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H13年に大学の「史学概論」の課題ではじめて読んだ。
センセーショナルな出会いでした。
ほんと、出会えて感謝の本。3度目かなちゃんと読んだのは。
シュトレーゼマンについてとロビンソンの死は、レポートの課題だったから、穴が開くほどよんだっけ。今読み返してもやはり新鮮。
とくにロビンソンの死についてはいい。至極納得なのであります。
歴史を見るとは、現在を見ることと同じこと。
歴史について書かれたものを読むならば、その書かれた時代について知らなければ、正しい判断はできない。
といって、その判断すら、現在が反映されてる判断なのだ。
歴史とは終わった過去を知るものではなく、過去を通して現在を見るもの。いや現在を通して過去を見るもの…
どの解釈も最終決定が下ることがない。
終わらないストーリー(笑)
50年前のこの講義で、20世紀の革命は18世紀のフランスのそれよりも影響が大きいと書いてあったけど、さて、50年後の今私はあまりそうは思わない(20世紀はほぼ無知でありますが)。本の中にありましたね、時間がたてばたつほど客観性が増す。まさにそれだわね。
難しいところも確かにたくさんありますが、面白いところもたくさん。
楽しい。
すばらしい本です。読めて幸せ。
ただ、古いので少々翻訳が読みづらい。
講義録なのだから、「です・ます」調よりは「である」調のほうが読みやすいと思う。言葉が丁寧すぎる。
英語で読めたらいいな。一応検索してみるか。
ありがとう、カー教授!
(H24.5 自)
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1961年の1月から3月にかけて行われた連続講演を編んだもの。その2年後に生まれた私が、ちょうど50年後に読んだことになる。
http://sessendo.blogspot.com/2011/09/eh.html
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歴史とは何かを定義した本。
漠然としていて、自分にはよく理解できなかったが、部分部分は理解できるところもあった。
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(1967.09.07読了)( 1967.07.01購入)
(「BOOK」データベースより)
歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない。複雑な諸要素がからみ合って動いていく現代では、過去を見る新しい眼が切実に求められている。歴史的事実とは、法則とは、個人の役割は、など歴史における主要な問題について明快に論じる。
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第1章では、歴史家について、ケンブリッジ近代史を引用して解説している。
第2章で、社会と個人について整理している。
第3章は、「歴史と科学と道徳」である。
注なども豊富で、歴史に親しむ際に、読んでおくとよい本である。
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引用できるような良い言葉がたくさんあったわりに、筆者が言いたいことがいまいちピンとこなかった。
ようは絶えず歴史と向き合い続ける姿勢、動き続ける歴史にたいして動き続け理解を深める姿勢が大事ということなのか。
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読まずにいたことを後悔・・・
少なくとも大学入ってすぐくらいには読むべきだった。
これから何度も読んで咀嚼したい
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従軍慰安婦・領土問題と歴史が絡むような問題が噴出している昨今。ぜひ一読していただきたい。様々な人が歴史を語る中でそもそも『歴史とは何か』ということを今一度見つめなおすべきなのではないでしょうか。
『危機の20年』と並ぶE.H.カーの代表作。
歴史と物語はどう違うのか?歴史家の恣意はどこまで許されるのか?歴史を評価するとはどういうことなのか?
いずれに対してもカーは明確な答えを述べるわけではありません。様々に語られる歴史をしっかりと咀嚼し、おのが信念と覚悟を持ってその価値を判断しなさいと述べるのみです。
この本については、「歴史とは過去と現在の対話である。」とかまとめられることが多いですが、実際には更に踏み込んで「歴史とは過去と未来の対話であり、歴史とは過去と"私"の対話なのである。」としていると思います。未来に対して責任のある個人が過去と向き合い、そこから意味を引き出す行為こそ「歴史を語る」というのでしょう。
そういう意味では歴史を語る人にとってはもちろん、歴史を読む人・聞く人もふくめたすべての歴史と向き合う人へ読んでいただきたい一冊です。
この講演が行われた時代のせいか、微妙にソ連の評価が高かったりして、まさに講演で述べられていることがそのまま本に反映されていたりするのも面白いことです。
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「歴史とは現代と過去との対話である。」
歴史を知るにはまず歴史家のことをよく知らなければならない。
歴史は客観的な事実と、歴史家の主観的な選択との狭間を揺れ続ける。
歴史的事実は多数者によって作られる。それを歴史家が重要なものとして選り分けた時はじめて歴史となる。
「歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話」
あんまり驚きはなかった…かな。
なにしろ読みにくい。当たり前といえば当たり前だが、引き合いに出されるのはヨーロッパの歴史だから基礎知識がないときつい。現在ではその文章は充分にペダンティックだと思うし、遠回しの皮肉とかねー……。
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歴史とは、客観的事実の記述と羅列などではなく、現在から過去に光をあて、過去を通して現在を知るという相互補完てきで創造的な作業に他ならない。
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難しかったです。ただ例を挙げて説明されているところは、大体分かりました。とくに、ロシア革命で置き換えてる所は、ロシア研究家だけあってよかったです。
同時代の他の歴史家を結構辛辣に批判している所は、あとで問題にならないのかな、と心配しました。
最後の章で、日英同盟に関してだけ日本の言及がありました。この時代のヨーロッパの歴史家からしたら、東洋の国なんてこんなものなのか、と思いました。
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歴史学の名著。
内容は表題のとおり「歴史とは何か?」に対する問いである。
19世紀にマルクスは「世界は合理的な自然法則によって支配されている」という立場から歴史を語ったが、本書ではそのような立場はとらない。
歴史が神学化する事の危険性を次の言葉で批判「歴史的事実の意味を探るにあたり、歴史上の問題に対してトランプのジョーカーを差し出すように宗教で決着をつける」。
又、歴史が文学化する例としては、意図も意味もないストーリーや伝説の話に歴史が堕落させてしまう「歴史学者の姿勢」そのものを批判している。
本書は「歴史とはなにか?」という率直な問いに対して、様々な学説を交えながらその究極の問いに対する答えを極めた一冊といえる。
二十世紀に入り歴史学は、現在の眼を通して現在の問題に照らすことによって、過去を見るところに成り立つという視点を得るようになった。
そこで歴史家には、記録する事よりも、歴史的事実をどう評価するかということが重要になる。
「すべての歴史は現代史である」クローチェ(イタリア 哲学者)
「歴史上の事実というものは、歴史家がこれを創造するまでは、どの歴史家にとっても存在するものではない」
カールペッカー(アメリカ 歴史家)
「歴史哲学は相互関係における両者を扱うもので、すべての歴史は思想の歴史である」
コリンウッド(イギリス 哲学者)
これらは歴史の重心が過去にあるか?それとも歴史の重心は現在にあるか?という見解に対する答えである。
歴史家は現在の一部であり、歴史的事実は過去に属しているために、過去と現在の相互関係というのがクローズアップされたのである。
これらを踏まえて、本の著者であるE.H.カーの「歴史とはなにか?」に対する答えが紹介される。
その、あまりにも有名なその一節はこうだ。
「歴史とは歴史家と事実との相互作用の不断の家庭であり、
現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」
また、本書では歴史学を科学的なアプローチで追求する方法も紹介されている。
「歴史的事実というのは、それ自体が特殊性を帯びた事実である。この特殊な事実に対して歴史家は一般性を見いだすことによって科学となりうる」と。この手法によって歴史的事実から解釈をうみ出すのは他の科学的手法と何らかわらないと説いている。
この考え方は、自己意識の発展を説いたデカルトの言葉になぞられる。
「人間というものを、ただ考える事が出来るだけではなく、自分自身の考えについて考える事ができる存在として、観察の動きをしている自分を観察し得る存在」
歴史が神学・文学にならないためにも、歴史と自己に対する二重の客観性が求められるのが歴史学といえる。
そして、歴史が過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とをもつことにり、過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話へと発展させることができるという。
私たちがどこから来たのかという信仰は、わたしたちがどこへ行くのかという信仰と離れがたく結ばれており、これこそが歴史に問い続ける我々の究極的目的なのではないだろうか?
本書でE.H.カーは、「未来に向かって進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて過去におけるみずからの進歩にも無関心になってしまう」と歴史を学ぶ意義を逆説的に説く事で、歴史という遺産が未来へどう活かされるかを端的な言葉で表わしている。
最後に、本書で印象深かったクローチェの言葉を引用しておく。
「非難する時に我々が忘れてしまうのは、我々の法廷は現在活動している危険な人々のために設けられた法廷であるのに、被告たちは既に当時の法廷で審されて、二度も有罪とか無罪とかの判決をうけることはできないという大きな違いである。〜中略〜歴史の物語するという口実で裁判官のように一方に向かっては罪を問い、他方に向かっては無罪を言い渡して騒ぎ廻り、これこそ歴史の使命であると考えているひとたちは、一般に歴史的感覚のないものと認められている。」
本旨とは関係ないのだが、大衆の非合理性を理解し利用して目的を達成する場合の方法として、オスカーワイルドが名づけた「知性より下のところを狙う」は非常に興味深かったです。
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目次(抜粋):
は し が き
Ⅰ 歴史家と事実
Ⅱ 社会と個人
Ⅲ 歴史と科学と道徳
Ⅳ 歴史における因果関係
Ⅴ 進歩としての歴史
Ⅵ 広がる地平線
原 注
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今年読んでいた本の中で1番興奮し共感した本なので記す。
この本はE・H・カーが1961年の1月から3月にかけてにケンブリッジ大学で行った連続講義をまとめ出版したものである。
本書はまず歴史的事実とはそれぞれの時代の歴史家が選択してきた事実という点から始まる。
そしてその選択にはその歴史家が下した価値判断があり、その判断を見ればその歴史家がどのような歴史家であるかが解るとし、同時に歴史家もまた時代や思想・社会環境に制約されているので、歴史家を学ぶ前にそれらを知る必要があると説く。
従って優れた歴史家とはその自らが置かれた被制約性を認識しているものであり、ジョルジュ・ソレルから
「われわれは自分の方法を意識しながら進んで行かねばならない。われわれは蓋然的で部分的な仮説を徹底的に検査して、いつも今後の訂正の余地を残すような暫定的な近似値で満足しなければならない」
と引用し、ミスティズム(神学、終末論)やシニシズム(全部意味ない or 意味がある or 好きなように意味を与える)になる事を避け、過去に対する建設的な見解という態度を採用する。
また歴史における進歩とは、広い意味での環境に対する人間の支配力の増大を指すとし下記のように説く。
「人間が先輩たちの経験から利益を得ることが出来る、-必ず利益を得るというのではありません- ということ、それから、歴史における進歩とは、自然における進化とは違って、獲得された資産の伝達を基礎とすること、これが歴史というものの前提である」
そして第1章で歴史とは何かに対して
「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」
と述べたものを
「歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきであったかもしれません」
と若干修正し、歴史における進歩を肯定する。
最終章では現代について述べており、その中で現代は上記した環境が人間自身に適用された時代であり、人間は人間自身の理性を用いて自分を変化させているとし
「恐らく、産業革命が生んだもっとも広汎な社会的結果は考えることを知った人たち、自分の理性を使うことを知った人たちの漸次的増加ということだったでしょう」
と歴史的解釈を述べる。しかし同時に英語使用世界、特にイギリスの相対的地位の低下に対して悲観的になるばかりにノスタルジーに浸り、理性への信頼が低下する事に強い危惧もまた同時に述べる。
全体を通して著者の知・歴史に対する真摯な姿勢を伺う事ができるだろう。耳触りが良かったり解ったつもりになる超越論的なものや超経験的なものは避け、建設的な態度をとり続ける姿に本当の大人を見ることができる。
基本的にあまり強くは書かず、柔らかい言葉を使うのは、本書の中であったように自身を取り囲んでいる制約に自覚的であるからである。しかしだからこそ口調がきつめになる点は相当程度の確信があってこそだろうと読む事ができる。
また本書でも何度か繰り返される今の自分が思う解釈というのは時間や社会空間に制約されており、それらは当然未来において解釈し直されるという態度には深い共感を覚える。
そこには未来の歴史家に対する明示的には書かないが温かい信頼のようなものがあるように思える。
そしてこの歴史という言葉を我々自身に置き換える事ができるならば、本書は現代に生きる我々に対して非常に多くのものを、彼の言葉を使えば「最も役に立つもの」を提供してくれているのかもしれない。
なにはともあれ、E・H・カーという人物の物事に対する真摯であるが故の控えめな態度に是非触れて欲しい。
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原書名:WHAT IS HISTORY?(Carr,E.H.)
歴史家と事実◆社会と個人◆歴史と科学と道徳◆歴史における因果関係◆進歩としての歴史◆広がる地平線
著者:E・H・カー(1892-1982、イギリス)[ケンブリッジ大学]歴史学者・政治学者・外交官
訳者:清水幾多郎(1907-1988)〈社会学〉[東京大学文学部]