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「致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀其復。
夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜。
是謂復命。復命曰常。知常曰明。不知常、妄作凶。
知常容。容乃公。公乃王。王乃天。
天乃道。道乃久。沒身不殆。」
道徳経16章
これはかなり苦手な物語。人間としての成熟というか完熟というか、より高次で完全な何かへ至ろうとする物語を取り込む場所が、私の中にないからか、ただつらつら読んで終ってしまいました。
己の内奥に導き手を見出すあたりで『デミアン』や、聖的で精神的な世界から世俗的で肉体的な世界を経て、それらを越えた新たな世界に至る構成に『知と愛』のことが浮かびましたが、この作品が書かれたのはこの2作の間であるそうで、ヘッセを読む上では、重要な作品ではないかと思われます。
タイトルから、私はてっきりお釈迦様であるシッダールタの物語、ヘッセ版ブッダだと思って手にしたのですが、なんと別人の話でした。悟りへいたる経緯もヘッセ流なら、悟りのかたちもヘッセ流なシッダールタの物語です。
バラモンの子として生まれた美しいシッダールタは、非常に聡明で優秀でしたが、現状に満足できず、完全な状態へいたる道を求めて、親友のゴーヴィンダとともに沙門となり、苦行の道を歩みます。しかしそれでも、求めるものは得られず、次は、実際に悟りを得た人物、ガウタマ仏陀のところへ行くことにしました。仏陀の素晴らしさ、その教えの尊さは理解できたものの、そこでシッダールタは、「何人も教えによって解脱を得られない」ということを理解します。得たいものが教えによって得られるものではないと気付いたシッダールタは、仏陀に帰依した親友を残し、仏陀のもとを去ります。
これまでの自分の姿勢の誤り、不完全さに気付き、新たに生まれなおしたような状態のシッダールタは、今まで知ることの無かったさまざまなことを学んでゆきます。遊女のカマラーからは性愛の世界を、商人のカーマスワーミからは世俗の苦楽を、俗事に対して達観できていたような自分自身が崩れてしまうまで。これは回り道ではなく、必要なステップなのでした。
珠を得るためには、珠の知識も、それを得たいという意思も捨て去らなければならないのです。
こうして「思考と官能」、両方と戯れ終えたシッダールタは、聖的、精神的世界と俗世的、肉体的世界との間に存在した川で出会った渡し守のもとへ向かいます。そこで、この渡し守ヴァースデーヴァと目の前を流れる河から学び、安らぎを得たかと思ったところで、最後の苦しみがやってきます。それはカマラーが産んだ我が子である、シッダールタ。仏陀が我が子にラーフラ(障碍)と名づけちゃうのも納得な、苦悩させられぶり。
でもこれは試練や障碍ではありません。我が子への愛ゆえの苦しみを乗り越えるのではなく、よくよく苦しみ、その苦しみのすべてをヴァースデーヴァに傾聴してもらったことで、新しいステージが開けたのです。
お釈迦様であるシッダールタは試練を乗り越え、解脱して生にまつわる諸々の苦を超克されたわけですが、このシッダールタは、生の諸々全てを受け入れ、そこに溶け込んでゆくような感じです。
違う道を経たものの、終盤シッダールタの顔に浮かんでいる微笑みは、お釈迦様のそれとまったく同じものなのでした。
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20141108読了。
カースト制度の上位にあるバラモンの子どもでありながら、自ら低い身分を選び、困難苦難のステージを乗り越えて悟り、そしてさらなる苦悩を経験し、また乗り越えて悟る。
人は大きな輪廻の輪に乗っかって生きている。
インドの熱風、匂いを、空気を感じながら読み進めた。
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2014年98冊目。
仏教の改組ガウタマ・シッダールタと同名の別人物「シッダールタ」が悟りを開くまでの架空の物語。
悟りかけては堕落・苦悩し、苦悩を抜けては新たな悟りに至り、とても波の激しいシッダールタの人生は読者に馴染みやすい気がする。
目標を追うのではなく、広く自分を開いて「見いだす」など、心に残る言葉が多かった。
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仏教の開祖、釈迦の物語かと勝手に勘違いしていたが、全く違った。
主人公は釈迦(ガウタマ・シッダールタ)と同名だが別人のシッダールタで、釈迦は脇役としてガウタマの名で登場する。
主人公のシッダールタは聖人でもなく、ただの優秀な僧侶であり、その優秀さ故どこか俗世を軽蔑し、見下していた。
ある日釈迦と出会い、釈迦が聖人であることを瞬時に悟ったが、真理は自分の中にあり、享受されるものではないとの考えから彼に帰依することなくその場を立ち去った。
その後、自分の心の声を聞くという考えから本能に従い色欲や金銭欲に塗れることになる。
初めのうちは社会勉強の一環として、心を奪われないよう一線を引いたスタンスだったが、次第に自分を失っていき、あるとき俗世にまみれた自分に気がつき全てを捨てて死にたくなる。(わかる)
すんでのところで我に返り、心の声ではなく自然(川)の声に耳を澄ますことで心の平安を取り戻す。
ところが今度は生まれたことすら知らなかった自分の子供と再会し、父親として苦悩することになる。
どうすればいいか頭ではわかっていても愛ゆえにそうできない苦しみを通して、彼はその迷いや悩み、愛といった凡俗なものが切り捨てるべきものではなく、真理の一面であることに気づくのだった。
世の中に正解がないのと同じように間違いもない。
或いは正解の中に間違いがあり、過ちの中に真理が内含されている。
俗世にまみれ煩悩に悩まされた自身の経験を通して世の一如性を悟った主人公の物語は、聖人君子の浮世離れした神話より現実味があり、しばしば自分自身に重ねてしまった。
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著者が一生を費やした思想を数百円で買えるのが小説だ、なんて文をどこかで読んだが(そしてそれが正しいとは必ずしも思わないが)、これはまさにそんな本だ。まだ若く未熟で傲慢な私ではとても知り得ない境地を教えてもらった。
主人公は若い頃、とんでもなく優秀だった。出来ない事は無く、現状に満足できずに家を出た。その後も持ち前の才でもって教義を得、富を得、愛を得た。しかし成功の果てでふと自分の醜さに気づき、今まで見くびっていた人たちの美しさを知った。そうして全てを捨てて隠遁生活を送る主人公だが、そこで偶然息子と出会う。どうしても息子と分かり合えなかった主人公は、自分にも得られないものがあると知り、自分の弱さを知った。ついに息子に出て行かれた時、かつての父の気持ちを知り、自分の罪を知った。同時に、輪廻の中でいかに人が無力であり、万物流転の悟りに達する......
人生とは、何かを身に付けたり達成したりするほどに、それまでの自分の愚かさに気づいていくものなのだろうか。逆に言うと、自分の愚かさに気づけていないという事は、何も得られていないということ...?
人生の各ステージで感じ方が違うことは請け合いで、折にふれ読み返したい本だ。
原文の詩的な文体を再現、とのことだったが私には詩的というよりも単に平易に感じた。他の訳出もあれば読みたいところだ。
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何事もそうだが、知ってるのと身を持って分かったのは全然違う。シッダールタはあらゆることを身を持って分かったからのラストなんだろうな。
人間の歴史の中で、皆色々なことと戦いながら、それでいて誰にも評価されることなく死んでいくが、それは悪いことでも寂しいことでもなんでもないよな、なんて感じた。
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1922年。 ヘルマン・ヘッセ作。
ブッダと同じ名前の男が、悟りを求めてさまようお話。
シンプルで読みやすい文章ながら、哲学的で深みのある物語だった。
人生の受け入れ方が素敵です。