投稿元:
レビューを見る
平成の世から、古代へのラブレター。
池澤夏樹は福永武彦の子だったらしい。だから、なのか。岩波少年文庫の福永武彦版を読んだ後に、続けて読む。岩波少年文庫は、確かに子ども向けに「物語」にしてあった。こちらは、誰が誰の親で云々の系譜がある。あと、脚注で色々とツッコミが入っているのが面白い。
投稿元:
レビューを見る
この本、どこかで読んだことがある。そんな気がした。内容ではない。見かけのほうだ。読みやすい大き目の活字で組まれた本文の下に、小さなポイントの太字ゴチック体の見出しに続いて明朝体で脚注が付されている。丸谷才一他訳による集英社版『ユリシーズ』のレイアウトそっくりではないか。まさか敬愛する丸谷の訳本に、自分の訳本を重ねたわけでもあるまいが、偶然とは考え難い相似である。考えすぎかもしれないが、古代の神々と英雄の冒険を語る『オデュッセイア』に擬した自作を『ユリシーズ』と名付けたジョイスにあやかるつもりか。たしかに、この「古事記」、日本文学の古典というよりもモダニズム文学の文体のほうに余程似ている。行替えやら一字下げやら括弧・カタカナを駆使した表記のおかげで、風通しのよいテクストとなった。
以前に訳者の父である福永武彦が書いた「古事記物語」(岩波少年文庫)を読んだことがあるが、子ども向けということもあって、幾百にも及ぶ神名・人名は主要なものを除いて省略されていた。今回の新訳で驚かされるのは、漢字とカタカナによる神名・人名表記の羅列だ。神のヒエラルキーをそのまま地に下ろして、地方の豪族の祖先を組み込むことで、反乱を繰り返す地方豪族を武力ではなく言葉の力によって懐柔し、従属させる意図があってのことだろう。乱れてしまっていた帝紀・旧事を正すという原著が持つ意味からもこの羅列は必須であった。ほとんど読み飛ばされるだろう箇所に、興味を持たせるためか、出身地方にあたる現在の地名が詳細な脚注に記されているのもうれしい。
こんなことでもなければ一生読まずにすませただろう「古事記」の中身だが、ヤマトタケルやオホクニヌシの話は誰もがよく知っている。神名・人名の羅列による系図の部分を除いたら、あとは神々や英雄の冒険、悲恋、裏切り、復讐の炎渦巻く物語の世界である。現代語訳のせいもあって、スピーディーな展開は驚くほど。あれよあれよという間に話は進んでいく。そのあっけなさを救うのが、所々に配された歌謡である。天皇らしく国見の歌もあれば、女に誘いかける歌もある。宴会の歌もあれば、名のりの歌もあって、元の歌を示した後に続けて現代語に訳した歌、そして脚注に詳しい解説が記されている。歌のリズムは原文、意味は訳、説明は脚注で分かる工夫。
神代の話は線が太くおおらかで力強い。糞尿譚やら、何かで女陰(ホト)を突く話やらが登場する話がやたら多いのには驚きもし呆れもするが、それが古代日本に生きた人々の心性というものなのだろう。温水洗浄式便座が愛されるには理由があったのだ。歴代天皇が登場するようになると、話はぐっと人間的になる。床下で遊んでいて自分の父を殺したのが天皇であったことを知り、復讐を果たす王子の話など、シェイクスピアの悲劇にでも出てきそうだ。実の兄妹どうしの悲恋や、負け戦を承知の上で筋を通して天皇に反旗を翻した臣の話等々、敗者に肩入れした記述が多いのは意外であった。読んでみるまでは歴代天皇の事跡を誇らしげに語ったものが多いのだろうと勝手に思い込んでいたのだが。代々に亘る血腥い闘争や姦計、裏切りに至るまであからさまな筆致で記している。
正月はもちろん、何かあるたびに伊勢神宮を参拝する宮家や政府高官の姿が報道されるのは、皇祖神とされる天照大御神をまつっているのが、伊勢神宮(内宮)であるからだが、意外なことに「古事記」には皇統でない出雲にまつわる話が多く採録されている。また、韓(から)との関係も古くから続くこともしっかり書かれている。戦前の教育に対する反省の上に立ち、戦後は教育の現場から神話が排除されてきた。「古事記」についても、日本史の中で触れられるにとどまり、真剣に中身まで読む機会がなかった。今回、世界文学全集に続いて、日本文学全集が企画され、その第一巻として「古事記」新訳が編者の手によってなされることになり、読むことを得た。訳だけでなく、組版やレイアウトなども読みやすいかたちになっていて、以後一般読者にとっては、これがスタンダードになるのではないかと思う。幅広い読者を得られるようになれば何よりだ。何かときな臭い時代である。だからこそ、誰もが自分の国の成り立ちや、そこに暮らしてきた人々のあり方に、誰かの目を借りることなく、自分の目で真っ直ぐに向き合うことが必要とされている。その意味でも時宜を得た出版であるといえよう。
投稿元:
レビューを見る
脚注に時折池澤氏のつっこみが入るのが楽しい。
読みやすくはあったけど、じっくり読み通すのはなかなか骨が折れる。もう一度じっくり読んでみたい。
投稿元:
レビューを見る
この春から池澤夏樹個人編集日本文学全集を順次読んで行こうと思う。改めて「教養」を身につけたいと思ったからである。
第一回の配本は、愉しみにしていた池澤夏樹訳の古事記。お父さん(福永武彦)の訳は一個の独立した新しい小説のようだった。池澤訳は、それとはまた雰囲気が違う。1番の特徴は「注」があることだ。しかも楽しい。学者のそれではなく(もちろん、学術的な厳密さも担保してあるはず)、朗読の聴き手、読み手としてのそれなのだ。例えばこう。
(黄泉の国のイザナミの言葉)「私を見ないでください」の解説にこう書く
「と言われて見てしまうのは物語のお約束である。禁忌と違反。」
または「ネズミ」について
「語源は「根に棲むもの」。地下の動物とみなされていたから。だから後には「おむすびころりん」のような話が生まれた。」
なぜ「注」を入れたのか。池澤夏樹によれば、物語の面白さを優先させれば学術的な説明が削ぎ落とされてしまう、しかし古事記の面白さは朗読した時のリズムが重要(長い長い名前の羅列もそう思えば重要に思える)、よって小説家の訳なのに「注」が入ったというわけだ。
例えば1番最初につぎつぎと生まれる神々の名前は、かなり「言葉あそび」があるらしい。また、抽象的な意味も持たせている。それを説明せずに朗読して聞かせることが意味があったのだろう。
ともかく池澤訳で一気に読ませる国定公文書の「歴史」は、豊穣な想像力と世界的な知識と有名な歌歌の表現力に満ちている。
また、池澤夏樹に指摘されて初めて気がついたことの一つに、その後の日本人の思想に決定的な影響を与えた、「敗者に寄り添う思想」が色濃く見えるのは、驚きだった。
1番の象徴的な人物はいうまでもなくヤマトタケルである。池澤夏樹は「ここに来て文体が一変する。稚拙な神話的表現と権力の配分に関わる系譜ばかりだった(←古事記後半の11代垂仁天皇までの文章を指す)のが、この話の殺害場面の生き生きとした描写力はほとんど映画だ」(202p)と評価する。「ヲウスからヤマトヲグナへ、そしてヤマトタケルへ、名が変わるごとに成長の一段階を上がる。そもそも生涯を誕生から死まで語られる者は「古事記」にはヤマトタケルしかいない」(204p)
「『古事記』には負けた側への同情の色が濃い。おおよそこの国の君主は古代以来ずっと政敵への報復に消極的で、反逆者当人は殺しても一族を根絶やしにすることはしなかった。そのうちに具体的な権力への執着を捨てて、摂関政治のあとは神事と和歌などの文化の伝承だけを任務として悠然と暮らすようになる。これはまこと賢い判断であって、こんなのんきな王権は他に例を見ない。その萌芽を『古事記』に読み取ることができる」(393p)
もし天皇の(現代まで繋がる)権力執着放棄が「賢い判断」なのだとしたら、それは決して古事記の時代に発明されたものではないだろう。私はそれを倭国統一時以来の伝統的な思考と見る。
古事記の個々のエピソードからは面白かったものは無数にあるが、それをひとつひとつ書くことは今はできない。また、機会が��れば書きたいと思う。
2015年5月2日読了
投稿元:
レビューを見る
池澤夏樹氏の「古事記」です。
本当は積読リストに、人気作家三浦しをんさんのお父様である国文学者の三浦佑之氏の「口語訳古事記」が先にあったのですが、パラパラめくったら躊躇してしまい、池澤版を先に読んでしまいました・・・(本書の解題を書いていてびっくり)
これまでも何冊か超訳的なものや紀記合わせた解説本を読んできたこともあり、意外とすんなり世界に入ることは出来ました。
とはいえ、きっちり最初から最後まで古事記だけを訳されたものを読むのは初めてだったので、新たな発見があり楽しめました!
まず、もともと古事記は帝紀としての役割があり、多くの氏族の祖先としてたくさんの神を設定し、天皇を中心とする権力のネットワークに有力者を組み込むためにつくられたと言われています。
通読して、それをすごーく実感しました。
物語中に「これは吉野の首(おびと)の祖先」とかこれは「膳(かしわで)の臣(おみ)の祖先」などの記載が多々あるところとか、物語が時系列になっていなく、いろいろなエピソードの羅列になっている部分があったりとか、いかにも地方の豪族たちが受け継いだ神話の寄せ集めっぽいんですよね。
解説に、「古事記全体を貫くのは混乱から秩序へという流れ」という記述があり、まさにそんな印象でした。
それと、池澤古事記は神の名前を漢字とカタカナに使い分けられて、さらに改行などで読み易くされていました。
私、(読めないけど)漢字表記が美しくて好きなんです。
例えば簡単で有名どころで言うと
月読命ーツクヨミノミコト
とか素敵な字面と響きだと思いませんか?!
ヒメなんて、比売とか日売とか毘売とかあるんですよ~
このあたりはみてるだけで楽しめました。
また、注釈が時々とてもよくて、例えば高い山に登って、の注釈が、
「前にもあった「国見」だが、ここには登った山の名も見えた土地の名もない。「聖帝」像のための抽象的な国見なのだ。あるいはもう見ることの予祝の力が信じられなくなった時代の、つまりは呪力ではなく政治の時代の始まりということか。古事記の下巻はこういう世界である。 」
という具合。いい解説でしょ。
あとは、文章のリズム感。
原文のリズム感を意識しているんだろうなーというのも伝わってきました。
他の解説本でヤマタノオロチのモデルとなった川の解説が印象的でしたが本書にはそれについては一切触れられておらず、やっぱり本によっていろいろあるなあ、とあらためて感じました。
そのあたりをこだわり始めると別の訳本も読みたくなるんですが、結構脳みそを使って読んだので、しばらくはおやすみします。。
投稿元:
レビューを見る
現代語訳も注も読みやすく、全編通して飽きることなく読める。予想に反して、全般の神話部分のほうが自由奔放な発想で面白い。後半はどちらかというと皇位継承争いなどによっておこる悲劇を描いた話が多い。必ずしも天皇の正統性を誇示するような内容ではない。
全般的にはかなりエロい話が多い。禁忌や社会常識が現在と異なることを前提に読むべきであるのは当然なのだろうが、であればチャタレイ裁判など噴飯物ではないのか。そのくらい描写が凄い。
投稿元:
レビューを見る
古事記はそれこそマンガから始まって簡単なものはいくつか読んでストーリーは知っているけど、全部は読んだことなかったから、これで「全部読んだ!」と思えて嬉しい。笑
で、全部読んだ感想は、系図が長い、ということ。正直そこは飛ばし読みだが、人名とか文章が読みやすくて良かった。そして注釈が面白い。ストーリーはもともと面白いし。
投稿元:
レビューを見る
古事記が敗者に寄り添う物語だというのが凄い。よくぞ現代まで残ってくれたという感じだ。
まずは冒頭の訳者の「この翻訳の方針」を読んで欲しい。そして「太安万侶の序」。この流れにはすっかり感動してしまった。なんとなく日本神話でしょ、と思っていた感覚とは全く違って、人が紡いできた物語だということがよく分かる。古代と現代が直に繋がっていることを実感するたびに心が震える。
投稿元:
レビューを見る
内容はいわずもがなの驚愕の世界観。それがぐっとわかりやすくなった現代語訳、またページ構成、編集者としての池澤夏樹にも感服。しかし、原典主義者としては、やはり岩波古典大系が欲しいかな・・・。
投稿元:
レビューを見る
池澤夏樹による古事記の現代訳。これでもかなり読みやすくなっているのだろう。
神々の時代の上巻、初代神武天皇からヤマトタケルの冒険を記した中巻、仁徳天皇から推古天皇までの下巻。古事記に通じるのが、敗者への共感というのはなるほどと思った。しっかし名前長いね、日本の神様。ひたすら神名人名リストが続くし。
投稿元:
レビューを見る
まずは古事記の成り立ちについて。
元明天皇(天智天皇の皇女)が、大朝臣安麻呂(おおのあそみやすまろ)という官僚に対して、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)にという記憶の天才に口付から教えた正しい歴史を文字にして残せと命じたもの。それを受けて安麻呂は、古い音声を漢字に移すのに苦労しながら、古事記三巻として和銅五年正月に奏上した。
上巻は国の始まりから、神々の時代。大国主が治めていた地上を天上界の神の天照大御神に譲り、現代にも続く天皇家の血筋が作られた。
中巻は、初代神武天皇から十五代応神天皇の時代で、神々と人間とが融合している。
下巻は、十六代仁徳天皇から三十三代推古天皇の時代で、終盤になると現代の教科書にも乗っている歴史上の人物であり、神性は消えて人間の時代となっている。
池澤夏樹版の現代語訳としては、
古事記での言葉のリズムや言葉遊びを大事にして、現代語や現代用語に読みくだすもの。本文の下に訳注を載せて、当時の風習や名前の意味などを解説している。ところどころで池澤さんの楽しいツッコミもあり(笑)
現在使われている言葉の語源や地名のいわれにも触れられて、日本語の語源はここにあったのかなどとも思わせられる。
人名に関しては、出てきた最初は漢字表記(天照大御神/アマテラス・オホミカミ)、次には漢字と読み仮名、そしてカタカナ表記(アマテラス)へと変えている。
古事記においての名前というのは、当初は交互で伝わったのを漢字に変えたもの、またはその人物の役割により跡付けて名前が付けられたもの(美女と言われているから「髪長比売かみながひめ」という名前になった、とか)なので、それぞれの名前を表記と訳注で解説されている。
しかし神からの血筋紹介でもあるこの古事記において、多くの人名が何ページにも渡って列挙されているが、現代読者としてはほぼ飛ばし読み。そのため名付けによる地位や役職のルールもよくわからずでした、ゴメンナサイ(^_^;)
「物語」としては、神から人間に受け継がれた血筋の説明、勢力争い、色恋沙汰などがかなりスピーディな展開で語られる。
性交して便所に入って嫉妬して反乱を起こして、神とその血筋の者たちとはいえ、彼らの行動は実に人間らしい。以下「物語」としていくつかの箇所を記載。
【夫婦】
❐イザナギとイザナミ(上巻)
出会ったときは「俺には余ったところがあるんだ」「私には足りないところがあるの。では合わせましょう」などと初々しくあけっぴろげに性愛を語った伊邪那岐命(イザナギ。性行為に誘うの意味)、伊邪那美命(イザナミ)だったのが、やがて妻イザナミが死ぬと黄泉の国でのやり取りのあと「あなたの国の人間を一日1500人死なせてやるわ!」などと壮絶な夫婦戦争に(-_-;)。
❐オオクニヌシと妻たち(上巻)
後に大国主となり地上を治めるオオムナヂのカミには多くの妻たちがいた。
建速須佐之男命(タケ・ハヤ・スサノヲのミコト)の娘の須勢理毘売(スゼリビメ)は、積極的に夫を選び、オオクニヌシの正妻になった。他の妻たちはスゼリヒメに遠慮して過ごさなければいけなかった。しかし大国主はそのスゼリビメ一人のところに留まったわけではなく他にも妻たちのところへ行き多くの子を成した。スゼリヒメと大国主は歌を贈り合い、大国主はスゼリビメの元に留まることになった。
❐八十年待たされた女?!
二十一代雄略天皇は、ある美女を見て迎えに来ると約束した。美女はそのまま八十年待ったが迎えは来ずについに自ら宮廷に上がった。約束をすっかり忘れていた天皇は「おまえはどこ老女だ?」といって追い返そうとしたが、約束を思い出し、でも今更妻にはしたくないのでお金をもたせて帰したらしい。
訳注によると実際は十年くらいだろうって。でもこの時代だったら20歳後半でもう老女扱いだろうし、しかし天皇自ら口約束されたら別の結婚なんてできないし、こういう女性は多かっただろうなあ。
❐性表現
やたらにホト(女性器)という言葉が多いんだ。そして排泄行為や生理の血のこととかもそれなりに描かれている。古代人間において、それらは当たり前のことで実におおらか。
【出産】
❐イザナミ(上巻)
火の神を生んだために女性器が焼けただれて死んでしまった…勘弁してくれ(;´Д`)
❐コノハナサクヤヒメ(上巻)
アマテラスの孫で地上に使わされた番能瓊瓊杵尊(ホノニニギのミコト)は妻の木花開耶姫(このはなのさくやびめ)が、結婚後すぐ妊娠したため疑いを持った。コノハナサクヤヒメは自分の子供が神の子であることの証明として火を放った産屋で出産したのでした。…あっちこっちに妻を取り子孫を増やしていってるのに子供ができたらできたで疑ってるのか、面倒臭いなあ。
❐海のものと地上の人間
ヤマサチヒコが海の底の国にいたときに、海の神の娘である豊玉毘売命(トヨタマビメのミコト)と結婚した。トヨタマビメは鮫の化身であり、出産するときに鮫の本体を見られたため恥しがりヤマサチヒコのもとに子供を残し住居を分かつことに。しかしこの鮫の子が後の神武天皇。神も人も動物も境がなかったのだろうかと思う古代血脈物語。
【兄弟・兄妹】
❐ウミサチヒコとヤマサチヒコ(上巻)
コノハナサクヤヒメが命がけで生んだ三人の兄弟だが、その後兄の海佐知毘古(ウミサチビコ)は、弟の山佐知毘古(ヤマサチビコ)と壮絶な兄弟喧嘩の末、弟の部下になることになる。
さて。古事記でも名高い美女の木花咲耶姫だが、姉とは別れ夫には浮気を疑われ息子たちは争い、権力者の美人妻も大変ね。
❐サホビコとサホヒメ(中巻)
十二代景行天皇の后、沙本毘売命(サホビメのミコト)は、同母兄の沙本毘古王(サホビコのミコト)に「夫と兄とどちらが愛しいか」と聞かれてつい「兄のほうが愛しい」と答えてしまう。その結果サホビコが起こした景行天皇への反乱に加わる。景行天皇はサホビメを取り返そうとし、サホビメも夫の天皇を愛しく思うが、同じ母を持つ兄との絆は自分の命も超えていた。サホビメは景行天皇に、自分が死んだあとの息子の育て方、次の妻を指示して兄とともに亡くなる。
サホビメの行動はどっちつかずな気もするが、どっちも裏切れずに自分が死ぬしかなかったのだろうか。
❐恋愛倫理について
木梨之軽王(��ナシ・ノ・カルのミコ)は、同母の妹の軽大郎女(カルホのオオイツラメ)と恋において糾弾される。異母妹や、自分の母ではない父の妻を娶ることは許されたが、同じ母から生まれた相手と結ばれることは人倫に外れることだった。彼らは共に死ぬ。
古事記に記載されるにあたって「人倫が無い」ということで、行動により後で付けられた名前。
❐皇子→動物番→天皇
意祁王(オ・ケのミコ)と袁祁王(ヲ・ケのミコ)の兄弟は、父が殺されたあと逃れて動物番をしながら生きていた。その後血筋が認められて都に復帰、まずは弟が二十三代、兄が二十四代の天皇になる。この兄弟は人生山あり谷あり大逆転ぶりも面白いが、互いに譲り合い助け合い力を合わせて困難や戦いを乗り越えている。
【勢力争い、反乱】
古事記においては去った者たちへの記述が多い。
❐大国主から天照大神への国譲り(上巻)
大神様アマテラスだが、弟スサノオが暴れたら岩戸に隠れたり、地上の主を誰にするか悩んだり、案外神様っぽくない。しかし古事記の上巻終盤あたりからは天皇家の血筋になるのだが、上巻では国を譲る側のオオクニヌシたちの話にもページを割いている。
❐ヤマトタケルの物語(中巻)
主流の血筋から去ったものの中でも倭建命(ヤマトタケルのミコト)に関しては古事記で唯一生まれてから死ぬまで、その心情に至るまで記載されている。
ヤマトタケルは、十二代景行天皇の息子で、生まれたときの名前は小碓命(ヲウスのミコト)。父に、兄の大碓命(オホウスのミコト)を諌めよと言われて殺したことから、父に疎まれ(そりゃあいきなり殺しちゃったら警戒されるだろう…)、国中の反乱者たちの成敗に向かわせられる。父は自分の死を望んでいるのだろうかと嘆きつつも従うしかなかった。ヤマトタケルが死んだらその魂は白鳥となって飛んでいった。
❐高行くや(中巻)
十六代仁徳天皇は幼名を大雀命(オホ・サザキのミコト)といった。その弟、速総別王(ハヤブサ・ワケのミコト)は、兄が思いを寄せる腹違いの妹の女鳥王(メドリのミコ)を妻とする。メドリのミコは夫に「あなたはヒバリより高く行くハヤブサでしょう」と歌い反乱を囁く。結局その反乱は失敗に終わり、彼らは共に死んだ。
この「高行くや」の挑発的な歌の部分が高校の教科書に載っていた。
❐古事記版ハムレット?
二十代安康天皇は、親族の大日下王(オオクサカのミコ)を殺し、その妻を奪った。ある時自分の父が叔父に殺されたことを知った7歳の目弱王(マヨワのミコ)は、天皇の首を斬り、配下の都夫良意富美(ツブラ・オホミ)の館に逃げ込む。安康天皇の息子の軍に包囲されたツブラオホミは、自分を頼みにしてこに家に逃げ込んだ王子を見捨てるわけには行かないと、マヨワ王子と共に死ぬのだった。格好いいが格好良すぎる、どこか創作を感じるのだが、この去った者を格好良く哀愁漂うように書くのが古事記なのだろう。
投稿元:
レビューを見る
ページの下部に脚注が詳細に付いており、訳者に「ほらここ、これはこういう解釈で」「ここはちょっと意味わかんないよね」みたいな解説をしてもらいながら読んでる気分になる。名前の羅列も、ただの羅列に終わらず、読み進められました。古事記の無秩序さが魅力的にも見えてくる。
投稿元:
レビューを見る
いやいや、恥ずかしながら読んだことがなかった。日本文学科出身であるにもかかわらず…アメリカ人の友人がマンガで読んでいると聞き、こりゃあ日本人としては読まねばと思ったわけで。
こんなに神がわんさか出てきて、奇想天外、おかしな話のオンパレードだとは知らなかった。因幡の白兎がここにおさめられている話だってことも知らなかった。淡路島が一番最初に作られたとされる島だってことも。
三浦佑之さんという方の「解題」より。
戦前の一時期、古事記は、国民一丸の戦争協力体制を組みあげるために利用された。それが、戦後の古事記嫌いや神話嫌いを作ってしまい、学校教育の現場からすべての神話が排除される原因にもなった。近代天皇制国家が成立して以降の古事記の扱いについてはきちんと生産し、謝った方向へ古事記を連れ出した眼鏡を叩けばよかったのに、古事記に罪を着せてしまったところがある。しかし、古事記という作品には何の罪もない。
過去の歴史を忘れるべきではないが、なんの誓約もなく、とくべつの思想に縛られることもなく、物語としてのおもしろさを享受できる今こそ、古事記にとってはもっとも幸せな時代ではないか。そしてこの機会に、古事記が、あらゆる読者を受け入れることのできる奥の深い古典として存在することを知ってほしい。
謙虚に耳をすまして古代の声を聴く、そのような態度で古事記に向き合うと、現代に生きるわたしたちは、時にとまどいながらも、さまざまなことを教えられる。神話は、古代の人々にとって、哲学であり、教訓であり、歴史であり、科学であり、規範であり、そして何よりもたのしい文学であった。あらゆることを神話に教えられて生きる、神話に耳を傾け、そして語り継ぐという営みは、そのような行為としてあったのだ。
投稿元:
レビューを見る
成立は712年。天地開闢から第33代推古天皇までを神話と記録を織り交ぜながら記録している。稗田阿礼の口述を太安万侶が書きとって編纂して作成したといわれる。
翻訳は本全集の編纂者でもある池澤夏樹。
池澤夏樹はこの翻訳作業をきっかけにのちに小説「ワカタケル」を執筆。そちらでは現代人にもわかるように古代の人々の世界観が池澤夏樹の視点で展開されている。併せて読んでも面白い。
儒教や仏教の教えのなかった時代の物語。現代からするとあまりに義理のない、野蛮な話で彩られたり、どう見ても自国をよく見せんがための拙い辻褄合わせが堂々と書かれている。
はじめの神々が顕現し、クニをかたち作る。しばらくすると神代のクニでスサオノが暴れたりする、どこかで聞いたことのある神話のはなし。そこから神話の時代にまず地上に降りてクニをつくったオオクニノヌシノミコト。ふむふむこの人が初代天皇かなと思いきや、突然アマテラスが息子をこのクニの主にしろと言ってきて横取りする。なんと横取りした息子が初代天皇こと神武天皇。
その後、八代にわたって天皇の系譜が連なるのだが、急にエピソードがなくなり、ただの天皇の生んだ御子たちの羅列がひたすら続く。まさかこれが最後まで続くのか・・・と思っていたら、第十代あたりから、またエピソードが復活する。しかも今度は跡継ぎ争いや騙し打ちなど生々しい話が出てくる。
八代の天皇は欠史八代、大和が末永く続いてきた権力であるかのように見せるために、後日作り出された虚構の天皇とされている。読めば虚構といわれるのも納得。いくら虚構とはいえ、太安万侶ももう少し本物っぽく肉付けできなかったものか。
時代が下るにつれヤマトタケルやワカタケルといった半神話的存在を経て、最終的に聖徳太子(厩戸皇子)といった歴史の世界に接続して終わる。
物語自体を愉しむというよりも、その時代に想いを馳せて読んだ。
それは、もちろん伝承を通じで感じる太古の人々の自然観や死生観といったものの見方といった古事記ありのままの内容を感じるだけではない。
成立におけるmeta情報、大化の改新が起き、天皇を取り巻く体制が変化していく中、「日本書紀」と並んでの国家事業としての歴史編纂。その事務方、太安万侶が散逸した伝承や文書を収集して、体系立てる。さらに、その中では天皇の神格性を高め、各豪族たちとの関係性を血縁によって組み込み、各地域や大社のつながりを神話のエピソードに絡めて、大和国家の正当性を主張する役割を持たせたはずだ。それを担った太安万侶の苦心。更に、やまと言葉と漢字とを融合させて日本固有の日本語の表現を作っていく野心。
物語の登場人物たちの心情はかけ離れた感情の隔たりはあっても、編纂者たちの思考は今を生きる私たちと変わることなく地続きでつながる感情だ。わずか千年と少し前の出来事。
投稿元:
レビューを見る
あるとき、唐突に「古事記とか読んだことある?」と聞かれたことがあって、そのときちょうど古事記を読んだあとだったので自慢気に返事をしたりしたのだけど、よくわかっていたのかというと自信がありません。
あんまり国の成り立ちが…と力んで読みたくないけれど、そういう扱いを受けてきたものであるのは確かで…。
そんな古事記が、池澤夏樹個人編集の日本文学全集の1巻として登場です。
どんななんだろう。
出版によせて、京極夏彦が「後世の人が作った偽物だとしたら、かえって感心します。通俗娯楽小説書きとしては、そのほうが魅力が増すかもしれません」と述べています。
文体はけっこうライトではありますが、手元にある別の現代語訳古事記とくらべても詳細が書かれています。けれど、古事記ですからサクサクと話が進む。
まあ、古事記のポジションをここで語ってもしかたあるまい、ということで、このシリーズに寄せる期待を。
全30巻、どれも楽しみだけれども、中でも高橋源一郎訳の方丈記、島田雅彦訳の好色一代男、穂村弘選の近現代短歌。早く出ないかなあ、でもあまり早くでなくてもいいよ。
これで、しばらく頑張れそうな気がします。