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本が出た頃に、本屋の店頭で気になって、(図書館に入るのを待てず)買ってきて読む。父が読むというので、貸す前にメモ。
1937年の「矢内原事件」が、なぜどのようにして発生したのか、その事件はいかなる出来事として当時の日本社会において理解されたのかを、マイクロヒストリーの手法で明らかにしようとした本。
マイクロヒストリーは、「一見、取るに足りない出来事の詳細に光を当てる歴史学の分野」(p.10)だそうである。
▼本書が、矢内原事件を仔細に解剖することで摘出しようとしている思想的問題はふたつある。その第一は愛国心の問題であり、第二は学問の自由と大学の自治という論点である。…(略)…
これに加えて第三の問題として取り上げたいのは、あるひとつの過去の事件を、相対的に大きな歴史的流れの中に位置づけて捉える場合と、その事件がその当事者にとってどのように理解されていたかを歴史的に再構成する場合との間に生じる認識のズレである。(p.13)
著者も指摘するように、矢内原事件は一般に「戦前・戦中の当局による言論抑圧(ことに帝大粛清運動)の一環として、近代日本史の暗黒面を象徴するものとされている」(p.4)
だが、著者が当時の言論を詳しく調べて論じるところによれば、矢内原事件は「必ずしも学問の自由や大学の自治に対する侵害という意味での言論抑圧事件としては認識されていなかった」(pp.210-211)。そのように認識していた当事者は、東京帝大総長であった長与又郎くらいであったという。
矢内原事件に至る数年は、こんなことがあった。1931年は昭和6年で、1937年は昭和12年である。
1931年9月 満州事変勃発
1932年5月 5.15事件(犬養毅首相暗殺)
1932年9月 日本は満州国を承認
1933年2月 国際連盟が満州国不承認を決議
1933年3月 日本は国際連盟を脱退
1936年1月 日本はロンドン軍縮会議を脱退
1936年2月 2.26事件(蔵相高橋是清ら暗殺)
1936年11月 日独伊防共協定
1937年6月に近衛文麿内閣発足
1937年7月 日中戦争勃発(盧溝橋事件)
▼この六年間、矢内原の時論は、戦争と平和、満州問題を中心に展開している。すなわち、彼の言論活動は、日本の満州政策、国際的孤立化と対中関係の悪化という一連の諸問題に対応するものであった。しかし、それは政策論のレベルにとどまるものではなく、当時の日本の精神状況に対する、より根源的な批判であった。「支那問題」を論じては、日本軍国主義を批判し、「日本精神」を論じては、天皇が神ではないことを弁証したのである。(p.30)
そして、著者が第一の思想的問題としてあげる「愛国心」について。矢内原の愛国論は、「国家の根本原理としての正義」というものだった。
▼矢内原にとって、国家を国家たらしめる根本原理としての理想は正義にほかならなかった。ただし、正義とは「国家の製造したる原理ではなく」、「反対に、正義が国家を存在せしむる根本原理である」。国家が正義の内容を決定するのではなく、正義が国家を指導すべきなのである。…(略)…
国家の理想としての正義は国内��にも国外的にも発言されなければならないが、そうした国内外共通の正義とは平和であると矢内原は主張する。国家間の平和であり、国家内では貧者や弱者を保護する社会の成立・運営を意味する。(pp.42-43)
この理想を基軸とした矢内原の「愛国」は、雑誌などで矢内原を攻撃した右翼の蓑田胸喜などが信ずる「愛国」とは違っていた。蓑田にとっては「あるがままの日本」を認め、賛美することこそが愛国だったが、矢内原にとっては、「あるべき理想」に国を近づけること、国が道を誤るときには批判することもまた愛国なのだった。
矢内原が雑誌論文として発表したり講演で発言したりしたことが、当局の処分対象となり、あるいは蓑田などの攻撃にさらされる。事件の直接のきっかけとなったのは、矢内原が『中央公論』の1937年9月号に寄稿した「国家の理想」論文である(そういう因縁で、この本は中公から出ているのだろう)。
1937年6月に第一次近衛文麿内閣が発足、それから1ヶ月で盧溝橋事件が起こり、いったんは停戦協定が結ばれたものの、「暴支膺懲」の声明を出して全面戦争となった。9月には閣内に、言論統制を目的とした「内閣情報部」を新設(その前身は1936年7月設置の「情報委員会」 →1940年12月に「内閣情報局」に改組される)。
9月号の巻頭に掲載されるはずだった矢内原の論文が削除(不掲載)処分になったのは、そんな頃である。
1940年12月には、「日本出版文化協会」ができる。これは表向きは出版業者の自主団体だったが、実質は内閣情報局の下部機関で、この著者のものは載せるなと出版活動の方針に干渉するのみならず、用紙配分を制限することで言論を抑圧したという。肝心の紙がなければ、印刷物は出せないのである。
この事態を、馬場恒吾の言葉を引いて、著者はこう示す。
▼「私は大東亜戦争の始まる年までは、一週間に一度は新聞に、毎月幾つかの雑誌に政治評論的のものを書いていた。それがだんだん書けなくなって、戦時中は完全に沈黙せざるを得なかった。どうしてそうなったかというと、新聞や雑誌が私の原稿を載せなくなったからである。しかしいかなる官憲も、軍人も、私自身に向かってこの原稿が悪いとか、こういうことを書くなと命じ、または話してくれたこともない。すべてが雑誌記者もしくは新聞記者を通しての間接射撃であった」(p.226)
当局や世間ににらまれた執筆者は書いたものを雑誌に載せてもらえなくなり、雑誌のほうは紙の配分を絞られて出せなくなる。そこのところを、著者はこう表現する。「言論抑圧が激化すればするほど、それに対する告発は公の場から姿を消していった」(p.214、本文はすべて傍点)と。
だから、著者はこうも書くのだ。
▼むしろ重要なのは、【どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアで目にすることがなくなったか】について、把握することではないだろうか。(p.216、【】は本文では傍点)
消えていったもの、目にしなくなったものに気づくのは、ものすごく難しい。建物が壊されて更地になった場所で、それ以前の人の営みを想像するのが難しいように。それでも、なんとか「消されようとしているものごと」には注意を払っていたい��思う。
(10/15了)
p.87
蓑田論文について述べている箇所のスゴイ誤字とルビ間違い
蓋[がい]して → 盡[つく]して
蓑田胸喜の著作『真理と戦争』について引いている箇所に「対象の根本的理解から出発する内在的批判の方法を蓋[がい]して究極原理を闡明し…」とあり、このルビまで振ってある「蓋[がい]して」がどうしても解せないため、何か手がかりがないかとネットで探す
→google booksで『真理と戦争』のページ画像発見
http://books.google.co.jp/books?id=oB2X5j3WNTAC&printsec=frontcover&dq=inauthor:%22%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C%22&hl=ja&sa=X&ei=dgAwVLLYJpeD8gXR0oCICg&ved=0CDwQ6AEwBA#v=onepage&q&f=false
p.87の引用箇所は、序の2ページ目なかほど、この字はどう見ても「盡[つく]して」(いまの字で書くなら「尽くして」)だ。
→ということを、中公新書編集部にメールしてみたところ、やはりミスであるらしい。「再版の機会があれば、必ず修正を反映する」とお返事をいただく。
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特定秘密保護法が、今日施行される。
本書は、特定秘密保護法とは直接の関係はない。
しかし、特定秘密保護法を、国民目線からは不完全な状態で強硬施行する政府と、選挙のさなかその政府与党が圧倒的多数で勝利するといった提灯記事を撒き散らすマスコミ、知識人といった力は、言論弾圧を生み出す原動力である。
日中戦争勃発直後、東京帝国大学教授矢内原忠雄はその平和主義的主張を発表したことにより、辞職に追いやられる。
現政権の意に沿わない政治的見解を持つ言論人が、一人また一人を影響の大きいマスメディアの舞台から下ろされていく。
放送は公平に行うべきだ。偏った考え方の出演者が意見を述べることは好ましくない等々の理由によって。
そして、沈黙させられていった人の意見は聞くことが出来ない。
「沈黙させられている人は、沈黙させられているという事実についても発言することができない。」と著者は本書を締めくくる。
しかし、いま、我々は一人ひとりが情報の発信者、伝播者となり得るツールをその手にしている。政府、メディア等の言論弾圧は過去にあったし、いまも正に行われているのかもしれない。しかし、それがあることを知って、必要な時にできることをする。それは国民としての権利であり義務であると思う。
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カバンの中で眠っていた本。
矢内原忠雄についてもっと知りたいとの思いから購入。
事件当時の矢内原周辺の慌しさをマイクロヒストリーの観点から分析。内容はマニアック。読んでいる本人もマニアック。
ということで、矢内原忠雄著作集を購入したくなった次第。
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将基面貴巳『言論抑圧 矢内原事件の構図』中公新書読了。
『中央公論』掲載の「国家の理想」が反戦的とされ辞任に追い込まれた矢内原忠雄事件は戦前日本を代表する政治弾圧の一つだ。本書は歴史を複眼的に見る「マイクロヒストリー」の手法から、言論抑圧事件に関与した人物や機関を徹底的に洗い直し、その複雑な構造を明らかにする一冊。
戦前の言論抑圧事件の構造とは、権力からのプレッシャーを軸に、右派国家主義者からの踏み込んだ攻撃と過剰なまでに遠慮する大学というもので、そのデジャブ感にくらくらしてしまう。
矢内原失脚の要因には、当局の抑圧と国家主義者からの批判だけではない。すなわち、学部内の権力闘争や大学総長のリーダーシップの欠如も大きく関わっている。著者は大学の自治能力の欠如に、権力の過剰な介入を招いたと指摘する。
矢内原事件の発端は、「国家の理想」という論考だ。キリスト者としての「永遠」の視座から現状を「撃つ」理想主義の立場から「現在」の国家を鋭く批判した。当時は日中戦争勃発直後で、大学人にも国家への貢献が強要されていた。矢内原事件は起こるべくして起こり、大学内からも「批判」をあびることとなる。
弾圧のきっかけをつくったのは言うまでもなく蓑田胸喜だ。蓑田は通常、狂信的右翼で済まされるが(蓑田研究も少ないという)、著者は蓑田のロジックも丁寧に点検する。蓑田によれば矢内原の立場とは、新約聖書より旧約聖書を重視する「エセ・クリスチャン」(そして蓑田こそが真のキリスト教認識という立場)というもので、この論旨には驚いた。
愛国という軸において矢内原も蓑田も一致する。しかし両者の違いは、蓑田が「あるがままの日本」を礼賛することであったのに対し、矢内原の場合は、現在を理想に近づけることとされた。二人の眼差しの違いは、キリスト者ならずとも、「あるがまま」を否定する度に「売国奴」連呼される現在が交差する。
矢内原事件はこれまで矢内原の立場からのみ「事件」として認識されてきた。事件は事件である。しかしその豊かな背景と思惑を腑分けする本書は、およそ80年前の事件を現在に接続する。「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように……」(矢内原忠雄の最終講義)
蛇足:矢内原事件に関連して、無教会キリスト者たちも一斉に摘発を受ける。しかしながら、矢内原の東大辞職に関しては、矢内原が伝道に専念できるとして歓迎的ムードであったというのは、ちょと「抉られる」ようであった。これこそ、「●●教は××」という通俗的認識を脱構築するものなのであろう。
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揚げ足取るヤツ、それの周囲で騒ぐヤツ、それを煽るヤツ、それを利用するヤツ。事件そのものは単純、些細だけど、周囲が騒ぎ立てて事態を悪化させて、結局、煽った本人の首を絞めるということ。
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我が愛する桐生悠々は「関東防空大演習を嗤ふ」という社説を
書いて、信濃毎日新聞を追われた。
ただの温泉旅行の写真が共産主義者の集まりだとされたのは
横浜事件。
美濃部達吉の天皇機関説は国体に反するとされ、不敬罪で
告発された。
国が戦争へと向かった時代。言論・出版・集会の自由は
幾重もの鎖で絡めとられ、国が向かう方向に異を唱える
者には厳しい視線が向けられた。
1937年。東京帝国大学経済学部のひとりの教授がその職を
辞した。矢内原忠雄。戦後、強く請われて東京大学の総長
となった人物だが、彼は雑誌に掲載した論文と講演での
発言を問題視され象牙の塔を追われた。
無教会主義キリスト教の内村鑑三に師事した矢内原は信仰
に根差した平和主義者だった。日に日に軍靴の響きが高く
なる日本に警鐘を鳴らそうとした。「ひとまずこの国を
葬って下さい」と。
右翼の論客・蓑田胸喜に批判されたばかりか、同じ東京帝大
経済学部の教授たちのなかからも矢内原に批判的な意見が
続出する。
矢内原が教授会で陳謝することでことは収まるはずだった。
それが一転、辞職となったのは何故か。
周辺の人々が書き残したこと等の資料を引き、俗に矢内原
事件と呼ばれる一教授の辞職へ至る経緯を追っているのが
本書。
大学の自治vs国家権力だけではな。東京帝大内部の派閥
抗争、理想主義者と国家主義者の愛国心の軸足の違い。
それらが重なって事件は起こったのかと思える。
興味深い題材ではあるのだが、文章の読み難さで文脈を
理解するのに時間がかかった。
戦時下での出来事を現在に置いて語ることは無意味かも
しれない。しかし、シンクロする部分もあるのではないか。
安倍政権になってから、政府のやることに異論を唱えると
「日本人じゃないだろう」「左翼か」との雑言を見かける
ことが多くなった。
何度も引用しているクロンカイトの言葉じゃないが、国の
やることを無条件で受け入れるだけが愛国心じゃないと
思うんだよね。
言葉を封じ込めようとするのは、何も戦時下だけじゃない
のだよなぁ。