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近代・現代建築の潮流を把握する入門書としては面白いが、現代建築の前面否定に終止し、これからの未来に向けた展望が全く見えないのが残念。
ヴェネチアビエンナーレのオープニングは、必ずアートバーゼルにくるコレクターのカレンダーに合わせて開催される。なぜなら、ヴェネチアで見たものが、バーゼルでは買えるから。
石上純也の建築インスタレーションをまるで正規の「建築」のように見なしてしまう今日。建築家自身が、建築はアートと方を並べたと勘違いしている。これは、建築と建築家をブランドにしようとする資本主義の力学が、したたかにアート市場の背後で強く蠢いていることの現れ。
このような「らしい」建築が特に顕著になったのは、1970年代から。その頃から、世界的なレベルで国家よりも資本の方が、権威と財力を持つようになった。それ以降、公共建築より、資産家のコレクションによる美術館やブランドブティックの店舗が、建築の重要な作品として目立つようになってきた。
コルビュジエと「らしい」建築の違いは、前者は社会変革によって、多くの人に良質な建築を平等に、かつ安価に流布させるために、規格化と量産化をあえて試みた。それに対し、ザハに代表される今日の「らしい」建築家は、そのような革命精神、禁欲的精神をすっかり喪失している。そのようなイデオロギーが骨抜きにされた趣味的な建築が後者に相当する。
MoMAテレンス・ライリーの目論んだ「ネオモダニズム建築」は、新しい概念の提示ではなく、結局のところ、20世紀前半の革命アヴィアンギャルド達、ウラジーミルタトリン、カジミールマレーヴィチ、コルビュジエ、ミースら、のリサイクル/リバイバルでしかなかった。
■メモ
・ロシア革命期前後のロシア構成主義、シュプレマティズム
・伊東豊雄が偏愛した建築家・篠原一男は、「社会から隔絶された小さな住宅内部にのみユートピアが宿る、住宅は芸術である」「自律した芸術としての建築」とし、社会性、他者性を一切無視して、自閉的で、自己だけが満足できる抽象性の美学に浸り、周囲の環境から自身を閉ざした。「直方体の森(1971)」作品至上主義。「直方体の森(1971)」
・1995MoMA「Light Construction」展 チーフ学芸員テレンスライリーによるキュレーション
伊東豊雄、妹島和世、槙文彦、ジャンヌーベル、ベルナールチュミ、ヘルツォーク&ムーロン、ピーターズントー、レムコールハース、スティーヴンホール、フランクゲーリーらが出品
・ザハハディド「ヘイダル・アリエフ文化センター」「ギャラクシーSOHOプロジェクト(北京)」「広州オペラハウス」「ピエール・ヴィーブ(モンペリエ)」
・フランクゲーリー「ノヴァルティス社(スイス/バーゼル)」「エイト・スプルス・ストリート(NY)」「ルイヴィトン財団美術館(パリ)」「アレクサンダープラッツ・レジデンシャルタワー」
・コープ・ヒンメルプラウ「国際コンファレンスセンター(大連)」