紙の本
イランのを知る上での貴重な本。
2015/02/16 18:02
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投稿者:命"ミコト" - この投稿者のレビュー一覧を見る
ホメイニー師は、イランでは尊敬されている。
この本はホメイニー師に関するが、書かれています。
さらにイスラエルやアメリカが危険な理由もあるため、中東やイランの事が疎い人に読んでもらいたいです。
紙の本
ホメイニー師のコンパクトな評伝
2021/05/25 16:14
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投稿者:mt - この投稿者のレビュー一覧を見る
ホメイニー師のコンパクトな評伝。亡命中は反王朝派を結集するために自身の思想を前面に出さなかったり、革命後も国内では聖と俗を分ける伝統的な考え方のウラマー達との政治闘争があったりと政治家としての部分が興味深い。長期に及んだアメリカ大使館占領やイラン・イラク戦争も国内の反対派への牽制が含まれていたというのは面白い部分であった。もちろん思想の部分にも短いながら触れており、プラトンの哲人王を祖にし、神秘主義に傾倒する決して「伝統的」でないイスラーム主義者としての姿が描かれている。
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王権と宗教的権威が並立してきた近代イラン史の中で、最後の王朝であるパフレヴィー朝に至り、国王が石油収入とアメリカの支持を背景に世俗化(我々の言葉で言えば近代化)政策を進めるに伴って、パワーバランスが国王側に傾いていく。1960年代にイスラム教シーア派の高僧に登りつめたホメイニは危機感を抱いたのか、国王のイスラム法軽視に対する激しい批判を展開し、イランから追放される。このまま異国で朽ちていれば、近代化に抗った激情の宗教家としてイスラム史の片隅に名を残すのみだったかもしれない。しかし、国王が70年代に進めた性急な近代化政策が石油価格の反転に伴って社会的混乱を惹起し、イラン国内は騒然となる。こうして1979年、ホメイニは革命前夜のイランに帰国する。1917年、レーニンは封印列車でドイツを通過しロシアに帰国したが、ホメイニをエールフランス機に乗せたフランスにはどのような意図があったのだろうか。
ホメイニを現代中東史の中でどう評価するか。我々も含む西側の人間は、イスラム世界の指導者の一人として、彼が及ぼした影響から語ろうとするだろう。そして、イラン革命がイスラム原理主義の覚醒のきっかけになったようにも見え、現在のイランがアメリカを向こうに回す存在であることから、民主主義の抑圧者、テロリズムの支援者というイメージを持つかもしれない。
筆者はホメイニがイスラム法学の権威で、叡智学を極めた哲学者であると述べている。イランの最高権力者になってからも、質素な家に住み、勉学と思索を欠かさなかった。一方で統治の現実の前にはイスラム法解釈にも段階的妥協が求められるとするリアリストの側面もあった。もう少し哲学者としての彼を知りたいと思ったが、日本語で手軽に知ろうというのは難しいのかもしれない。
哲学としてのイスラムの理解が難しいとすれば、ホメイニを理解するよすがはイスラム革命や、彼らが志向した政教一致体制の現実から得るしかない。イランイスラム革命体制とは、民選の大統領と議会が行使する統治権・立法権を、聖職者がイスラム法解釈という形で牽制する体制である。聖職者の判断の拠り所は神と預言者とその後継者であり、つまり7世紀のムハンマドの言葉と、後代の解釈神学の積み重ねということになる。キリスト教神学に比べて現実の統治に対する口出しの度合いが大きいために、ホメイニやその後継者ハメネイは民主主義を抑圧しているように見える。しかし、ホメイニが目指していたのは、おそらく、米国流の物質主義でもソ連流のマルキシズムでもない、イスラム教に基づく公正な社会であり、様々な軋轢を呼びながらもその革命を成就させた以上、第三局に位置する一つの政治思想として評価され、研究されてもよいのではないか。
日本で報道される中東情勢を聞く限り、聖職者が権力を握ったり、政治に容喙する体制というのはイランの他に見られない。「アラブの春」を経てアラブ諸国の政治体制が清新になり、公正になったかといえば、必ずしもそうではない。各国にはホメイニに相当する聖職者はいないのか、それともプラトンばりの哲人統治は理想にすぎないのか、イランを「悪の枢軸」という色眼鏡を通してではなく、一つの選択肢とみることで、中東を理解する幅も広がるのではないかと思う。