紙の本
ハイデガー「決意」とカール・シュミット「決断」
2022/05/24 10:23
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投稿者:kapa - この投稿者のレビュー一覧を見る
三大難解哲学書の一つハイデガー『存在と時間』をNHK-Eテレ「100分de名著」が取り上げた。「ファスト映画」ではないが、2時間足らずで解読してくれるという。若手哲学者戸谷洋志氏によれば、西洋哲学の難題「存在の意味」について「哲学史全体をひっくり返すような議論」を展開し、「その後の哲学の潮流を決定的に方向づけた」「20世紀最大の哲学書」であり、分断と対立が先鋭化している危機の時代の今だからこそ読まれるべき「名著」だという。専門用語は最小限に、現在の日常生活に引き直した(例えば「いじめ」とか「SNS上の誹謗中傷」)わかりやすい説明であった。
ところでハイデガーと言えば、ヒトラーの賛美者でナチス加担者として批判されてもいる。第三帝国下ドイツ人はどの集団に属するにせよ、ほとんどがヒトラーという汚点に穢されている。科学・芸術分野でのナチス協力者を扱った研究書も多い。美術・建築・音楽、そして物理学にも協力者がいたが、政治とは縁遠いとおもわれる哲学の分野での研究が本書である。通常この類の研究は、協力者は批判され、抵抗者、本書ではアーレント、アドルノ、ベンヤミンの行動・思想が中心になるので、当時ハイデガーはスルーしてしまった。今回ハイデガーの思想を少しは理解したので、ナチス・ヒトラーとの関係とその背景をさらに深掘りするために再読してみた。
わかったことは、本書で協力者として批判される法哲学者でもあったナチスの桂冠法学者カール・シュミットとハイデガーの思想は似ているのである。キーワードは「決意性」シュミットの「決断主義」である。シュミットの「決断」は主権者が「例外状況に関して決定を下すこと」であり、独語はEntscheidung、「離脱・除去」を意味する接頭語entに「区分・区別する」を意味するscheidenを組み合わせ、様々に区分・区別された状態から/を離脱・除去するという意味合いになる。一方現存在が「良心の呼び声」にしたがって自分がどう生きるのかを考え「本来性」を取り戻すという、ハイデガーの「決意性」の独語はEntschlossenheit、「閉じる」「鎖でつなぐ」schliessenとentを組み合わせた名詞で「鎖から解放され」様々な選択肢や可能性が開けてくるという意味合いとなる。
シュミットの「決断主義」では決断が重要であり、その内容は問わない。そして総統が例外状態での決断者とした。一方ハイデガーの「本来性」を取り戻すための「良心の呼び声」に従う「決意性」では、その「良心」が何であるかはわからないのである。ハイデガーの弟子ハンス・ヨナスの批判によると、「ハイデガーはヒトラーの…決起と意志のうちに、歓迎されるべき何かをみたのだ。…とにかく決定すること、すなわち総統と党が決定することを毅然とした決意性それ自体の原理と同一視したのである」。シュミットは総統の決断を絶対のものとした。ハイデガーは総統の決断を「決意性」の思想と同一視し、ヒトラーを「本来性」の代弁者とみなしたのである。
ハイデガーは、総統を「超人」の地位にまで引き上げ、第三帝国の正当性をたかめるのに貢献したことは歴史的事実である。「100分」では、『存在と時間』は日常世界で周りの人がやっていることに従って「非本来的」に存在している人間が、どのようにして自分らしい人生である「本来性」を取り戻し選べるかを追求し描き出した「壮大な物語」と紹介していた。しかし本書では、個別「存在」の説明からほど遠く、実は過激な自己犠牲を教えるもので、戦争での武勇の目的でしか「存在」の「本来性」が認められない、ハイデガーは、ナチスへの心酔を探る対象として読まれてきた、と手厳しく批判している。
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ナチスに協力したもの/迫害されたもの、さまざまなケースを紹介しているが、ハイデガーに対する容赦ない弾劾がいちばん印象深い。もうこの本での彼の描かれ方ときたらガチのキング・オヴ・人間の屑。
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「ヒトラーの権力掌握以来、いまだに誰も精査していない部分がある。それは、哲学者集団が演じていた役割である」――哲学者というと、世捨て人のように社会や政治から離れて学問に打ち込む人々というイメージがあるかもしれません。しかし、彼らは本当に「残虐さ」から遠い場所にいたのか?この問いに答えるべく、筆者が哲学者とナチズムの関わりについて切り込んだのが本書です。
第一章では、ヒトラーに協力した哲学者たちが扱われています。まず著者は、道徳思想で有名なカントや、偏見という「不合理」とは無縁に思われる論理学者フレーゲといった過去の偉大な哲学者たちにおいて、すでに反ユダヤ的な文章が見られることを指摘します。こうしたコンテクストのもと、ヒトラーは自身の主張を正当化する「哲学」を打ち立てていくことになるのです。また、ローゼンベルクをはじめとした御用「哲学者」たちがナチスに都合のいい差別的主張を「哲学」としてまとめあげ、ハイデガーを
筆頭とした当時の哲学者たちが自己の利益のためにそれに追随していく過程は、著者が暴いているように、とてもショッキングなものです。つまり、多くの哲学者たちはナチズムに無関心だったのではなく、積極的に加担していたのです。
第二章では、ヒトラーに抵抗した哲学者たちが扱われています。ベンヤミンやアドルノといったユダヤ人の哲学者のほかに、クルト・フーバーのようなドイツ人の抵抗者が扱われています。この章はきわめてドラマチックに書かれており、思想に関心がない方であっても興味深く読むことができるのではないでしょうか。とくに、ドイツ人でありながら、自身の哲学的な確信に基づいてナチズムに抵抗したフーバーの章は、感動的でもあります。
「哲学者」がテーマではあるものの、本書は思想の解説書ではなく、哲学者たちのルポタージュ、あるいはドキュメンタリーといった体裁をとっており、とても読みやすいものになっています。その一方で、本書が投げかける問いは重要なものであり、それゆえに一読の価値があるでしょう。現代(とくに日本?)では毒にも薬にもならないと思われている「哲学」「思想」こそが、歴史を動かし、虐殺さえをも引き起こすことがあるということに改めて気づかされます。
各論文は個別具体的な歴史の実証を試みたものです。そのため、国際文化関係を研究する際の着眼点や手法、議論の組み立て方などを学べる本としても適しています。文化をめぐる問題に関心がある人におすすめの一冊です。
(ラーニング・アドバイザー/哲学 KURIHARA)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid= 1637717
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ヒトラーとナチスに影響を与えた思想家、協力者となった哲学者たち、迫害されたユダヤ系の学者や思想家達、抵抗した大学人を描いたノンフィクション。
影響を与えた思想家としては、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェが登場する。協力者としては、ドイツの大学の多くの大学人がナチスに協力したとされ、特に、カール・シュミットとマルティン・ハイデガーに章が割かれている。ナチスによって大学を追われたユダヤ人たちとして、不幸な最後に終ったヴァルター・ベンヤミン、アメリカに亡命したテオドール・アドルノ、ハイデガーと愛人関係にあったハンナ・アーレントが登場。数少ない抵抗者は、白バラ抵抗運動に加わったクルト・フーバーが取り上げられている。
ナチスと哲学者たちというくくりは面白い。著者によれば、「哲学はドイツの文化にとっては象徴的な存在」であり、哲学はドイツ人とその文化にとって「北米の人間が法制度に対して抱くのと同じような文化的地位を保持している。哲学者は名士(セレブ)」(p.10)なのだそうだ。つまり、少なくとも戦前のドイツにおいては哲学はメイン・ストリームにあって、それだからこそヒトラーはカント、ショーペンハウアー、ニーチェを引用し、哲人指導者であるように見せかけ、「彼は目の前にあったドイツの(伝統的な)成分を取り上げ、自家製の錬金術によって調合し、ドイツ人の口に合うカクテルに作り変えたのだ」(エルンスト・ハンフシュテンブグル)(p.53)そして、そのカクテルにはナショナリズムによる反ユダヤ主義、戦争賛美という毒が盛られていたわけである。
だが、その毒はヒトラーの独創ではない。カントやショーペンハウアーにも反ユダヤ的な偏見・差別意識が存在し、ヒトラーが登場した頃には「ナショナリズム、反ユダヤ主義、または人種主義が、知識人の地位には不可欠になっていた。」「ドイツの気高い遺産の下には、この隠された、暗黒面が広がっていたのだ。」(p.95)
しかし、この本のこうした文化史的な分析はここまでだ。すでに序章においてこの本のスタイルがドキュメンタリー・ドラマだと断わられている。それで、取り上げられる個々の哲学者達は、その思想よりもヒトラーとナチスに対してどう行動したのかに光が当てられている。ホロコーストという闇を背景にして浮かび上がるその光景はかなりスキャンダラスである。
ヒトラーは政権を掌握し、大学からユダヤ人、ユダヤ系の学者を追放し、焚書、カリキュラム検閲を行って教育と言論の場を支配しようとした。『二十世紀の神話』を著したローゼンベルクとその腹心、ボイムラー、クリークがヒトラーの尖兵となってドイツの大学に対する全面戦争を仕掛け、それに勝利する。
国民を改造するというヒトラーとナチスの使命に対しては、「大量の大学人が集団で協力」した。「抗議文も、キャンペーンも、抗議運動もなかった。」「ヒトラーと党に対する重要な反対の声は、ドイツでは一度も起きなかった」(p.125)そのかわりに大学人たちは、ユダヤ人たちが追放されて空席となったポストに嬉々として着いたとされる。沈黙の裏には利害の一致があったと言うことなのだろう。
こうして殆どナチス化した大学人たち、プロの哲学者たちは「古い価値や制度の破壊」、反ユダヤ主義と戦争賛美に進んで協力するようになる。特に、哲学史に残る知的巨人ハイデガーには一章を割かれてあり、ユダヤ人として追放される側になるハンナ・アーレントとの愛人関係も描かれており興味深い。ナチスに入党し、フライブルク大学の総長となるハイデガーは、恩師であるフッサールがユダヤ人であるために名誉教授職を解かれるのに際して何も手をうたない。ヒトラーを礼賛する。こうしたハイデガーの行動を著者は「地位と権力に惹かれたただの日和見主義者で、ナチス支配の下で出世と威光を手にする機会を狙っていただけなのだ」、と書いている。しかし、さすがにハイデガーは難物だったようで、反ユダヤ主義との関係や、「彼と第三帝国との知的関係については曖昧ではっきりしないまま」と書いており、挙句、「行動を起したのは事実だ」(p.176)という結論になってしまった。
戦後の光景もまたスキャンダラスだ。戦後、ナチスに協力した大学人の大半は裁判を回避して大学のポストに返り咲くのだから。追放されたユダヤ人学者たちは殆ど戻らなかった。また、彼らの業績に対する評価も、ナチス時代に抹殺されている以上、当然ながら正当になされたわけではない。しかし、協力者であった学者たちはナチスとの関係を「不幸な時代ということで大目に見られ」(p.350)、その業績が高く評価されている者もいるのである。
さて本書は、ヒトラーに対する哲学者たちというより大学人たちに近いだろう。著者が哲学者たちというくくりに注目したのは、前述したようにドイツ文化における哲学の位置もあるだろうが、それよりも著者が「〈道徳学(モラルサイエンス)〉の子孫」(p.354)である哲学のプロが「ナチズムを拒絶したのだろう」(p.9)とナイーブに思い込んでいたところへ事実を知って、隠されていた秘密をあばいたと思い込んだからのようだ。
しかし、哲学はそこからこそ始まるのではないだろうか。分析哲学の祖フレーゲのユダヤ人に対する差別意識という事態と、ハンナ・アーレントがアイヒマンの裁判で見出した「悪の陳腐さ」という概念を並べてみるならば、それについての何がしかの手掛かりがあるように思える。ドキュメンタリー・ドラマと自称している本書の範囲は越えそうだが。
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アーレントは1940年代初頭、ニューヨークにいながら、ナチのヨーロッパにおける残虐行為の全容を確かめようとし始めた。最終的解決の噂は、彼女にも届き始めていた。リバーサイドパークで長い散歩をしながら、彼女はよく、思索しつつも悲しい恥辱の気持ちに襲われていたという。亡命者用のドイツ語新聞「構築」への寄稿では、ユダヤ人問題に取組み、論争を引き起こしつつも、考えたことを激しく主張し、人気を得ると同時に悪評も獲得する。1942年12月18日付の「構築」は、かつてアーレントが収容されていたギュル抑留所かr、あユダヤ人が強制移送されたことを伝えている。指名一覧が長々と好評されていて、そのユダヤ人全員が絶滅収容所に送られたのだ。ユダヤ人編集者たちはキリスト教世界は今こそ行動を起こすべきだと訴えていたが、アメリカ国内の報道機関は最終的解決の報は本当に根拠のあるものなのかと懐疑的だった。とすれば彼女の政治分析は土地狂ったユダヤ女の怒号として黙殺されていたかもしれない
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哲学とは何か、というと非常に大きなテーマになってしまうのだが個人的には真理や本質をいかに捉えるか、という学問であり、その究極の目的は人間がいかに正しく生きるか、ということを探求するところにあるのではないかと思っている。その意味で邪悪の権化のようなナチズムに真理の探究者たる哲学者がいかに関わったのか、に興味があったので手にとってみた。また国民社会主義、いわゆるナチズムとは何か、という問題も定義する必要があると思うのだがこれは個人的には社会主義の一種であって民族を軸にした共同体の繁栄を意図するものだという理解をしている。平たく言ってしまえば帝国主義の植民地競争に出遅れたドイツが民族としての優位性を打ち出し近隣諸国を植民地として支配し自国のみの繁栄を図ったものという理解。つまり国としての統一が遅れたためにアジアやアフリカで植民地を獲得できなかったドイツが、いわば自分たちと似たような白人の国家を植民地とするために支配民族という概念を持ち出す必要があったのではないかと。そのようなイデオロギーの形成に哲学者がどう関わったのか、のいわば告発の書。最初にヒトラーが哲学の要素をいかにナチズムに取り込んだのかが説明され、次に世界的に有名な学者でしかもナチ党員であったカール・シュミットとマルティン・ハイデガーのようなナチズムに加担した学者たちのケースが取り上げられ、次にナチに自殺、亡命、処刑といった運命を辿ったナチズムへの反抗者のケースが取り上げられている。思想内容がくどくど述べられたりしていないので哲学の知識が乏しい自分にも興味深く読めた。驚くのはイデオロギーの形成に手を貸したいわばナチズムの作成者の多くが大した処罰も受けず、戦後のドイツにおいてもそれなりに重きをなした、というところ。日本に比べて戦後処理を正しく行った、と評されることの多いドイツだが、それはヒトラーを初め一部の人間に全ての罪を押し付けてあとはほっかむりしただけなのだ、ということがよく分かる。その意味で本来吊るされるべきはアイヒマンではなくシュミットでありハイデガーであるべきであっただろう。非常に興味深い内容だった。