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個性的な語釈で知られている「新明解国語辞典」と、新しい語句を積極的に取り入れることに定評のある「三省堂国語辞典」。これらはかつて、「明解国語辞典」という1つの国語辞典から分かれてできたものである。
これらの著者でともに国語辞典編纂の大家として名高い見坊豪紀氏と山田忠雄氏は、なぜ袂を分かったのか。辞書作りにもともと関心が高いこともあり、非常に楽しめた。
言葉というものを扱うことに誰よりも長けているはずの2人が、ちょっとした言葉の行き違いから離れていってしまう。そしてそのことが、皮肉にも2つのまったく違った国語辞典を誕生させることとなる……。
辞書作りの絶え間なく果てしない苦労を垣間見つつ、非常に良質のドキュメンタリーを読ませてもらった。
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個性的な語釈の『新明解』。わたしもよくあちこちめくって楽しむけれど、その語義のなかに秘められた個人史。その新明解と同じ三省堂から出版されている『三省堂国語辞典』は、一見、客観的で簡明な語釈を旨としながらも、やはり編纂者の思いが諸処に込められている。そのドラマチックなこと。
それにしてもケンボー先生のワードハンティングのすさまじさよ。そして、それだけ幅広くありとあらゆる言葉に触れながらも――いや、それだけ幅広く触れるからこそ、「これが正しい日本語だ」などと断じることのけっしてない謙虚さよ。きっとケンボー先生だったら例の号泣会見(2014.7.2)の「泣き乱す」なんていう語も喜々としてカードに記録するんだろうな。
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一気読み。「新明解」を愛用していた身としては夢中になって読みました。リアル「舟を編む」。それにしても文例(一月九日の時点では)にこんな背景が有ったとは驚きです。
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舟を編むを読んだ関係で。新明解の山田先生。三国のケンボー先生。辞書に対する姿勢と思い、2人の関係性。辞書ってこんなにメッセージがあるものだなんて…と思わされた。
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どの辞書も同じ言葉が書いてあって、堂々めぐりや他の辞書の引用・盗用は当たり前だと思っていた。しかし、ことばは変化し、辞書も時代とともにかわっていくもので、どの辞書を選んでも同じではない。正しい日本語というものも存在しない。
きちんと用例採取を行い責任をもって語釈をつけることにより、それぞれの辞書の特色「個性」が出る。ある意味、個性を持つとうことは編集方針がしっかりとしているということで、もっとも大事な点かもしれない。個性があるのが本来は当然なはず。(どの辞書をひいても内容が同じという状況があるとしたら、そうした状況の方が問題だ。)「新明解」は山田先生の個性が極端に反映されすぎているかもしれないが、それでよいという潔さがあった。
一方で、そもそも語釈の客観性が強く、用例採取を広くきちんと行っている「三国」はとてもよい辞書であるといえる。
ともかく、辞書の性格を知りながら、色々な辞書を使うべし。これら2つ以外の辞書として、やはり「日国」もまた信頼すべき辞書である。
この本に書いているような内容は、辞書の編集方針や誰が編集したかという内容に踏み込んでおり、本来は、オーサーシップやまえがきなどに書かれるべき内容も含んでいるのでは?とも思ったりする。
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凄まじい実話。でも、辞書の作り方が垣間見れて、良かった。舟を編むを知らなかったら、読まなかったと思う。
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見坊豪紀(けんぼうひでとし)先生『三省堂国語辞典』
山田忠雄(やまだただお)先生『新明解国語辞典』
かつては同じ辞書編纂を手がけた二人が袂を分かつことになってしまった経緯。
お二人とも自分が手がけた辞書を通じて会話しているみたい。
見坊先生の言葉に対する強さとしなやかさに惹かれた。
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【辞書は小説よりも奇なり】一冊の辞書をともに作っていた二人の男はやがて決別し、二冊の国民的辞書を作った。ことばに人生を捧げた見坊豪紀と山田忠雄の物語。
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かつて協力し戦後のベストセラーとなる一冊の辞書を世に送り出した盟友の2人、見坊豪紀と山田忠雄が「ある時点」で袂を分かち、それぞれの信念に基づいた辞書を生み出していく。それが今も版を重ね改訂を重ね生続けている「三国=(三省堂国語辞典)」と「新明解=(新明解国語辞典)」だ。
晩年に至るまで決別したと見られた2人が、それぞれの辞書の中で改訂を重ねる度、心情を吐露するかのような用例を掲載していた。辞書に隠された一編の語釈を元に、もつれた人間関係の糸が解れるように丹念に追いかけていく経緯は極上のミステリーもかくや。
無味乾燥だと思っていた辞書がこんなにも豊かな個性を持ったものだったのかとページを繰るのももどかしく、「ことば」に魅せられてしまった。
ケンボー先生は言う。
『ことばは、音もなく変わる』
山田先生は言う。
『ことばは、不自由な伝達手段である』
バベルの塔以来、ことばは人間の賢しさと愚かさを表してきた。辞書編纂者という「ことば」を自由に操るように思われる人々さえ、ことばに翻弄され、伝えられないまま苦しむ姿を我々はまた垣間見るのだ。
”ことばの砂漠”に飲み込まれ、辞書に取り込まれた2人の人生に耽溺する。
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一時期揉めても、お互いが敬意を抱いていれば、自然に許せるといういい例。両雄並び立たずというか、二人が別れたのは必然だったのではないかと思う。
それにしても、昔は優秀な人が文学を志したものだが、今だったら見坊先生は明らかに理系を選んだろうし、山田先生もわからないな。
そういう意味で今後の日本の理系は期待できるかもしれないが、文系(特に就職に不利な文学部)に優秀な人材が減って、成果を残せなくなるかもしれないと危惧するような気持ちになった。
この本のおかげで、二人の優秀な国語学者の業績や人柄が後世に伝えられて本当に良かったと思う。
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2014年9月28日に行われた、第19回ビブリオバトルinいこまで発表された本です。テーマは「友」。チャンプ本!
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NHKで放映されたノンフィクションの書籍版。残念ながらNHKの番組は見ていませんが、この本はすごく魅力的な本でした。歴史をひもとくというのはミステリーに通じるのではないかと感じましたし、その謎のヒントが実際の辞書の中にあるという視点でわくわくしながら読んでしまいました。「新明解」も持っていますし、「新解さんの謎」もかつて読んでいて、その時には辞書に架空の人格を持たせる茶目っ気ぶりかと思いましたが、まったく違っていました。これは「辞書はかがみである」と言う主張と「辞書は文明批判である」と言う主張の違いのケンボー先生と山田先生の「いきざま」なんだなあ。
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読みやすく、ぐいぐい引き込まれる。「○○の謎」でひっぱるのはいかにもテレビ的な手法で品はよくないが、それが一役買っているのは否めない。
ケンボー先生も山田先生も、一緒に仕事はしたくないタイプだなあ、と思いながら読む。そのくらいでないと一人で辞書を作るという仕事はできないのだろうけれど。
二人は人前で和解することはなかったから、「本当は許し合っていたのだ」と考えたい気持ちはわからないでもない。でもぼくは、和解しないままであったとしても別に構わないではないかと思う。みんながみんな仲良しばっかりだったら気持ち悪い。自分の世界をしっかり持っている人同士は、相容れないことがあるものだ。それを向こうに置いといて、とりあえず握手しとこうぜ、というのはむしろ相手に失礼なんじゃないかと思う。
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20141218読了
2014年2月出版。図書館で6月に予約し順番は半年後だった。●「三省堂国語辞典」の見坊豪紀(けんぼうひでとし)、「新明解国語辞典」の山田忠雄(やまだただお)、三省堂の辞書2冊ができるまでの話。三浦しをん「舟を編む」で辞書作りの世界を知り、この本を読んでみたくなったのだった。ことばが専門の業界で、ことばを発端に誤解がうまれた2人の関係性、「ことばは不自由な伝達手段である」事例そのもの。●辞書でよく見る「金田一京助」の名前。あれは名義貸しで、辞書作りの当事者は別にいると知った。●P240 平田篤胤「毀誉相半書」真の具体的評価は必ず毀誉相半するもの。ものにはプラスとマイナスの評価が相伴うもので、それが真の意味での具体的評価である。●「新明解」に関する本も読んでみたくなった。●1月9日 P188、P215
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国語辞典は言葉の意味を調べるために引くものだと思っていた。
この本を読んだ事で、これからは語釈を読むのが楽しみだ。
序文に編者の熱い思いが込められていたことや、それが二人の袂を分かつ大きな要因になった事にも驚いた。
言葉は相手に伝えてコミュニケーションをとるためのものと思っていたが、伝わらないようにする要素もあるとのこと、またこれまでは抵抗感があったが、言葉の変化について行けるようにしたい。
辞典を立ち読みし、編者がどんな気持ちで語釈を作ったのかを考えるのも楽しそうだ。