紙の本
差別論的に評価できる本ではない気が……
2021/03/31 19:35
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:3π - この投稿者のレビュー一覧を見る
常に自己批判の精神を持つべき、という基本線には同意するが、その他の部分がよろしくない。というかこの人、あまり差別に関して学んでいないのではと思ってしまった。障害の社会モデル、ディスアビリティ/インペアメント概念を知らなそうとか、性差別は「自然化」されないけど障害者差別はされるみたいなこと言ってたりとか、「~という問題に対して差別反対論者は取り組まない」って何度も言ってるけどだいたいいや取り組んでるでしょって思えたりとか、「逆差別」「差別語狩り」を大真面目に問題視してたりとか(問題視はいいけど問題化のしかたが既に散々言われてる議論を踏まえてないというか言ってることが某爪真吾と同種でややマシという程度)。これは単に私が普段聞く言語と哲学の言語が違うということなのだろうか……。奥付見たらそんなに古い本でもないし。
最後の方にあった成田空港での経験はリアリティがあってうんうんってなるが。
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友人におすすめ頂いて読了。
大学で哲学も習わなかったフツーのサラリーマンの身として、哲学者という人種の方にはそうそう出会わないのですが、まぁこうまでも実直に、真摯に生きるものなのかと圧倒されるような感覚を味わいました。
その先、危ないですよ!って指摘しても、進んで突っ込んでいくような。タイトルどおり「差別」を扱った書なのですが、センシティブな話題溢れるこの分野に、むしろだからこそ進んで言及する。生きるって大変だ…。
非常に読みやすい、(哲学者の引用はともかく)平易な言葉で書かれた、にもかかわらず言葉のひとつひとつが重い、考えさせられる、そんな本です。
特に序章は凄い。著者の問題意識が紡ぐ語りかけは鋭利で、逃げを許さず、文章に目が釘付けになりました。
また、第二章の「哲学者は―社会学者や教育学者あるいは精神病理学者とは異なって―、こうした『解決できない問題』に視線を注がなければいけない。」という一文からは、著者の矜持や覚悟、哲学というものへの信頼を感じました。
この本で例示されている差別感情を一切持ったことがない!という人は、きっとほとんどいないんじゃないかと思います。
だからこそ。この本を読んだ後は、今までハッキリとは意識していなかったそんな感情が、自分に対して突きつけられることになる。それに向き合えるかどうかは別としても。
誠実に生きるって、やっぱり大変です。
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誠実でありながら、他人が幸福であるように行動するという主張で締められる。要は、差別に関しては怠惰に考えることをやめてはダメで、差別に敏感であり続ける必要がある。
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現実的かどうかはわからない。しかし、どうだろうか? と考えることは大切だと思う。綺麗事かもしれない。しかし、一面的な綺麗事とは一線を画すと思う。加えて、必要になるであろう景色も著者は提示している。どこまで添えるかは各人それぞれだと思うけれど個人的には、こういう率直な議論が一番、響くように思う。有意義な読書だった。
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本棚に中島義道の本が何冊か刺さっている。本棚に中島義道の本が何冊もあるのは恥ずかしいことだ。それは、社会に適応していないことの証明である気がする。しかし何故か読んでしまう。書名がネガティブで魅力的なせいもあるが、ひねくれた中島節にウンウンそうだよな~とうなずきたくなるからだ。
この本は、いつもの中島節エッセイでありつつも、ちょっと趣が異なる。本の内容としては『ひとを<嫌う>ということ』と重なる部分があるけど、哲学の領域にもう一歩踏み込んでいると思う。特に前半部分は学者や哲学者の言葉の引用などもあって、じっくりと読まねば言わんとしていることを理解するのが難しい。弛緩した脳みそには噛み応えのある本だった。もう一回最初から読み直したほうがいい気がする。
前半部分では主に、差別のメカニズムについて書かれている。正常でありたい、普通でありたい、善くありたい。そんなところに差別の根があるのは、ぼんやりとわかった気がした。これらはどれも周りとの比較において成り立つことだ。周りを気にし過ぎると生き辛い。そこで、「人と比較するのをやめよう」なんてことを言う人がいる。みうらじゅん大先生はそれを「比較三原則」と称して、「親、他人、過去と比較しない」なんて言っている。なぜそんなことが言われているかというと、実際はそれが殆ど不可能だからだろう。残念ながら、人は人と比較せずにはいられない。
所属するコミュニティを誇ってしまう問題も考えさせられた。そういえばネット上で「普通の日本人です」などと名乗っている人のネトウヨ率の高さよ。土地や家にがっちりした居場所がある、囚われている人は、どうしても保守的になる。それは内と外の区別が明確になることだし、差別の根になることだ。ただやはりコミュニティに根を張っているほうが精神的には安定しているだろう。そういう人は自信満々というか高慢に見えることがしばしばある。しかし人はどの時代の国、土地、家に生まれるかなんて選べない。つまりコミュニティを誇ってしまうかどうかなんて選べない。
そして反差別を掲げる人が差別的である問題。逆差別になる問題。これもネット上でよく見る。障害者やフェミニストなどなど。もちろん正当な権利を主張する必要はある。しかし差別されているから、弱い立場だから、被害を受けたから、だから正しいのか?イコールで正しいと結び付けていいのか?これは難しい問題だと思う。自分のしんどい状況や立場を訴えたりして、それが正しさの主張に聞こえてしまうことがある。その結果、周囲から嫌われてしまう。正しさを訴えることなく正当な権利を主張をするのは、相当に頭を使う必要があると思う。
障害者とすれ違う時の話はリアルだ。目線を、まざざしをどうすればよいのか?同じ経験を時々するから、ここに書いていることは全くの自分事だ。やはり相手にバレバレなんだろうか。きっとバレバレなんだろう。つまり無化しているってことなんだろう。ただ、これは慣れの問題ではないかという気もする。見慣れていれば、身近に接していれば、こういうことにはならないのではなかろうか?
そして本書の終盤。ではどうすればよいのか?わかりやすい回答はない。ここに書いてある結論も何を言っているよくわからない。自分なりに解釈すると、自分の差別性を正確に自覚し、理念に達していないことを自覚する。ということだろうか。差別の最大の問題は、それが差別であることを自覚できないことだろうから。
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差別感情という人間の奥底に潜んでいるものを徹底的に炙り出している力作。
著者の中島義道に関しては、社会不適合である自意識のある人に寄り添い、励ましてくれるような言葉を投げかけてくれるような印象を勝手にもっていたが、概ね間違ってはいなかったようだ。本書でも中島義道は「常識」や「普通」といった言葉の危険性を訴え、違和感を実直に書き連ねることで、同じような経験をした読者との間に共感の橋を架けている。
一般的に疎まれる「高慢」や「驕り」などの否定的感情と「誇り」や「高邁」などの肯定的感情を対置させ、どちらにも差別感情は含まれていると説く。
自分自身を肯定する感情のそばには、他者を蹴落とす精神も必ず付いて回るという。相手が社会的弱者である、ということを無意識にでも認識した時点で差別感情は必ず発生しているともいう。
ただ、筆者はすべての差別感情をなくすことは難しく、むしろ無くそうといった偽善的な行為はますます社会を窮屈にしていき、そういった(強い)差別反対の意思表示は逆説的に差別を助長しているとまで説く。
どうすれば良いのかといった問いに対しては、解決策を具体的に提示するわけではない。ただ、どんな些細な事象であれ、必ず差別感情は発生するので、その感情と自分が向き合えるか、意識できるかどうかというのがポイントなのだろう。
文中に出てきた「パレーシア」という概念が気になるので、その発案者のフーコーもかじってみたいと思った。
昨今の群集化した怒りの感情や、過激な差別反対主義に違和感を感じる人は読んでみても良いかもしれない。
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-非権力的が権力に立ち向かい自らの理念を実現するためには、それ自身が権力を持たねばならないという自己矛盾に陥る。
SNSでだれかが悪を糾弾しあっというまに炎上、忘却を繰り返す世間。正義とは善とは、わからなくなる今日に読みたい本。新聞で引用されていた、フランス文学者の渡辺一夫の”寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない”という言葉を思い出す。
寛容は寛容にしか守れない。
難しいけども、常に繊細な自己批判を行うこと。いかなる理論もそれを欠如していて、無条件に自らを正しいとするならば、背を向けてよい、というメッセージ。
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普段から差別について考えていると、あまり目新しい感は受けないと思う。内容は格別に革新的ということもない。不快や嫌悪の情を根本から否定することはできないという論にはまったく同意するが、その依拠するところが「人間らしさ」の喪失であるのはいささか心許ない。学術書というよりはエッセイに近い印象をうけた。
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差別感情はどこから生まれ、育っていくのか。
偏った者が差別感情を生み出していると考えられがちではあるが、所謂ふつうの人こそが差別の温床である。ふつうの人が、差別などしていないという意識でいるからこそ、無意識に差別が起こるのだ。
ナチスドイツがその最たる例である。
私たちはあらゆる行為に差別感情が付随していることを意識し、「他人」を自分の目線から外すことのないよう行動しなければならない。そのために、差別する自分と向き合わねばならない。
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差別感情を軸に「繊細で自己批判的な精神を常に持ち続けること」を一貫して主張している。なお、本書の主張は殆どが著者の経験に依るので、評論というよりかはエッセイに近い。(もっとも、感情という極めて主観的なものを対象としているので仕方ないことではあるが)
そうなると必然的にこの主張は納得できる/できないがより顕著になるので、そこから自身の「差別感情」を追求れば理解が深まると思われる。
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自分や他人の汚さ...という地獄からの脱出法が書いてあった。
物事の底が見えると、それはそれで安心してそれなりに過ごせる気がしてくる。
不思議だ。
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図書館でタイトルが気になり読んでみた
無知な私からしたら内容が難しいところもあって、理解しきれない部分もあったけど、
社会的弱者に対して、かわいそうという感情を持つことがすでに差別しているのであって、
こんなに制限された状況なのに必死に生きているのにそれに比べて私は、っていう風に自分を省みないといけない。
という内容が書いてあって、印象に残った。
差別感情を完全に消すことはほぼ不可能だけど、その感情と常に向き合っていくことが大切。
印象に残ったフレーズ
差別感情に真剣に向き合うというとは、「差別したい自分」の声に絶えず耳を傾け、その心を切り開き、不断の努力をすることなのだ。
こんな苦しい思いをしてまで生きたくない、むしろ全てを投げ打って死にたいと願うほど、つまり差別に苦しむ人と「対等の位置」に達するまで、自分の中に潜む怠惰やごまかしや冷酷さと戦い続けることなのだ。
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ここまで心を抉られた本は今まで出会ったことがなかった。出会えてよかった。ほんとうにそう思う。
本書は疑問を投げかけてくれた。あなたの『普通』は誰かの『普通』ではない。
冒頭は、すべての差別や悪の感情を抑え付け、なくすことは可能か?そしてそんな世界は面白いのか?様々な感情があるからこそ人間であり、悪の感情も人間存在を輝かせる宝庫であると述べている。人間だからこそ攻撃本能があり、敵がいるから味方がいる…そんな人間の"らしさ"に差別は潜んでおり、だからこそ、差別をやめましょう。差別用語を発したものを罰して辞めさせましょう。なんてことを続けても意味がないのだと。
すべての行為に、相手への不快・嫌悪・軽蔑・恐怖、そして自分の肯定的な誇り・自尊心・帰属意識・向上心という感情が潜んでいる。
特に今の時代は、差別に厳しい。明らかな差別用語などは絶対に発言してはならない。
ただそれは表立ってないだけであり、差別感情はなくならず、内面に閉じ込められて表から見えないだけだ。
一方で、被差別者からすると、それらの感情を敏感に受け取っている。そこには明らかなまなざしがあるからだと。まなざしの差別は、かなり根深く、これは自分自身に切り込みを入れていく必要があると感じた。
被差別者へのまなざしの中に隠されたこのような自分の醜さを突きつけられながらも、自分自身と対話する。自己批判精神と繊細な精神をたずさえて、絶えず対話をつづける必要がある。
著者は自分が障害者とすれ違う瞬間に自分が抱いた言いようのないなんとも言えない感情と向き合った日のことを綴っていたが、これは多くの人が体験したことのある感覚・感情ではないかと思う。
私が抱いたのはただの哀れみではないか?勝手に相手の人生は過酷である、なので尊敬すると思い込むことで自分に免罪符を与えていないか?
深掘りすればするほど、非常に気持ちの悪い、醜い自分が浮き彫りになる。
でもそれでいいのだ、と著者は伝えている。
自分の中の信念ー差別すべきではない、こうあるべきだなどーに対する誠実性とを保ちながら、他人の幸福を願うことはできるのか?
究極の問いであるし、正直答えはない。
未来は暗い。だがそれが最善である。
ジョン・キーツの言葉を思い出した。
暗いからこそ、考えるし、考えて対話することをやめないのだと思う。
さまざまな感情は思い込みや刷り込みから始まる。歪曲され、一般化され、省略され、それらが感情となり、発露し、嫌悪なのか不快なのか何かしらの名前がつけられる。
心理学を学んだ時、この仕組みを知り自分がいかに思い込みや刷り込みの色付きメガネをたくさん持っているかに気が付いた。すべての行為において、瞬時に眼鏡の色を変えて生きている。それが人間だと諦めて良いのか?それは違うだろう。
その思い込みや刷り込みの芽を摘み、多角的に物事を見ることができるようにさまざまな意見・信条・身分・立場の人々とコミュニケーションを重ね、差別の実態をしり、繊細な精神で思考し続けること必要だ。書くと簡単で、綺麗事のように聞こえるが、相当に過酷だ。ほぼ毎日とるにたらない自尊心や、著者が最後に記している『虚しい誇り』の下に生きている。
そんなどうしようもない自分と向き合うことが、他者との共存や多様性をこの社会にもたらすのだと理解して読了した。
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ウーマンリブや障害者解放運動については、言いたいこともあるが、最後の息子を誤って引きこ…してしまった母親が自責に耐えながら自死せずに生きているとしたら、どんな勲章もこれに及ばないという考察は本当にその通りやと思った!
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生きてるだけで、目線を送るだけで、"誰かを踏み付けてるかもしれない"という繊細な心を持つことが必要、との主張。
障害を持った友人、知人らと接する時や、自身が主催している社会問題の勉強会の時にあったどこか"モヤモヤ"した、スッキリしない部分をハッキリ言語化してもらった感覚。
日々、もっと繊細に生きようと強く思えた。
仏教はなんでこんなに『苦』にフォーカスするんだろうとモヤモヤしていたのだが、確かに著者の視点で世の中を見渡したら『苦』ばかりだなと、論点はズレるが、後書きを読んで、別の納得感も得られた。
数十年経ったら古典として、多くの人に読まれ継がれそう。