紙の本
子供を育てるとは
2015/11/16 07:15
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投稿者:ほし☆ - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分とは血のつながらない愛する人の子供をひきとって育てる話。詩人小池さんらしい詩的で散文的な文章に魅了されました。
紙の本
性を川の流れのごとく受け流す人生を描く
2016/02/21 22:41
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投稿者:山好きお坊さん - この投稿者のレビュー一覧を見る
小池昌代さんの作品の裏にはいつもほのかな性の匂いがを感じられる。本作もそんな「匂いか」が最後まで一貫して感じ取れる。ここが素敵なのである。詩人である故に選ばれた言葉が、心の奥底に鋭角に飛び込んできて、思わず目を閉じ、シーンを心に描くことしばしであった。 「人間って本当に臭いんだなあ。そう思うとき、ポーと音をたてて暗い胴体のなかを夜汽車が通る。」「わたしの欲望は限りなく憎しみに似ていた。憎しみでも性交できるのだろうか。性交という、なんて哀しい、そしてすばらしい、ばかばかしいこと。夢中になること、急激にさめること。」
性を何気なく拘泥することなく受け流すかのように人生の単純なる一コマとして淡々と描く、この味わいがこたえられない。
紙の本
文の美しい人の作品が好き
2022/07/02 22:30
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品は、第42回の泉鏡花文学賞を受賞している、昔、付き合っていた男からお金を添えて男の子を預けられる(もちろん、主人公の実子ではない)、というとんでもない展開からスタート、受賞している文学賞が文学賞だから、これからとんでもないことになってしまうのかと心配と期待が半々、でも、その後は平凡な母とこどもの日常が描かれていくのが、全く退屈しないというか一気に最後まで読んでしまう、その何気ない日常の描写が面白い、確かに幼稚園の先生は「走るな!」って、言わないよな、「走らないよ―」って言ってるよな。この辺が詩人でもあり作家でもある作家の小説が好きなところ、もちろん、文の美しいこともある(上品というのとは全然違う)。詩はさほど好きではないのだが、室生犀星、佐藤春夫両氏の小説は大好きなのも同じ理由
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四十歳になる私の前にある日突然、幼なじみであり元恋人でもある男が現れて一歳にも満たない自分の息子とまとまったお金を私に預けて消息を絶つ。そこから物語は始まる。
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」
柿本人麻呂が詠んだとされる一首。山鳥の夫婦は昼間はいっしょに過ごすのに、夜になると別々に寝るという。私も山鳥のようにこの長い夜をひとりで寝るのだろうか、という歌意だそうだ。
幼なじみの男はこの歌が好きだそうで、息子の名前を「山尾」と付けた。山鳥のようにひとりでいることに違和感を感じさせない雰囲気の山尾は手のかからない男の子に成長していく。一方、未婚かつ出産未経験で母親となった私は進展することのない男性たちと関係を結んでいく。山尾の成長と私の現状。いつかは本当の父に返すつもりで山尾を育ててきた私だったが。。。
血のつながりを必要としない「たまもの」、天からの授かり物だ。
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この本に書かれていること全てが私の心に突き刺さっていたたまれない気持ちでいっぱいになった。
母になること、子を育てること、いろんなことを諦めること、親が老いること、ままならない人生。
今の私の心境にあまりにもすっぽりと収まってぞわりとする。
例えばこんな文章。
ー惚けても万歳、と思う。汚れも万歳。何もできなくても万歳。年老いておめでとう。父と母に、大きな、具のない、白い塩むすびみたいな肯定を送りたい、と思う。
いい文章だな。
私の気持ちを代弁してくれてありがとう。
さて、本題は別のところにある。
主人公の「わたし」は幼馴染から突然預けられた赤ん坊「山尾」を10年間育てている。
寝ている子はすべてかみさまの捨て子だと思いながら。
血のつながりがあってもなくても関係ない。産んでも産まなくても関係ない。
そう、子供は「たまもの」なのだ。
もちろんリアリティには欠ける。現実じゃこうはいかない。
でもね、正直母性なんて私自身が信じてないから。
生まれた途端、いやお腹にいる時から可愛いって思う母親ばかりじゃない。
子を育てながら自分も母親になるんだよ。
だからね「わたし」と私はそんなに変わらない。
だからこそ、山尾がもう子供じゃなくなることが怖いんだね。
でもきっと大丈夫。
二人の関係は何があったって壊れないんだから。
いい作品。言葉の美しさも情景描写もみんな好き。
でもきっと読む人を選ぶ。
あ、でも男の子の母は共感してくれるかな。
山尾があまりにも可愛いから。
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小池昌代の小説らしい小説よりは、散文的な文章が好きな自分にとって「たまもの」は、久しぶりに小池昌代の詩人としての力に魅了された作品だ。
最近の小池昌代の小説は詩的な趣が後退して、こんな事を言うのもおこがましい話ではあるけれど、小説家の描く小説のようになってきたなと思うことが多い。それは筋立てだとか仕掛けだとかという面もあるにはあるが、むしろ言葉の使われ方の違いじゃないかと思う。
登場人物が日記について触れる印象的な場面がある。曰く、私の日記は単語ばかりだと。それがあたかも詩人その人の日記の様式であるように聞こえ、何か重さのあるものを受け止めた感覚が残る。言葉には様々な意味を指し示す矢印が張り付き、堅苦しく言えばそれは定義の問題に帰結するのだろうけれど、もう少し柔らかに言葉の発するものを受け止めたい、と主張する詩人の声が聞こえそうになる。
気付いてみると、この小説の文章には句読点が多い。一つひとつの言葉が文脈の中に埋もれて仕舞わないように、切り出されているかのよう。確かに言葉の輪郭は際立ち、無言で音読する頭の芯で一つひとつ立ち上がる。それはまるで小石を静な池の水面に投げ入れたかのように、小さくはあるが決して見過ごしようのない衝撃を生む。それでいて投げ入れた小石はラムネ菓子でできていたかのように、水に触れた瞬間からたちまち輪郭を失う。残される波紋のみがそこに物理的な力の掛かったことの確かな証拠を示す。波紋は程無くして収まり、再び静な鏡のような水面が現れる。もちろん、時を置かず幾つかの小石が投げ入れられることもある。ほんの少し中心をずらした同心円は呼応するように近づきはするが、お互いの波を乱すことなく行き交い、やがて鎮まる。決して不規則に水面が掻き乱されることは、ない。
言葉の余韻とでも言うべきものが、この本には満ちみちているのである。
しかし言葉は所詮記号に過ぎない。如何に言葉の力を引き出すことが詩人の才であるとしても、波紋はやがて鎮まる。それだけでは後には何も残らない。この散文の中でも触れられているが、音楽のように一瞬だけ空間を満たし、聴衆の心の水面に波紋を広げることは出来るが、終わってしまえば何も残らない。
しかし、この喩えは、楽譜という連想へと繋がる。楽譜に記されているものは記号に過ぎない。しかし、そこに託された音楽という実体のないものは、その記号の組合せを再現する肉体を経て空間の中に立ち上がる。それと同じように言葉という記号の、記号としての再現を促す力を信じ紙面の上に並べて見せることは、写真のように何かをそこに固定する作業ではなく、何かを未来に託すこと、つまりは永遠に固定しないことを目指すものであろう。ひょっとすると写真家が写真に託すものも同じようなものなのかも知れないが、ここでは二次元から立ち上がる三次元的表象の再現性は問われることがない。言葉は、あらゆる意味において自由である。散文の中で言葉は定義された意味を失い、音だけが新な地平を開いてゆく。
それこそが小池昌代の詩人としての魅力。そしてそんな詩人の書く小説を読む楽しみ。
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血のつながりなんてさほど関係ないのかもしれない。
預かった男の子をこれほど愛情深く育てられるんだもの。
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突然元カレから生まれたばかりの赤ちゃんを預かるところから物語が始まるのですが、すごく心に響いて共感してしまった。
生まれたばかりの赤ちゃんを死なせてしまう事件とか最近のニュースで見ると本当に心が痛んでいたのですが
もっといろんな世代のいろんな大人が、それこそ「たまもの」として小さな命を守っていけたらいいなと思うのです。
母親になるという事、それは「産むこと」とイコールではないんですね。
子どもと暮らしていると、その時々でハッとさせられることがあります。子どもを育てるというより「育てさせてもらっている」という感覚が、まさに、その通り!と思えてこの若い(少なくとも私より)母親を応援したくなりました。
私自身、長女を産んだ時に嬉しさと共に「これは大変なことになった」と思ったのを思い出します。ちゃんと一人前の人間にして世の中に送り出さなくてはいけない、とこの世の中から大事な預かりものとして宿題を負った気がしたのです。
宿題をこなしながら、子どもが育つ速さで私も母親になってきたのかもしれない…
日々たまものという気持ちで暮らしているのと山尾君がとてもいい子に育ったのとは無関係ではないと思う、これは確信できます。
いい小説でした。
子どもを産んだ人、育てることに関わった人。これから子どもに恵まれるかもしれない人もそうでない人、そうでなかった人も。たくさんの人に読んでもらいたいなと思います。
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読売新聞の小泉今日子さんの書評を読んで読みたくなった。著者は詩人と知りうなずいた。装画も描かれたようだ。
ある日突然山尾という一歳未満の子を渡される。不思議な名前と思ったが、百人一首の柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」が由来。その山尾も11歳になった。最後に山尾がわたしに「なにびびっているのさ」と言う。
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幼なじみ男性の生まれたばかりの子ども山尾くんを生活費とともに未婚の女性がひとりで預かるがいっこうに引き取りにこないまま山尾は小学生になる。なかなか想像しがたい物語のスタートではありましたが、山尾くんは読書が好きな男の子で手がかからない様子であり、預かった方も、不規則な生活に落ち入りがちな校正の仕事からせんべい工場勤務に転職し、山尾くんと一緒にいる時間を確保するようなごく普通の配慮をした母親役でした。淡々とお話は進み、どちらもこの生活に不満がなく
むしろ満たされた空気に包まれており、むしろこの先山尾くんが自立するときが来たら、ふたりの心のバランスが崩れてしまいそうに感じました。
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10歳の男の子を育てている女性の話。文学的な表現が多い。私も10年後、この話の女性みたいに感じたり思ったりしてそうな気がする。
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昔の男から突然、男の赤ちゃんを預かった40歳の「わたし」。
以来10余年「山尾」という名の血の繋がらない子を
「わたし」は育ててきた。
そんなシングルマザーの話。
著者の小池昌代さんは母であるが
「狭い血のつながりで
親子のことを書きたくなかったから」
この作品を書いたのだと言う。
脚本家の岡田惠和さんも
他人の集まりである「家族」をよく描くが
血縁ではないだけに
より深い理解や愛情で結ばれることがある。
「家族の絆」こそがすべて、と群れたがる人も多いが
私はそのベタついた感じが苦手で
小池さんが言うように
血のつながりなんぞちっちゃいものだ、と思う。
親と子であればもっと深く大きなもので
つながっているのだ、ということを
小池さんは書きたかったのだろう。
私は子供を産んだことも預かったことも
育てたこともないが
一度、子供を懐に受け入れたら
きっと離したくなくなるのではないかと思う。
女にはどうしようもなく母性というものがあって
だから血が繋がらない子でも
自分の手で育てることができる。
血とは関係なく、その子は自分の子供になる。
そんな「わたし」には男が二人いる。
「男たち」には家庭がある。
だから「遠くの山なみ」だと思っている。
「最後の最後、関わり合いになることもない」が
会えば、想いをつのらせることもある。
「つかのま一つになる」ことをやめることもない。
これもまた母性なのだろうと思う。
子供であろうと男であろうと
人はいつか必ず離れ離れになる。
それでも女は
いや だから女は
それらを自らの体で受け止めるのだ。
それが 人をひねり出す性である女の
特殊能力である以上
決して逃げてはいけないのである。
そんな生々しい作品ではあるが、
小池昌代さんは詩人なので、
キラリと光を放つ言葉や表現が随所に見つかる。
夜空に星を探すような楽しみがある。
また
すぐれた歌詠みである美智子皇后のエピソードを
紹介したりもしていて
エッセイのように読むこともできる。
淡々とした作品ながら
じわじわと心の奥にしみこむ一冊である。
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40歳になる主人公の未婚の女性は、幼馴染で高校生の時に付き合ったことのある男性から、8ヶ月の男の子、山尾を預かった。程なくその父親は失踪。両親の協力を得ながら、1人で山尾を育て上げた10年間が書かれている。甘やかすでもなく、血の繋がらないことに引け目を感じさせるわけでもなく、随所に惜しみなく注がれる愛情をひしひしと感じられた。両親や付き合いのある男性に老いを感じる寂しさ。「順番は守れ」と山尾に言った一言が印象に残った。
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こども。成長。『小泉今日子書評集』にて。ある日突然やってきたかつての恋人が置いていった八百万円と赤ん坊。
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40歳の時、幼なじみで昔の恋人だった男から赤ん坊を預かる主人公。
彼の妻は出産時に亡くなり、男手一つで育てることができないため、と、800万円と赤ん坊を渡される。
それからの10年間の話。
「迎えに来る」といった男は連絡が取れなくなって久しい。
不規則な編集の仕事では赤ん坊を育てられないので、せんべい工場で働くことにした。
赤ん坊だった山尾が小学校に入る年になった時、初めて役場に相談するが、そのまま彼女のもとで山尾は育つ。
特に山場も修羅場もないストーリーだけを追ってもこの本の面白さは伝わらないだろう。
私は子ども好きなので、子育てのあれこれの部分に多く付箋をつけてしまったけれど、この作品は子育てのすばらしさを謳ったものではない。
どちらかというと、成長していく子どもを通して、人の一生というか、老いることの当たり前に対する賛美なのかもしれない。
”「年をとるといつか、死ぬよね」
「そうだよ。でも、わかってるだろうけど、順番は守れ」”
ああこれ、私も伝えておかねばならないな。
”子はみんな、誰か特定の女の腹から生まれながら、そして一応は、どこか特定の家に繋がれた家畜のような顔をしながら、でも誰にも、どこにも所属しない、落ちてきたもの、捨てられたもの、誰のものでもない者、なんじゃないか。産んだ者の所有権、そんなものなんか、ないと、この偽の母は思う。”
私も所有権とか一心同体とか、ないと実感しましたね、孕んだとき。
”幼い子供と生きる人生の時間は、一貫性のあるキャリアを追求する生き方に比べ、遠回りの獣道。行く先々で、具体的な実りがあるわけではない。生きているものを世話する仕事は、為すそばから消えていく、むくわれない行為からできあがっているのだ。だから逆に、子供のいる女は、あきらめを知ることになる。この世には、できないこととできることがあることを知るようになる。いや、できないことだらけであることを知るようになる。(中略)つまり順当に老いることを学ぶ。”
子どもを育てる育てないにかかわらず、自分にはできないことが多いということを知っておいた方が結局はいい仕事ができるような気がします。
賢いとか、いい学校を出ているとかではなく、自分と違う思考で生きている人に合わせることができる人が、結局は仕事ができている。
子育ても、親の思いを押しつけるのではなく、子どもの気持を汲める方がよいのと同じ。
”ふわりと現れた山尾が、だから私のすべてだと言ってもいいが、そんなふうには言いたくない。どのように山尾と別れていくか。それが、これから先のわたしの課題。”
まったくその通り。
私と別れても問題なく生きて行けるように育てたつもりだから、あとはこっちの問題なんだよね。
”でも山尾は私でよかったのだろうか。黙っていると、須藤さんが言った。大事なのは――血じゃなくて、一人の子供に、誰か一人がずっとついててくれることですよね。(中略)血を、愛する理由にするのは変です。もし、血が家族であることの証をつくる唯一のものであるなら、家族を愛するといっても、結���自分を愛するのとなんら変わらないもん。”
今は自分と違う人を警戒して排除する傾向が強いけど、そういう社会は弱い。
家族であろうとなかろうと、血が繋がっていようといなかろうと、違うことを認め尊重し合うことができないのは、淋しいよね。
”よくできた子は、悪くにしかならない。悪い子なら、よくなることができる。よくできた子は、あるとき、ふっと消えてしまいそうでこわい。”
これもよく思っていた。
「最短コースで生きなくていいよ」と「いい子になってほしいのは親の本音だけど、大人にとって都合のいい子にはならなくていいからね」は実際に子どもに言ってきかせた。
ストーリーが単調なのに、ぐさぐさ刺さる言葉がてんこ盛りでまいった。
ふつうこれほどに読点が頻繁に打たれると却って読みにくくなるものだけど、するすると入ってきた言葉が読点をくさびにして腑に刻まれた感じ。
作家の言葉って怖い。