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今福龍太の「書物変身譚 - 琥珀のアーカイブ」を読んだ。古今東西の思想家の「書物にまつわる考察」を集め、批評した本の本。
どうも最近本当に偶然にテーマがつながることが多い。
「ここでの私の関心は、むしろ、書物という形=イデアへの原初的・本質的想像力を生み出した自然界のエレメントが何であったか、という存在論的な問いである。そしてその問いにたいしては、書物の起源が人類の植物世界、とりわけ樹木世界への原初的な感覚にもとづいていたことを否定することはできないように思われる」p. 39
書籍は紙でできていて、やがて朽ちる(羊皮紙でも竹でもそう)。1枚1枚のページは葉であり、編集、つまり知識を体系的にまとめることはいえば「樹形図」をまとめることだ。貫く幹があり、連関する枝々のネットワークが全体像をつくる。
ニュートンがリンゴの木を見て万有引力を発見したというのはどうやら作り話のようだが、それでも人類は植物、とりわけ樹木によって知的進歩してきた。
つい先日、「ゆきすぎた科学過信」に森林の再生力を対置する宮崎駿の作品思想について触れ、その翌日に思考のフレームとしての「樹形図」の歴史をまとめた本を読んで、体系化された知識のメタファーとしての樹木について考えた。そこへきて、今福龍太の読み解くヘンリー・D・ソロー。
「この本のすべてのページが、ウォールデンの氷のように純粋であれば、私は人にどういわれようと満足だ」-ヘンリー・D・ソローp.36
また、この本の中にはレイ・ブラッドベリの「華氏451」が取り上げられる。書物を読むことが禁じられた近未来、書物の価値に気付いた人々が、深い森の奥で「一冊の書物として生きる」アレ。
しかし、一方でレヴィ=ストロースは次のようにいう。
「本は死んだもの、すでに終わったものです。私には無縁の死体のようなもの」p.88
結局、本は生きているのか、死んでいるのか。書き手にとっては死体であろうと、読み手にとってはそれは生き物だと思う。
スーザン・ソンタグとロラン・バルト、ゲーリー・スナイダー、ジョン・ケージ、鈴木大拙、ナボコフ、カフカとアドルフ・ロース、ジャック・デリダとヴァルター・ベンヤミン。
次々と紹介される作家の書物はお互いに呼応し、その意味は変性していく。それはまるで森の木々が会話をするように。
電子書籍やネットのテキストも便利でいいけど、書架に並んだ本の背は、自分の思考の変遷を思い起こさせてくれる。はたして人は電脳の世界に生きることはできるのか?
それとも古代の樹脂に閉じ込められた昆虫を記憶を辿るように、実態としての琥珀、その記憶のアーカイブに触れることでしか得られないものがあるのだろうか……?