紙の本
「学問の力」を読んで
2016/11/07 20:00
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:となりのトトロ - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルに圧倒されたが、本書はそんなに難しいことが書かれているとは思わない。著者は「まえがき」において自分のスタンスを語っている。
学者という職業は、「人生を気楽に過ごす高等遊民のようなもの」という。面白い。上から目線で、学生たちに学問を教えてやるというのではない。本書では、学問や教養について、著者の経験を踏まえた主張がされている。それは、哲学・思想、政治・経済に関連することもある。
全体を通じて、著者のいわゆる保守主義を垣間見た。それはアメリカ的な自由主義とは反するもののようである。
まえがきで著者は、今日の学問は「故郷を失った学問」と指摘し、学問の再建には、「故郷」を見出すことが必要と説く。
最後まで読むと、著者の指摘の意味がよくわかる。
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語り下ろしだけあって若干適当なポストモダン総括が飛ばしすぎてて楽しかったです。ニューサイエンスとポストモダン運動の混同とかね。
佐伯啓思ファンにはとてもいい本だと思います。回想や自分の学生時代の話、その時代の雰囲気がかなりの紙幅を以って語られているので。
佐伯さんの思想で一番自己論駁的なのは、国という枠組みを無批判的に前提としているところです。ネーションステイト、まさに西洋的な出自の概念(ウェストファリア条約に、絶対王政下の臣民意識、何を思い出しても構わないですが)です。しかも、極めて近代的な概念です。これについてだけは、佐伯さんが問題としているところを見たことがありません。これを説得的に展開できない限り、佐伯さんの主張は無内容なものになるのではないでしょうか。
戦後民主主義を、クラスにおける教師(こいつが解答を持っている)と生徒に例えている箇所があります(例えているというよりは、相似的に見ているのですが)。先生の答えを聡くも気付いて、うまく振る舞った「いい子ちゃん」がクラスのリーダー的になっていく、と語られています。もちろん、批判的に。
そのすぐあとでは、生命尊重主義を否定するわけではないと断りながらも、それをゴールであり目的のように設定するのはおかしいと主張されています。もちろん、そうです(アホでなければ左翼だろうとそう考えていた/いるでしょう)。しかし、佐伯さんはその後で、それは出発点であって、そこから目指すべき価値や理想を、土着的な素材を使って形作っていくべきだという。
先のクラスのたとえを思い出してください。形作られた理想なるものを、教師が用意している「解答」に、それに向って日々を生きる私たちを、クラスにおいて教師との距離感のゲームに置かれる生徒たちに読み替えることができるのではないでしょうか。
日本における独特な「理想」なるものを、うまく読み取って、適切に振る舞うことのできた「優等生」と、そこからは疎外されざるを得ない「劣等生」「不良」「外れもの」。社会や国の目標として、明確なゴールを設定することを、このロジックで正当化することは無理筋だと思います。
クラスからあぶれた者に佐伯さんは共感を示しているのですが、自身の左翼批判ロジックによって佐伯さんの主張は論駁されることになるかと思います。主張や信条先行で、言葉を組み立てすぎてはいないでしょうか。土着的なもの/日本的なものを利用すべきだという立場には、一定の共感を寄せるのですが、、、
四章における「リベラリズム」というラベリングもさすがにずっこけました。政治思想におけるリベラリズムと、市場競争を謳うような新自由主義、それから合理主義、リバタリアニズムなどを一緒くたにします。さすがに無理があるでしょう。
「近代主義」「科学的な合理主義」「合理的な主体」なるものを前提している思想を、リベラリズムと佐伯さんは呼ぶのですが、フランクフルト学派やダーウィンが思想に与えたインパクト(アメリカの政治思想や、プラグマティズム)をどのように捉えるというのでしょうか。大まかに言って20世紀以降の哲学は、「理性過信」「合理性��もたらす非合理性」に対する反省抜きには成り立たないものになっています。先生が置いた三つの前提をピュアに信じている思想家がどれだけいるというのでしょうか。
リベラリズムの無力として語られているのも、「他者の生き方を好まないまでも、少なくとも認める」態度を持つような市民を、社会の構成員として想定しているだけのことです。他者の生き方を破壊するようなテロ行為は、リベラリズムからは認められない。ただ、それだけのことです。
「個人の生き方の相互調整」という問題については、フィシュキンの著作などを当たればわかるように、十分リベラリズムの枠内でも対処可能です。
佐伯さんのリベラリズムに対する攻撃は、対象の曖昧さ/論法の粗雑さが見られます。
佐伯さんが文化圏ごとの超越性によって語っているイメージは、完全にハンティントンの『文明の衝突』ですね。超越性モデルを通じて、文化圏を跨いだ感情移入が可能になる……というアイデアは面白いのですが。。。
他文化圏に属する国家の行動を、超越性モデルを通じて「理解」したところで、対立は収まるどころか、「それゆえに/かえって」許せなくなるのではないでしょうか。現実もそうでしょう。
宗教研究本、宗教に関する新書、特集した雑誌が売れるのは、超越性モデルを通じて他の文化圏を理解したいという気持ちの現われでしょう。佐伯さんの見通しは現実に実践されている。しかし、実践されておこっているのは、「あいつらの行動のロジックはわかった。だからますます許せなくなった/わからなくなった」ではないでしょうか。
五章が白眉。しかし、ここを読むにつけて、五章にあるような正しく保守たる佐伯さんはどこに行ってしまったのかと思う。新潮新書から出てる、つまんな時評では単なる自民党シンパになってしまっている。
過去を想起し、社会秩序の劇的な変化にブレーキをかける。流れを重視して、耳にいいことを言う体制には常に懐疑の視線を送る。……五章に特徴的な保守本流の佐伯啓思は、単なるウヨになってしまったのでしょうか。新潮新書の残念なシリーズは、佐伯さんの気の迷いだったらよいなと思うのですが。
今回は途中から、ここでメモを取りながら読んでいました。
今回もいい読書でした。
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【要約】
「知の芸能化」と「専門主義化」が進む現状に学問の危機を訴える。普遍的な知識であるとされる近代科学は西洋から出てきた学門であるため、日本に完全に適用できるわけではない。しかし、グローバリズムの名のもとに西洋科学が世界中に浸透しつつある。しかし、学問はそれを考える内面性に大きく依拠しており日本の学問は「日本人の宗教観や歴史観、美意識」を拠点にすべきである。学問の危機は翻っては日本社会のそうした共通の価値観や拠り所の危機ともいえるのである。学問には「故郷」が必要なのである。
【気になったところまとめ】
もともと保守が伝統を守りつつ、漸次的に問題点を改良していこうとする考え方なのに対して、革新は一挙に変化をさせて社会を改革しようとする考え方であるが、戦後冷戦期に共産主義との戦いのために日本の保守がアメリカの保守(自由と民主主義をスローガンとするアメリカの建国の精神)を「保守」としてしまったため本来「革新的」なはずの個人主義や自由主義が「保守」になってしまった。
【感想】
わかりやすい文章だったが、昭和の暮らしにこそ日本の精神性が残されていた。現代はそうしたものが喪われてコミュニケーションの基盤がなくなっているという議論はノスタルジックで少し陳腐かも。「日本」というくくり方をすることで、都市と地方、現代と過去をいっしょくたにしてしまうと、各地域ごとの「風土」に根付く精神が汲みつくされないのでは?
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冒頭で「体験的学問論」といわれているように、著者の主観と体験に基づき、「学問」に限らず隣接の思想や政治についても書かれている。特に政治に関する論説は本書の半分を占める。ヴィーコ、ベーコンの古典的な学問論、中山茂の学問の史的アプローチ、新堀通也らの社会学的な研究とは異なる。読み手側は、シンボリックに題された「学問の力」という表題をまえがきから、まず理解することが必要となる。
現状の大学におけるサービス産業のような側面を憂い、「教養の衰退」と「故郷を失った学問」(pp.16-17)を指摘し、現代の大学に警鐘を鳴らす。本書にはこの幾分悲観的・批判的な主張が通底している。大学改革を生業とするテクノクラートには少々耳が痛いかもしれない。
※クーンのパラダイム論で全て説明してしまうのは短絡的かもしれないが、大学経営政策の研究や高等教育論は、普遍的真理の攻究ではなく、研究者や輿論が支持したパラダイムに過ぎないということを本書から発想した。
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「学問」とは生の充実のためにあることを改めて教わったと同時に、自分の考え方があながち間違っていなかったことを確認できた本。
自分のルーツを知ることなくしてグローバル化に首を突っ込むべきではない。
学問が「成果主義」に流されていくことで、高校以下の教育にも様々な悪影響が出ている。
こうした流れを真に受けたらどうなるのか、もし破滅に向かっているのであれば、それをどう修正していくのか、自ら考えなければならない(もっとも、自分一人が考えたところでそうそう流れなど変わらないけれど)。
表層的で偏頗な知識ではなく、故郷の伝統・文化にしっかり根を張りつつ総合的にものを見、考えられる人間の必要性を改めて思った。
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タイトルからは思いもよらない内容であった。
戦後の日本については、団塊世代らしい著者の経験を踏まえて、昭和40年代ころの流行歌などを取り入れた記述があるが、ある程度以上の世代でないとピンとこないだろう。
自由主義と社会主義と保守主義との対比をもとに、日本における政治思想の状況を説明している箇所は、興味深い。
著者は、社会思想や社会経済学を専攻されており、他の著書と併せて読みたい。
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うーむ、よく分からん。途中から全共闘の話やその時代の歌手の話まで出て来るとその時代を知らない人達には時代の空気がうまく伝わらないんじゃないかな。途中で放棄。
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ー 私は一流大学に入ったものは大半はふたつに分かれるような気がしています。ひとつは、自身の無意識のインチキに気づいていないもの、もうひとつは、そのことに気づいており、自分自身の学歴エリート性に大変なコンプレックスをもっているもの…後者は、だからこそ、弱者の味方であるというポーズを取り、反権力を標榜する ー
ここで言うインチキとは、予め決められた正解を言い当てるシステムで成果を収める事であり、それは、自らの頭で考える事を放棄し、単に期待された空気の中で優等生的振る舞いをした結果に過ぎない。
では、本来の教養とは。また、頭の良さとは。読後の私の頭の整理では、学ぶとは、知識を増やし、知恵を養い、知能を強化しながら、それらを感受し着想する力を得る事である。多様な価値観に触れる事で解法を受肉するという事だ。本著の中にも、頭の回転の速さとは単に運動神経の問題だというような発言があり、私もそう思う。私の整理によれば、特に文系学生は、どれだけ本を読み、人と価値観を交換したかが、教養を深めるために重要で、理系はこれに加え、ツール(公式含む)の使い方も含めた技能の獲得と、それらを用いた実験を重ねる事が学業となるのではないか。勿論整理は単純化したもので、統計学や外国語が文系のツールにもある事は追記しておく。
さて、大切なのは、教養を何に用いるかである。私は、その目的は単に文明の維持にあるのだと考えている。そしてそれは、遺伝子の集合体的目的であり、彼の少ない利他的な側面だろう。
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第1章 学問はなぜ閉塞状態に陥ったのか
第2章 体験的学問論―全共闘と教養主義
第3章 「知ること」と「わかること」
第4章 現代はなぜ思想を見失ったか
第5章 「保守主義」から読み解く現代
終章 学問の故郷