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最近読んだ矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』とこの本の第2章「ほんとうの日本人」で主張していることとはほぼ同じと想えます。つまり、日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国であり、そして従属国であるという事実それ自体を隠ぺいしているということです。田中角栄氏のロッキード事件における逮捕や鳩山由紀夫氏の早期退陣にはアメリカの意向が大きく反映していたことを知りました。いまの政府はアメリカの良き僕に浸っていようとするかのようです。
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今は、この前の負けた戦争とこれから始まる戦争の間(戦争間期)であるという箇所などなど、とても考えさせられる本でした。
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日本人へのテロの脅威、東京五輪誘致の成功要因、スパイ活動などなど。違う局面からの見方になるほどと頷いた。
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歴史に「もしも」を導入して、「強い現実」と「弱い現実」を考えてみる。
歴史学では歴史に「もしも」はない、と言われるけれど、この見方、面白いなと思った。
戦後の文化、
映画:明治生まれの監督たち(戦中すでに大人)
漫画:昭和生まれの若者たち(戦中10代前半)
から復興。
一方、文学の復興は遅かった。
一線で活躍するであろう20・30代の若者:大正生まれが戦争で亡くなって、ごそっといなかったから、というのが戦争とは何かということの一側面を表しているように思った。
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哀しいけれど
本当に その通りになってしまっているのが
たまらなく 哀しい
ちょうど「イスラム国」のニュースが飛び込んできた
時に読み進めていたので…
せつないほど
その通り(内田さんが予言している)に
なってしまっている
非常時になにもできずに
フリーズしてしまっている
この国の現状が
たまらなく 哀しい
よりによって
こんな時に
この本を読んでいる自分
何もできない自分が
哀しい
なにやら
感傷的になってしまいました
この一冊を読んだ人と
無性に馬鹿話がしたい
気持ちで一杯です
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ぼくたちが敗戦で失った最大のものは、「私たちは何を失ったか?」を正面から問うだけの知力です。あまりにも酷い負け方をしてしまったので、そのような問をたてる気力さえ敗戦国民にはなかった。その気力の欠如が戦後70年続いた結果、この国知性は土台から腐食してきている。僕にはそのように思えるのです。ですから、僕たちはあらためて、あの戦争で日本人は何を失ったのかという痛々しい問を自分に向けなければならないと思います。
ミッドウェー敗戦の時点で、「これまでの政策は失敗だった」という判断を下し、戦争指導部を「全員入れ替える」くらいのラディカルな組織改編が出来ないのであれば、もうその時点で降伏すべきだったのです。
普通の敗戦国
異常な敗戦国
アメリカに負けた後に、次にアメリカに勝つためにはどうすればいいかという発想をまったくしなかった。できなかった。はっきり指摘すべきですが、これは異常なことです
高い城の男 フィリップKデック
敗北の検証が自力でできないくらいにまけた。これが日本の問題
戦後の日本のこの体制というのは、「敗戦した」という事実の帰結ではなく「敗戦の原因を自力で検証できないくらい徹底的に敗戦した」という事実の帰結だと思っています。「敗戦の否認」というのは「不愉快な事実から目を背ける」誰にも見られる病的傾向というよりはむしろ「不愉快な現実を直視するだけの精神力も体力も残らないほど徹底的に負けた」という日本に固有の具体的事実に由来するのではないかと僕は思います。
ドイツとイタリア 最終的に「自国民による敗戦原因の究明と戦争指導部の訴追」というぎりぎりの最低限は戦後何とか持ちこたえた
イタリアは最後の一年枢軸国側と連合国側についてイタリア人同士で内戦が行われていた
ドイツ ヒトラーとナチスにすべての戦争責任を負わせて、彼らを排除することで穢れを祓うという手が使えた
ヒトラー暗殺計画
ヒトラーと戦って英雄的に死んだ、顔と固有名詞をもった生身のドイツ人がいて、エリート軍人で伯爵だった(シュタウフェンベルグ大佐)
司馬遼太郎 幕末から日露戦争までの日本を「ほんとうの日本」 1906-1945までの40年間の魔の季節においていつわりの日本、戦後また本体にもどったという物語をつくろうとした。(ドイツ人が作ったように)
日本のシュタウフェンベルグ大佐はいなかった
日本には亡命政府がなかった。レジスタンスがいなかった。パルチザンがいなかった。
戦争中にも一貫して戦争指導部に反対し、戦争が終わった時に国民を代表して大日本帝国の引き継ぎを要求できる人がひとりもいなかった
戦後日本が主権国家になれなかったのは戦争に負けたからではありません。負けた後に、自力で戦争責任を糾明し、なぜこんな戦争を始めてしまったのかを明らかにし、「次は勝つ」ことをめざしてシステムを再構築するという「ふつうの敗戦国」の取る道をとれなかったからです。ド・ゴールやシュタウフェンベルク大佐のような戦前と戦後を架橋できる戦争主体を引き受けることができる���間がいなかったということです。東京裁判が明らかにしたのは、戦争指導部には戦争主体を引き受けることができる人間がいなかったということです。司馬遼太郎の企てが挫折したのは、第二本帝国臣民としてまっすぐに戦争責任を引き受け、それによって戦後日本国民の自己陶冶の範となるような「英雄」がいなかったからです。
アメリカの許可を得ずに日本が展開した外交の最後の企ては、1972念に田中角栄と周恩来の間で取り交わされた日中共同声明だったと思います。
戦後アメリカに逆らって独自外交を展開しようとした総理大臣が長期政権を保った事例はありません。
戦場にいたことのある人達は、「カオス的世界にも一筋の条理があり、それが見える人間がいる」ということを経験的にしっており、戦場にいたことのない人達は、そういう時間が持てないということです。
「平常時思考」をする人は、「どうしていいかわかるときには、正解を選ぶ。どうしていいか正解がわからない時には、なにもしない」という原則に従います。とりわけ受験秀才たちは後藤を病的におそれるので、「どうしていいか、わからないときには何もしない」というルールが身体深く内面化している。
けれども、戦場というのは平時のルールが適用できない場所です。「どうしていいかわからないこと」ばかり連続的におこる。だから「どうしていいかわからないときにはフリーズする」タイプの人間はすぐに死んでしまう。「どうしていいかわかる」人だけが生き残る
非常時対応とうはどういう人間的能力か
どのようなカオス的状況のうちにも一筋の条理が通っていて、それをたどれば生き残れると信じる才能
非常時用人材を確保するために企業の採用担当者にお勧めしているのは、人事採用に際して、「バカ枠」を用意していおくこと 30人に一人くらい
マルクス(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)
ヘーゲルは、すべての世界史上の大事件と大人物はいわば二度現れる、と言っている。ただ、彼は一度は悲劇として、二度目は茶番として、と付け加えるのを忘れた
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今の政治に疑問を少しでも疑念を抱いている人は読んでいて本当に損はない本だと思います。
戦後70年のアメリカとの関わり、大きな大きな見えざる力が働いていること、そして人類の歩んできた民主主義の歴史に逆行するような改憲の動き。
根本に流れているのは経済成長を最優先させる政治・スタイル。国民も踊らされていないで、意を持って行動をしよう。
私は内田さんの考えにはすごく同感できることが多い。
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先の大戦で日本が喪ったものは何か。著者はそれを主権だという。勿論国家として独立を認められているのだから、その意味で主権を持たないということは形式的にはないはずだが、実質的な意味ではどうなのかという議論だ。実質的に主権を持つために力が必要だ、という理屈はわかりやすいけれど、個人的には正しくないと思う。何故なら、どれだけの力が必要で、その力を得るためにどれだけのコストがかかるのかという議論がなされないまま一人歩きしているように見えるからだ。
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当初『街場の二十二世紀論』というタイトルになるはずが、「どこかで読んだ話」をばっさり切ったら「戦争の話」と「危機的状況を生き延びる話」しか残らなかったことから『街場の戦争論』になったと。副題をつけるとしたら「想像力の使い方」になるだろうとのこと。
確かに日頃から内田先生の著書や発言に親しんでいる人にも新鮮に映るはず。とはいえ、先生の思考の深め方が変わるわけではないから、違和感なく馴染める。
どうか、内田先生の予測が大外れしますように。全てが先生の杞憂でありますように。刊行から半年足らずで既に当たりかけているような気がしてしまう不安を抱えつつ・・・それでもそう願うしかないのだけれど。
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2015.4.30
前半部分で日本はアメリカの従属国であることがしつこく書かれていて、あまりというか全然普段はそんなこと考えてないんだけど、きっとそうなんでしょう。ほんとアメリカってのは巧妙ですね。日本の政策決定とか選挙結果とかほとんどはアメリカの意向のままに動いてるのかもしれません。太平洋戦争までの日本(大日本帝国)の勢いを完全に、徹底的に潰したかったんでしょう。
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太平洋戦争で日本が失ったものは何かを、じっくりと炙り出す骨太な一冊。見えてくるのは戦後という時代の歪み。白井聡の『永続敗戦論』と合わせて読みたい。
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著者とは年代がほぼ同じ。安倍政権の右寄り危険性については私も全く同感。日本は中韓にいつまで謝らないといけないのか。著者は相手が「もういい」というまで、無限責任という。舌鋒鋭く読んでいて痛快である。「狼少年心理」で危険性を訴えるあまり、その不幸の実現を望んでしまう!ということは著者の言うとおり。心せねばならない。日本が未だ米国の属国であるという主張は些か極論のように思えるが、恐らく講演での内容を文章化するとこのようになるのかもしれない。歴史に「もしも」を導入して、その場合の動きを推測するという提案は、知的な訓練として重要なことだと思った。「1942年6月のミッドウェイ後に戦争を止めておれば」その後の展開が大きく異なったことはいうまでもないが。鶴見俊輔は「戦争が終わったときに負ける側にいたい」という理由で開戦後、米から帰国した!本当なら凄いこと。
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最近の内田先生の本の中で特に良かった。語り下ろしが良かったのだろうか。
"僕たちは未だに韓国から先の戦争中の従軍慰安婦制度について厳しい批判を受け、謝罪要求されています。日韓条約で法的には片がついているとか、韓国には十分な経済的な補償を済ませているから、いつまでも同じ問題を蒸し返すなというようなことを苛立たしげに言う人がいますけれど、戦争の被害について敗戦国が背負い込むのは事実上「無限責任」です。定められた賠償をなしたから、責任はこれで果たしたということを敗戦国の側からは言えない。戦勝国なり、旧植民
地なりから、「もうこれ以上の責任追及はしない」という言葉が出てくるまで、責任は担い続けなければならない。” 21ページ
"靖国神社に終戦記念日に参拝する政治家たちのうちには「中韓に対する謝罪は済んだ。いつまでも戦争責任について言われるのは不快である」と言い募る人が少なくありません。僕はこの考えがどうしても理解できないのです。彼らがもし自分たちのことを大日本帝国臣民の正当な後継者だと思っているのなら、祭神である死者たちに深い結びつきを感じているつもりなら、死者たちに負わされた「責任」の残務をこそ進んでわがこととして引き受けるはずです。それによって死者たちとのつながりを国際社会に認知させようとするはずです。” 79ページ
”民主制も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステムです。政策決定を個人が下す場合と合議で決めるのでは所要時間が違います。それに憲法はもともと行政府の独創を阻害するための装置です。民主制も立憲主義も「物事を決めるのに時間をかけるための政治システム」です。だから、効率を目指す人々にとっては、どうしてこんな「無駄なもの」が存在するのか理解できない。
メディアも理解できなかった。そして「決められる政治」とか「ねじれの解消」とか「民間ではありえない」とか「待ったなしだ」とかいう言葉を景気よく流した。そうこうしているうちに、日本人たちは「民主制や立憲主義は、『よくないもの』なのだ」という刷り込みを果たされたわけです。
現在の安倍政権の反民主制・反立憲主義的な政策はそのトレンドの上に展開しています。国民たち自身が自分たちの政治的自由を制約し、自分たちを戦争に巻き込むリスクが高まる政策を掲げる内閣に依然として高い支持を与え続けているのは、「民主制や立憲主義を守っていると経済成長できないなら、そんなもの要らない」と思っているからです。 143ページ
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少しだけあとがきが良かったです。『「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていることを、別の視座から見ると別の様相が見えます」ということを述べているだけです。』議論をするとき、収束に向かうよう土俵に乗っていないといっていろいろな発言を排除していく進め方が多いような気がしますが、土俵から転がり落ちたときに見えたものの中に良いありようが含まれている可能性があることを忘れないようにしたいと思いました。
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内田先生の本を普段は手に取られない方はタイトルで敬遠するかも…とちょっと思っていましたがこれは今こそ読まれるべき本だと感じましたね。
出版からちょうど一年ほど経つのですが、今の日本の現実は(残念ながら)内田先生のおっしゃる通りになってきています。出版当時出なく1年後の今読んでよかったととても思います。
何だかよくわからなかった「戦争へ向かいたがる空気になっていく」理由や過程、そういう人たちが目指しているものが良くわかりました。次の日の新聞の記事を読む目が前の日と変わっているのを感じました。
本書を読んでいる最中、目からうろこが落ちっぱなしの気持ちでした。良い悪いではなく「全く違う文脈の中で眺める」「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていることを、別の視座から見る」ということはものすごく重要なことだと思いました。
自分と違う視点や考え方であっても否定や反論をせず、ちょっと止まって考えてみるのも必要なことだなと考えました。
内田先生のおっしゃるように「想像力を広く使う」のを忘れずに社会を見てゆかなければと思いました。
これからも内田先生の刺激ある言葉を受け止めて続けて行きたいですね。