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・これから大事なことは、それぞれの子どもに合った手づくりの教育を家庭でもどれだけできるかということ。中日ドラゴンズの落合博満元監督は「監督の務めは指導することでなく、選手を見ることだ。そしていい決断をすることだ」と言っている。親や教師が子どもにできることもそれと同じ。子どもを幸せにできる親は「私にできることは子どもが学ぶきっかけになるいい気付きを与えたり、能力を伸ばしていく環境を準備することだ」と考える。
・子育ても諦めが大事。どんなに頑張っても親の100%思い通りになるわけはないのだから半ば諦める感覚も大事。適当に諦め、「ちゃんと」育てようと思わないこと。「ちゃんと」ではなく、「だいたい」という振れ幅のある感覚で子どもに接していけばいい。
・親が力で押さえつけようとするのは、自分にどこか自信がないから。作為的に親が圧力をかけるのと、親の存在感が自然と子どもへの圧力となるのとではまったく違う。力を込めて相手をなんとかしようとしなくても、親というのは自然にしているだけで十分の力を子どもに感じさせるもの。
・放任主義でない放り方がいい。「好きにしろ」と放っておくのは単なる無責任。「放る」というのは、放っても子どもの目に見えない大きな囲みを周りにつくっておいてあげること。そうすると成長していろいろ悩んだり、辛い思いをしても「戻れる場所がある」という感覚を持つことができる。
・子育ては親ができることを教えようという方向でなされるものだが、反対に「できない」という教えによって効果的に伝えられることもたくさんある。親が自身のダメさを認められないのは、「できる・できない」にこだわりすぎているから。何かができるかは褒められたり、喜ばれたりしているうちは、大したことない。たとえできなくても、存在として格好がよければ、わさわざ背伸びする必要がない。
・誉めて育てる教育の落とし穴は誉められるためにやる動機が強い人間になると、結局何でも報酬を期待して動くという行動パターンになる。つまり、ものごとに対して純粋な気持ちで取り組むという姿勢が育たなくなる。誉める教育の落とし穴がそこにある。
・楽しみの中に我慢をおく感覚を教える。「我慢すればご褒美があるよ」は我慢すればよりいいものが手に入るといった取り引き関係に子どもを引き入れることでもある。しかしご褒美が我慢に見合わないと思えば子どもは決してこの契約には乗ってこなくなる。報酬が得られるからという形で覚える我慢は子どもの人間形成をはかっていく上でどこかいびつな影響を与えることになる。我慢は苦しいものだと思われているが、私にとっては我慢も楽しいことのひとつ。我慢と喜びは私の中で分離できないもの。我慢と楽しみを分けず、我慢も遊びや楽しみの中に生まれてくる自然なものという感覚を子どもには教えていくといい。
・子どもの「なぜ?」に正しい答えはいらない。子どもは質問をしながら、自分たちが生きている世界がどういうところなのか、大人の返す「答え」によって感覚的に触れたいという思いが根底にある。子どもの中に好奇心が湧き、わくわくした気持���になるような「答え方」がなされればそれで十分。それはさらに新しい問いを子どもの中で育てるきっかけにもなりえる、そんな連続性こそが大事。
・親が「できる」ことより「できない」ことのほうが、子どもに重要な何かを伝えることがある。手本を見せるにはちゃんとできなければいけないと考えがちだが、決してそんな必要はない。本気でできない姿を見せることも十分、子どもにとっては「学び」と「気付き」につながると思う。
・世のたいがいの教育は足し算の発想でなされているが、私の教育観はむしろ引き算を重ねていくことで大事なものに気づいたり、学んでいくということを基本にしている。