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動的平衡の著者とさまざまなジャンルのプロとの対談。エントロピー、システム思考の文脈で生命の連続性に興味を持って読んだ。
メモが多いからきっと面白かったんだろう笑
最近、厳密にMECEに分けることよりもむしろ、ストーリーとしてのつながりや自分の信念に沿っているかを大切にしたいとおもっている理由を言語化してくれるような本だった。
構成要素ではなく、要素のありようで語る
生命体はたまたまそこに密度が高まっている分子の緩い淀みでしかない
生命とは代謝の持続的変化
Howへの問いに答えることがwhyに答える鍵になる
私達は記憶の一貫性に世って自らの連続性を支えている
場面に応じた人格の集合体が個人
二十面体をだしわけるというより、動的に変化するイメージ。だから本当のじぶん探しは非現実
エンターテイメントは文化的パターンにのっとって、純文学は新しい価値を提示するもの
世界の全てがアルゴリズム的に解釈できるという考え方は見直すべき
世界は分けてもわからない
虹だって人の生死だって、人間が線引きを決めただけ
世の中はかわっているとかんがえても、そう思うじぶんも常に変化しているということはなかなか受け入れられない
守るべきものがあり、集団行動を大事にするほど体罰が重要視されるのでは
他人に迷惑をかけない、は日本的子育て
なぜ閉経が起こるのかというと、高齢出産のリスクを避けてその時間で次の世代の面倒を見ること
過去から現代の進化の歴史は合目的に見えてその都度行ける方向に行っただけ
真っ白な紙なんて、どこにもない
予算という考え方が時代に合わないのかもしれない
芸術とは自己表現ではなく世界表現である
人間は世界の美を視覚に頼りすぎなんじゃないか
科学的に正しいか、なすべきか、美しいかという3段階の判断軸があるのでは?
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福岡さんの対談集。ジャレットダイアモンドとの対話が特に興味深かった。孫の養育を補助する存在としての高齢者(祖父母)の重要さや、ニューギニア人の交渉術などが特に興味を引いた。
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人間の体は、分子レベルでは絶え間なく入れ替わっている動的平衡にある、と説く著者が、各界の8人の見識者とそれぞれの視点から動的平衡を論じる。対談の相手は、ノーベル文学賞受賞者のカズオ・イシグロ氏、個人から分人(相手によって自分が変わる)という概念を提起した作家の平野啓一郎氏、インフレーション宇宙論を提唱した物理学者の佐藤勝彦氏、芥川賞受賞者で僧侶の玄侑宗久氏、ベストセラー'銃・病原菌・鉄'の著者で生物学者のジャレド・ダイアモンド氏、建築家の隈研吾氏、ケルト文化に造詣の深い美術文明史家の鶴岡真弓氏、画家の千住博氏。細胞レベルでの動的平衡の仕組みのアナロジーとして、それぞれの専門分野で取り組んでいる内容が語られる。型にはまらない意見の投げ合いを通して、類似点が見出される。ダイナミズムそのものに着目する視座の移動が問われる。人間の体の中身が入れ替わりながらも、記憶が保存され、意識が影響を受けない謎が残る。
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世界を静的に切り分けて命名することで理解するのではなく、常に動き続けるあり方として認識しようという話。生物学の世界に限らず、物理学・宗教・美術・建築など様々な分野にもこの問題意識があり、概念に言葉を与えようと模索が続けられていたことがわかる本だった。
もし動的平衡的な認識を人々ができるようになれば、「マスタープランがないと予算がつかない」みたいな硬直した習慣も無くなるのかもしれない。
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国語の授業は得意ではなかった。だが、今でも覚えている一節がある。
− 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。−
ご存知、鴨長明『方丈記』の冒頭である。「常は無い=変わらないものなどない」という、仏教の「無常観」がひしひしと伝わる、「古典日本三大随筆」のひとつである。
しかし、新しい一節を覚えた。この一節を目にした時、学生時代、退屈だった国語の授業で覚えた『方丈記』がフラッシュバックすると共に、新しい智慧を得た喜びでいっぱいになった。
「動的平衡」それである。
生命体は「わざと緩く作って、部分的に壊しながら作り替えていく」という戦略で、38億年もの長きにわたって秩序を維持し続けてきた。動きを止めず、小さな新陳代謝を重ねながらバランスを保つ。これを福岡伸一は「動的平衡」と呼んでいる。
つまり、生命は「変わらない為に変わり続けている」のである。
それは、鴨長明が『方丈記』で仏教の「無常」を表現したように、福岡伸一が本書で述べている生命もまた「無常」であったのだ。
コロナ禍で、人間関係が疎遠になっている昨今。久しぶりに知人と出会った時、「あなたは変わらないね」と言葉を交わすかも知れない。
しかし、本当は、自分も相手も既に変わってしまっている。
なぜなら、「常は無い」のだから。