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――――森に産まれ、森を食べ、森に食べられる
以前NHKで放送されたドキュメンタリーを今でもよく覚えている。
わたしにはとても衝撃的なもので、正直鑑賞後どのように理解すればいいのか戸惑った。
「ヤノマミ」はブラジルとベネズエラにちょうどまたがる地域に住んでいるそう。食料はほぼ狩猟と採集で調達しており、古くからの生活を今も続けているひとたちだ。ヤノマミとしてひとつのグループとなっているのではなく、小さな集団が100以上もあり内紛状態にあるらしい。
この作品はそのヤノマミのひとつの集団に180日ほど断続的に滞在したドキュメンタリーだ。できるだけ個人的な感情を挟まず、淡々と出来事が書かれている。
この冒頭に書いた「森に産まれ、森を食べ、森に食べられる」というのはNHKのなかで出てきた言葉で、彼らの人生を現している。特に「森に食べられる」というのは穏やかではない。これは出産したときに母親に突きつけられる選択に関わる。出産したとき、へその緒がまだ付いた赤子はまだ人間ではない。母親はこのへその緒の処理をして「人間」にするか、それとも「精霊」として森に返すかを決断しなければならない。母親にしか決定権はない。食料のこと、家族のこと、いろんなことを考えてそれを決める。もし決めたらだれもその意志を覆すことができない。…そしてもし、「精霊」に返すとなったら、彼女はそっと、まだ人間になっていない子供をバナナの葉で包み、シロアリの巣に置く。シロアリが食べつくしたころ、そのシロアリの巣を焼くのだ。衝撃。わたしにはその風習自体を理解できない。でも理解できないといって、否定もできない。ドキュメンタリーで観たとき、悲しくはないのか、と疑問だった。この本のなかにもある。ある日子供を精霊に返した女が(男勝りでめったに泣かないような女性だったのに)泣いていたという。シロアリの巣を焼くときも、涙をこぼしていた。悲しくないわけがないよね…。
感情としては納得できないのだけど、文化というものはそういうものなのだなあと別の意味では納得した。外から見ていくらそれが許せなくても、そのひとたちにとってみればそんなのは「押し付け」だろう。未開の地や野蛮…などという言葉はどうしても陳腐だ。いくら切なくても、納得できなくても、「それが文化だ」という理解はできる。かつて幕末の昔、野蛮だと日本人も思われていた、というのを考えると「野蛮」という言葉は使いたくない。そういう人たちがいる、とそれだけでいい。
ちょっと、正直、本当にショックだったのはもう仕様がない。
ただこの本を読んでいると、圧倒的な生命力にびっくりする。美しいとさえ思う。力強いひとたち。
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ここ数年、小説・ノンフィクション・ドラマ・漫画・アニメに関わらず、自分の価値観(善悪とか幸せの形とか)を揺さぶられる作品を観ることが楽しいと感じるのだけれど、この本もその一つ。
■内容
数年前NHKスペシャルで放送された、ブラジルとベネズエラ国境のジャングル奥地に住む原始的な生活を保ち続けている、ヤノマミという民族を密着取材したTVドキュメンタリーを書籍化したもの。
出産後に母親が産んだ子供を森に返すという風習や、文明が徐々に伝わって部族の文化が消えつつある状況を通し、何が正しくて何が間違っているとかの答えが無い問題は世の中にいっぱいあるんだということを教えてくれる。この本によると、「人間が解決できない問題を提示することこそドキュメンタリー」とのこと。
■感想1:出産の風習について
本の前半は、狩りや畑で自給自足する小さな村の部族の生活の描写で、浮気が奥さんに見つかって追い出される夫とか、駆け落ちに失敗した少女とか、都会にあこがれる若者とか、文化が違っても、人間の本質的なところは僕らの社会と変わらないんだなあと感じさせられる、ほのぼのとした内容。
でも中盤以降、我々との絶対的な価値観の違いを思い知らされて衝撃を受ける。それは、彼らが常に死と隣り合わせに生きていることから来る「死生観」の違い。
そして、特にTV放映時も問題作として議論の対象となったのが、出産後の風習。彼らの風習では、生まれたばかりの子供はまだ人間ではなく精霊であり、母親が出産後の数時間で、人間として育てるか、精霊として森に返すかを決断する。ここで言う「森に返す」とは、具体的には白アリの巣に赤ん坊を生きたまま入れて白アリに食わせて、最後は巣ごと燃やすという儀式のこと。外の世界では残酷な殺人である。しかし、彼らは何千年もその風習で、生まれすぎた子供を減らす人口調整をしてきたのだ。はっきりとそれが目的だとは誰も言わないけど。
著者ら(TVディレクター)は、その光景を目の当たりにしてショックを受ける。そこでは、外の世界の常識が全く通用しない価値観が存在し、著者たちこそが非常識で異質な存在だったのだ。
僕がこれを読んで感じたのは、21世紀の現代でも世界の中にはこれだけ価値観の異なる民族がいて、そちらの世界に行くと善悪の判断が逆転するということを知ることで、自分の今持っている価値観も本当は現代日本の狭い世界でしか通用しないことなんじゃないか、という視点を持つことが出来るのではないかということ。そうすると、これまで培ってきた自分の価値観を変えることは出来ないにしても、異なる価値観を持つ人たちに対する許容範囲を広くすることができるのではないかと思う。
■感想2:文明について
ヤノマミたち部族の住む地域は、ブラジル政府に先住民保護区に指定されている。彼らに接触できる文明人は、医療団などの限られた者たちだけだが、文明は徐々に伝わりつつあるらしい。最初は言語・薬・ナイフ・下着などから、そして最近ではお金・サッカーボール・ラジカセ・DVDプレイヤーなども手に入れている。文明を一度知ってしまったら、好奇心や欲望を止める���とはできないのだ。特に若者たちにとっては。
政府の使節団が、先住民保護区を存続させるかどうか調査しに来た時、文明の臭いのする物や、著者ら取材班をあわてて隠そうとしたというエピソードには、笑ってしまうような物悲しいような、複雑な感情を持ってしまう。
あと数十年以内には、彼らも文明に取り込まれ、今の文化風習も消えていかざるを得ないのだろう。そしてそれは、誰にも止められないし、止める権利など誰にも無いことなのだと思う。
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ブラジル森林地帯の先住民、ヤノマミ。彼らと暮らした150日間。これは心の内奥を抉ってくる良書であり怪書です。2009年にテレビで放送された番組の文庫化とのこと。ノンフィクション、ドキュメンタリー系の本は普段読まないゆえに面食らった感もあります。終わらない思索と焦燥感。
私たちが当然であるとして疑わないもの、常識と呼ばれているものが、常識ではないということを追体験せざるを得ません。科学や経済、法規や倫理、統治や民権といった観念は人工物に他ならないのだと気づかされます。そんなものはなかった。死生観も違う。ものさしも違う。むき出しの生と死があり、善悪という尺度もまた括弧に入れられる。生き物がいて、精霊がいる。
一万年前からほぼ変わらぬ狩猟採集生活を営む彼らと、ほんの数十年前まで「殺し合い」をしていた私たち日本人。文明人とは過度に着飾った非文明人を意味するのでしょう。
特に、新生児を人間にするか「天に返す」かの大決断をその都度迫られているヤノマミの女性の風習は筆舌に尽くし難いものがあった。私たちの度量衡に当てはまらない知がそこにはあるように感じられます。
http://cheapeer.wordpress.com/2013/11/14/131114/
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テレビ放送を見たときに衝撃を受け、書店で平積みになっているのを見ていたので、なぜあの時買わなかったのかと非常に後悔しています。それほど、この本の内容は強烈に心の中に残ります。
この本のハイライトであり、テレビ放送でも最も時間がさかれていた、赤子を人間として育てるか、精霊として天に返すかという取捨選択の描写は私たちが住む文明社会の価値・概念を問いただす象徴的なシーンだと思います。所詮、文明社会における、価値観や概念は人工的に作られたものであり、その人工物の上にあぐらをかいて座っているだけなのではないか。むき出しの原始社会の中で、筆者がもがき苦しみ、何かをつかもうとする姿は胸を打たれます。
異文化理解という言葉では簡単に片付けられないほどに、僕たちとヤノマミには断絶がある。突き詰めていくに、人間とは何なんだろうと本を読みながら考えてしまいました。150日間、ヤノマミ族と共に暮らした筆者が"文明化された”社会に適応するのに時間がかかったというのもうなずけました。あんな壮絶な体験をして、自分の価値判断の基準が揺らいでしまうのは当然のことでしょう。
最初にテレビ放送がされたのが2009年のことですから、ヤノマミ族の生活も大きく変わっていると思います。もしかしたら、裸族の彼らがTシャツを来て村を闊歩していたり、携帯を使って街の親族たちと連絡を取り合っているかもしれません。文明との接触は避けられない時代です。本の中にもありますが、文明の便利さを一度知ってしまえば、二度と元に戻すことはできない。もしかしたら現存する部族の中で、唯一まだ文明を知らない彼らのありのままを記録した本書は、我々文明社会に生きる人間の存在を見つめ直す上で非常に貴重な記録だと思います。20年後ぐらいにまた読み直したいです。
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アマゾン奥地の未開拓部落でヤノマミ族と150日間生活をした記録。希少な原始の暮らしであるが、おそらく数年以内に彼らも服を着、携帯を使うのであろう。
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自分らの生には余計なものが多すぎる、ということを教えてくれる。とはいうものの、俺などは「この世界」で「この生き方」でしか、もはや生きてはいけないわけだ。
実際に見たことも経験したこともないのに、本書に出てくるヤノマミたちの暮らしはなんてなつかしのだろう。
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ブラジル・アマゾンの奥地で暮らす原住民・ヤノマミとの暮らしを記録した本。
断続的に150日間、生活をともにして見てきたヤノマミの姿。
出産にまつわる考え方や行動は、かなり衝撃的。
我々が言うところの「嬰児殺し」が多く起こるのだが、どういった考えで、なぜそうするのかはわからない。
生かす子と生かさない子をどうやって決めているのか(出産した母親自身が決める)、それはヤノマミの女にしかわからない。
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毎日を仕事に追われ、視野が狭くなっていた私にとっては衝撃的な内容であった。
現代においてもなお狩猟で生計を立てる人々。そして彼らは私に、自分が正しいと思ってきたことが世界中のどこでも通用することではなく、あくまでも私の住む社会が決めたものであるという事実を思い知らせ、私の価値観を揺さぶってくる。日常的に生と死に向き合う彼らは、同じ今を生きているのにとても薄っぺらい私に、圧倒的な濃さをもって、迫ってきた。
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出来合のドキュメンタリー番組のような通り一遍の相互理解も共感も別れの涙もない、淡々として絶対的な他者としての距離感で綴られているがゆえのリアリティに圧倒される。原初の暮らしを守りながらも、しかしひとたび近代文明と接触してしまった以上はそれが失われてゆくのは避けられないし、それを押しとどめる権利も誰にもない。我々にできることはただ、こうして記録することだけなのだろう。やがて滅びていくと分かったとしても。
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この時代に、こんな生活をしている人たちがいるとは、と思わされると同時に、著者たちはよくこのインディオたちと一緒に生活していたなぁと感心する。最後の方でも述べられているが、そんな彼らも都市の人間との交わりによって、それまでの伝統的な生活が変わっていくのだろう。それがいいことなのか悪いことなのか…
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そこにある世界は想像もできなくて、
理解できないこともあるけど
大切だということはわかる。
自分たちが信じていることがすべてではなくて、
善悪の基準も一つではない。
世界の隅々まで宗教という暴力が浸食しているという事実から
目を背けてはいけない。
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広大な森の奥深く、原始的な生活を送る民族「ヤノマミ」。
よく笑い、よく怒る。彼らは無邪気で純真で、ときにひどく残酷。だがそれが間違っているわけではない。ヤノマミにとってはあたりまえのこと。生とはなにか、死とはなにか、深く考えさせられた。
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"忘れることは、なぜかくもたやすいのか。どうすれば忘れることに抗えるのか。" という最後の言葉をとても考えてしまった。
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生まれた時赤ん坊は人ではなく精霊。5歳になるまで名づけはしない。
アハフー、アハフーと笑う。
昔の話ではなく、たった今同じ人間としてヤノマミが生きていることに畏怖を感じる。
最後の俵万智の解説にあった、「現象だけを追えば、そして映像で見てしまえば、今の自分たち(=文明)とは対極にあるようにも見えるヤノマミ。だが、私たちはヤノマミと地続きなのだ。私たちの中にもヤノマミがいなくては、おかしい。文明をそぎ落としたときに、そこからヤノマミが現れなければ、しょせん私たちはがらんどうなのだ、と思う。」
という言葉が印象的。
世の中わからないことが多い。ヤノマミは、筆者が来ているときに起きた災いはナプのせいだと考えた。ナプがいないときは、シャーマンが登場して厄払いをする。
わからないことを、この文明化された私たちがこうだと決めつけることは極めて難しく、わからないことを、頭に入れ続けて考えていくことが大事なのだと思う。
「忘れることは、なぜかくもたやすいのか。どうすれば忘れることに抗えるのか。〈事件〉以降、そんなことばかり考えている。」
この言葉を読んで、ヤノマミに取材に行ったのがこの筆者だからよかったのだと思った。
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人間の本質 憧れる
しかし、それは厳しい現実と併せてもたらされる。安穏とした現実で満足するしかないか