あるいはそうでなくとも、私たちには独断と区別する術が存在しないようなものと言わざるをえないのではないでしょうか。